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憑 狂 ~ツキクルウ~ Ⅶ

 描きかけの百合子の絵を見る。
 男性の背中。と言うには、あまりに幼く細い。高校生、いや、中学生と言っても通用するのではないだろうか。自分の背中は、こんなにも幼いのだろうか? 大基は、百合子の絵を見て、首をひねる。

「大ちゃん、お待たせ。出来ました。召し上がれ」

 百合子がテーブルに手料理を所狭しと並べて、声をかけた。

「あ、はい、すみません」

 大基の言葉を、百合子はくすくすと笑う。

「なんで謝るのかしら? 一緒にお食事ができて、私うれしいのよ」

 笑顔で小首をかしげる百合子を見て、大基は照れて頭をかく。椅子に座り、箸を取る。紙の袋に入った割り箸だ。ぴりぴりと袋を破いて箸を出す。いつも、迷う。この袋の中の爪楊枝は、どうしたらいいのだろう? 視線が泳ぐ。
 逡巡して、箸置き代わりにテーブルに置いてみた。その一部始終を見ていた百合子がくすくすと笑う。

「ごめんなさいね、割り箸で。お客様なんて、お迎えしたことがないから」

 笑われて、いっそ清清しくなった。爪楊枝は放っておいて百合子の手料理に向かう。
 テーブルの上は料理番組で見るような、華やかで洒落た名前も知らない料理で埋め尽くされていた。
 盛り付けも完璧で、箸をつけて崩すことが躊躇われる。大基の箸は、とりあえず正体がはっきりしている、好物のカラアゲに向かった。

「そうだ、そういえば大ちゃん、彼女とはうまくいってるの?」

 緑色のポタージュスープを一口飲んでから、百合子がたずねる。

「え? 彼女って……」

「学校の食堂で一緒だった女の子。可愛い子よねえ。なんだか、一生懸命で」

 笑顔で話す百合子に、何故かいたたまれない気持ちを感じ、大基はカラアゲに集中しながら答える。

「ええ、まあ、ぼちぼち」

「女の子はさびしがりやさんなんだから、ちゃんとかまってあげなきゃだめよ。……なんて、大ちゃんに時間を取らせてる私が言うのもヘンですけど」

 いやあ、そんな、などと口の中でもごもご言いながら、メシを飲み込む。実家の母と恋愛談義になったような場違いな気恥ずかしさを覚えた。

「そうだ、良かったら彼女も一緒に、一度みんなでお食事しない? 私、お料理するから……」

 そう提案する百合子の言葉を、大基はこの世のものとも思えぬ恐ろしいもののように感じて、慌てて振り払う。

「いや、あの! 全然、大丈夫ですから! あれは! ええ! それより、百合子さんは、どうなんですか?」

 百合子はきょとんとする。

「どうって、なに?」

「あの……。恋人……とか、いたりとか……。その、オレが入り浸ってて、迷惑とか、そういう……」

 百合子は、ぷうっと吹きだす。

「いやだ大ちゃん、そんなこと。だって私たち、そんなのじゃないでしょう?」

「はあ……まあ……。それはそうなんですけど……」

 盛大に笑われて大基の自尊心は、ほんの少し傷ついた。

「大ちゃんは、そんなこと気にしないで。いてくれるだけで嬉しいんだから」

 にこにこ笑う百合子の顔を正面から見ることが出来ず、大基はうつむいて割り箸を見つめた。

 椅子に座り、百合子に背を向ける。
 背を向けると言うより、背中をあずける、と言う感じを最近は覚える。身を任せ、視線にまさぐられるままに、侵食をゆるす。

 自分の背中なのに、なぜか自分のもののような気がしなくなる。きっと今、手で触れられても自分の背中を触っているとは思わないだろう。

 リジンカン。

 離人感。そうだ、きっとそれは、こんな気持ちだ。
 手の感触は確かにあるのに、手が触れた自分の皮膚の感触はない。

 自分で自分を触っているはずなのに、伸びきった古タイヤを触っているように感じる。
 オレの背中はこんなにもたよりなく、ブヨブヨしているのだろうか? と自らの背中に触れれば、きっと不安に思っただろう。

 寒いような気がする。
 背骨を通って、頭の芯まで、氷が入っているように。しかし身体は熱を持ち、ずきずきと脈打つ。

 じっと座っていることに耐えられない。今すぐに立ち上がって……

 たちあがって、じぶんは、どう、したいんだろう?

 大基はいつも考え込む。
 本当に立ち上がりたいのだろうか? 本当はいつまでもこのまま、座り続けていたいのではないだろうか。

 眩暈がする。
 椅子ごと背後に引っぱられているような気がする。じっとしているのに、いつの間にかキャンバスの向こうに引きずり込まれているような気がする。

 怖くなる。
 百合子の手元が怖くなる。
 ナイフを持っているかもしれない手元が怖くなる。あるいは、遅効性の毒を振りまこうとしている手元が怖くなる。

 百合子の視線が怖くなる。
 背中を透かして、大基のちっぽけな欲望を見通している百合子の視線が怖くなる。
 気付けばいつも、だらだらと脂汗を流しているのだ。
 悪い風邪をひいたように震えていると、百合子の視線は、まるで大基の背中を抱きしめ自らの体温をわけようとするかのように、温かく身体を包み込む。

 とても落ち着く。
 産まれる前の暗闇を思い出すような安寧。いつまでも浸っていたいような、今すぐどこかに逃げ出したいような。

 体の芯が熱を持つ。
 頭がボーっとする。
 自分の境がアイマイになる。
 オレはだれだ? なにものだ?

 わかるのはただ、抱きしめられているような安心感。このまま百合子の視線に包まれて、溶けてしまったら、どれだけラクだろう……。



「いいかげんにしてよ!」

 さゆみが大声で怒鳴る。大基は何を怒られているのか理解できず、きょとんとする。

「二言目には百合子さんが、百合子さんがって! そんなにあの女がお気に入りなら、彼女の部屋に住めばいいじゃない!」

 大基はフッと笑って、言う。

「なにを怒ってるんだよ。オレと百合子さんは、そんなんじゃ……」

「そんなんじゃないなら、なんだっていうのよ! はっきり言いなさいよ!」

 さゆみは大基の胸倉をつかまんばかりの勢いで叫ぶ。大基は途方にくれる。
 そんなん、でないことだけは、はっきり言えた。しかし、では何なのかと言われると正直、大基にもよくわからない。産まれて初めて経験する感情で、関係だった。
 とにかく大基は百合子にすべてをゆだねていた。それは間違いない。

「……さいってー」

 答えられない大基に、さゆみは冷たく言い放つと、部屋から飛び出して行った。
 遠ざかって行くハイヒールの足音を、バタン、と扉が遮る。

 大基はぼんやりと、閉まった扉を見つめていた。
 なぜか、トイレの前の廊下がギシっと大きな音を立てた。



 ふと、目覚める。
 ずいぶんと汗をかいているようだ。ぼんやり見回す。

 薄暗い部屋。百合子の弟の部屋。
 あるじに急に見すてられ、置いて行かれた部屋は、やけにひんやりと寒い。毛布を口元まで引っぱり上げる。

 そういえば、いつも寝具は百合子の部屋から持って来る。この部屋の押入れの中に布団はないのだろうか?
 起き上がって、押入れを開けてみようとしていると、声をかけられた。

「大ちゃん、起きたの? 先生の急用で、出かけなくちゃならないの。大ちゃんは、もう少し休むでしょう? お食事はテーブルに準備しているから、起きられるようなら食べてね」

「うん……」

 ぼーっとしている。なんだか、頭がうまく働かない。
 あれ? 今、何を考えていたんだっけ……。とにかく眠くて仕方ない。
 人が出て行き、鍵がかかった音がする。横になり、目を瞑る。
 すうっと、眠りにおちる。

 立っていた。
 友達は皆、早々に見学を切り上げ展示室から出て行ってしまった。大基は独り、地獄絵の前に立っていた。

 四つの車輪に手足をくくられ、それぞれ別の方向に引っぱられている人がいる。鬼が持つ金棒で炎の中に突き落とされる人がいる。口を大きく開かされ今にも舌を引き抜かれそうな人がいる。尖った山の岩肌を裸足で歩かされる人がいる。

 怖い。
 怖くてたまらない。
 けれど目を逸らすことが出来ない。

 ふいに、ツン、と鉄錆の臭いがした。

 すんすんと嗅いでみると、臭いはどうやら、絵のほうから漂ってきているようだ。地獄で苦しむ人達の血の臭いなのだろうか?

 出来るだけ鼻を絵に近づけてすんすんと嗅ぐ。手を伸ばせば、そこにある、触れようと思えば、簡単にできる。しかし臭いはなかなか届かない。
 くたびれて立ち上がると、臭いが、より強くなった事に気付いた。地獄絵から臭っているのではない。
 すんすんと嗅ぎながら首を右に回す。

 この絵だ。

 美しい天女が大勢描かれた真っ白に光り輝いているような絵。
 この絵のどこかから鉄錆のような臭いがする。その出所に気付いてしまえば、臭いはもっと強く感じられた。

 鼻の中にはすでに鉄錆とは間違いようもない、血の臭いが充満していた。天上と言う言葉は知らなかったが、この絵がとても清らかなことはよくわかった。
 ひとつの染みも、ひとつの汚れもないように見える。

 大基はすんすんと臭いを嗅ぎ、絵にどんどん近づいていった。隅から隅まで嗅ぎまわる。身を乗り出し過ぎて、とうとう展示境界を示す鎖を乗り越え、絹布に描かれた絵のギリギリまで鼻を近づけて嗅いだ。

 みつけた。
 ひとりの天女のひたいのうえ、
 花のかんむりにわずかばかりの影がえがいてある。
 しろいせかいのなか、この影だけが、くっきりと

 黒い

 血だ。

 この影は血だ。

 天女は血で汚された。
 もう天女の命は長くない。天上で遊び暮らし、慈悲も持たぬ魂の行き着く先は。
 大基は首を左に向ける。

 地獄。

 そこからは血の臭いなどしてこない。そこに描かれた人々は、苦しみに苛まれながら、何故かとろんとした夢見るような顔つきをしているのだった。
 見ていると大基もとろんと眠くなり、あんなに怖かったのが嘘のように、この絵の前から離れたくなくなった。ずっとここに立っていたい。

 閉館の音楽が流れ、大基は我に返った。鎖の内側に入ったことが知れたらひどく怒られるだろう。あわてて鎖の向こうに戻ろうとしたが、ふと、踏みとどまった。

 地獄の鬼が手にする槍についている赤黒い血を、そっと指で掻き取る。指の先を舐めてみるとわずかに甘く、いつまでも舌に残った。


 しばらく、こんこんと眠ったようだった。ずいぶんと深いところでたゆたうように、夢を、見ていたようだった。

 目を開けて暗い天井をぼんやりと見る。
 夢の内容は覚えていない。ただ何か、大事なものを忘れてきたような気分だけが残っていた。
 だいじなだいじなわすれもの。
 何だったろう。

 喉が渇いていた。のっそりと身を起こし、台所に向かう。
 マグカップに水道の水を注いで飲んだ。カルキくさい。
 
 なんだか、ずいぶん久しぶりに水を飲んだような気がする。和室に戻り、横になろうとして、ふと襖を開けてみた。
 大事なものは、ここに入っていたのではなかったっけ?

 しかし、何も入っていない。ガランとしている。
 そうだここじゃない。
 天袋を開け、手で探ってみる。布包みがあった。引っ張り出して畳に下ろす。
 古臭い紺色の風呂敷包みを開いてみると、幾枚かのキャンバスだった。男の子の背中の絵。

 そうか、ライフワークだ。
 一枚ずつめくって見る。

 下に行くほど、背中は幼くなっていく。
 学生服を着ている背中が数枚、一番若い背中は小学生くらいだろう。
 白いTシャツを来た背中を、ケント紙に水彩絵の具で描いてある。裏面には「大吾 十歳」と書かれている。几帳面な文字だった。

 ふと、なにか違和感をおぼえた。考えてみても見当がつかない。
 あきらめて絵を元通りに包み、押入れにしまった。
 なぜか天袋に戻すのではなく、押入れに入れるべきなのだという気がした。


 目を覚ますと襖の向こうに明かりがついていた。もそもそと身を起こすと、物音を聞きつけたのか、百合子が声をかけた。

「大ちゃん、大丈夫?」

「うん、だいじょうぶ」

 ぼんやりしたまま答える。本当は大丈夫かどうか、判然としない。ぐるぐると眩暈がするし、身体はぐったりと重い。

 しかし、いつまでも寝ているわけにもいかない。今、何時だろうかと思ったが、時計も携帯も持っていない。
 キッチンに顔を出すと、真っ白いあかりが目にしみた。

「まだ寝ていたらいいのに」

「そろそろ帰らないと……」

 百合子は、にこにこしている。

「何か、ご用事?」

「用事というわけでは……。そろそろ帰らないと、明日、学校だし……」

「休めない講義があるのかしら?」

 なんで百合子さんは、こんなに質問するんだろう? まるでオレを帰したくないみたいじゃないか。
 また、淡い期待を抱きそうになり、苦笑する。オレは、彼女の弟でしかないのに。

「前期の牧田ゼミ落としてるから、後期は頑張らないと。それに、就活事務局にも登録しないと……」

 百合子は小首をかしげてたずねる。

「就職活動って……。大ちゃん、教職員の資格を取るんでしょう? だったら、まだまだ先の話だわ。もっと、ゆっくりでも大丈夫よ。焦ってもしょうがないわよ。ね、とにかく、ご飯にしましょう」

「はあ……」

 曖昧にうなずきながら、そういえば百合子さんは就職活動はしているんだろうかと考えたが、聞いてみるのも悪い気がして、黙っていた。

 百合子の部屋を出たときには、午後十一時を過ぎていた。
 真っ暗な道をぼーっとした頭のまま歩く。なんだか、何も考えられない。
 あのまま、あの部屋にいたかったのに何で自分は出てきてしまったんだろうと後悔する。今からでもとってかえそうかなどと、なかば本気な自分が可笑しくなる。
 一人でくすくす笑いながら歩く。

 通りすがった若い女性が、大基を見ないように大げさに目をそらした。それがまた可笑しくて、笑いが止まらない。
 くすくす、くすくす。
 なんだか、肌寒いような気がする。そういえば、先ほどの女性はジャケットを着ていた。自分は半袖だ。それがまた可笑しくて、
 くすくすくすくす。
 くすくすくすくすくす。
 笑う。

 ドアを開けて部屋に入ると、ベッドの上で置いてけぼりの携帯電話がピカピカと光っていた。取り上げてみると着信もメールも大量に入っている。ほとんどが、さゆみからだ。
 一件だけ、さゆみからの留守電メッセージを聞いてみた。

「ちょっと、あんた、いいかげんにしなさいよ。牧田先生から呼び出し! 明日、十時、牧田先生の部屋。行かないと単位はないって! 以上!」

 目の前に能面のようなさゆみの顔が浮かんだ。また可笑しくなって、くすくす笑う。
 メールは見ない。どうせ大した内容じゃないだろう。
 服も着替えず、そのままベッドに倒れこんだ。体が重い。
 地にもぐるような感覚にひきずられ、眠りに落ちた。



 蜘蛛が足をうごかしている。
 くるくるくるくる。
 巣を張り、かかったエモノを巻き取る。
 くるくるくるくる。
 もうじゅうぶんと思ったのか。

 蜘蛛はエモノにながい鋏角をつきたてる。
 ちゅうちゅうと吸う。
 ちゅうちゅう、ちゅうちゅう、ちゅうちゅうちゅう、ちゅうちゅう、ちゅうちゅうちゅうちゅう、ちゅうちゅう、ちゅう、ちゅうちゅうちゅうちゅうちゅう。

 蜘蛛の糸に巻かれたエモノはしぼむ。
 みるみるしぼむ。
 みるみる、みるみる、みるみる、みるみる、みるみる、みるみる、みるみる、みるみるみる、みるみる、みる、みるみるみる。

 なにを捕まえたんだろう。
 みるみる、みるみる、みるみる、みるみる、みるみるみる。

 なんとなく、ちょうのように見える。

 なんとなく、蜘蛛はちょうをたべる。

 なんとなく、キレイな羽をしている。

 なんとなく、ちょうのはらがうごく。

 びくびくうごめく。

 なんとなく、長い翅脈が蜘蛛の糸に絡まりよじれるのを想像する。
 なんとなく、見てみたくなる。
 ちょうが喰われているところを。

 そっと足音を忍ばせて近寄りのぞきこむ。
 手のひらくらいと思っていたが。
 蜘蛛は異様に巨大で。

 首を伸ばしたくらいでは。
 向こう側をのぞけない。
 仕方なく蜘蛛の周りを回る。
 糸にからめとられたそのものを。

 みる。

 真っ白い糸でまったくぜんぶをつつまれた。
 薄く茶色がかった黄色のそのもの。

 ちゅうちゅう。
 ちゅうちゅうちゅう。
 ちゅうちゅう。
 と、ちゅうちゅうちゅうされたからか。

 枯れ木のように細かった。

 よく見えない。
 反対側に回ってみる。

 そのものが、こちらを向く。
 橋田坂下だ。
 蜘蛛は橋田の首の後ろ。

 鋏角をつきさす。ち
 ゅうちゅうちゅうちゅうちゅう。
 ちゅうちゅうちゅうと吸っていた。

 見る間に橋田はしぼみ。
 かさかさと乾いた皮膚と爪。
 かさかさの皮膚だけの顔と腹。

 にやにやと笑っていた。
 何が嬉しいのか、にやにやと。

 にやにやにやにやと笑っていた。

 見ているだけで腹が立つ。

 にやにや、にやにや。

 あんまり腹が立ったので。
 耳をつかんで引き剥がす。
 蜘蛛の糸からべりべりべりと。

 あんまり糸が強いので。
 耳と皮膚だけ裂けていく。
 皮膚を剥ぎ取りめりめりと。

 蜘蛛の粘膜ぬらぬらと。

 皮膚はあちこちびりびりびり。
 かまわずべりめりべりめりり。

 目がべりめりめりべと裂けて二つの。

 穴がひとつにつながった。
 首がめりべりめりべりべりと。
 裂けて背中へ谷が走る。

 べりめりべりめりめりめりり。
 もう何もひっぱれない。

 うす黄色い茶色いいやな。
 ひたひたと手にべたつくものを。

 ぶんぶん振って振り落とし。
 落とそうとしたがべたべたと。

 胸や腹や右手や左手にくっついてくる。
 ふと気付くと右手にかさかさと唇が。

 かさかさと さざめく。
 ごわごわと うごめく。

 声がする。

 唇から。

「君は見ておいたほうがいい。君に見せるため描いた。君は見なければ。君は見る。見るだろう。いつか、見る。見るかもしれない。見るだろうか。見ないほうがいい。見なければいい。見なければならない。見なければ。知らないほうが。知れば。知らないままでは。見れば。み……れば……。知る……ろう。……るだろう。知るだろう。しるだろう。

 知れば。

 知れば知れる。

 知れば見れば見えない。

 知れば、見えない。

 見えない。

 見えない。

 ぶんぶんと手を振る。

 とれない。とれない。

 とれない。

 壁に手をこする。ごりごり。

 ごりごり。
 ごりごり。
 ごりごり。

 壁ではないではないか。
 壁ではない。

 やわらかい。

 やわらかいもの。さりさり。
 さりさりさりさりさりさり。

 襖だ。
 これはふすまだ。

 開ける。
 がらり。

 何もない。
 知っている。何もない。天袋だ。

 天袋にある。

 いや天袋から押入れおしいれおしいれ?

 これは押入れだったろうか。

 押入れはこれだったろうか。

 おしいれではなく、そうだ。

 襖の向こうは弟の部屋。
 弟。
 弟が急に出て行ってしまって……。
 急に出て行って。
 急に。

 襖を開ける。何もない。何もない。
 布団は? 布団はどこ? 寒い。
 がたがたがたがた。布団がない。
 この部屋には布団がない。布団がない。

 寒い。寒い。

 広い部屋、広すぎるのに狭い。

 狭すぎる。
 かくれない。
 かくれられない。
 どこにもかくれない。

 まるみえ。
 の せますぎる。
 にげられない。

 みる。

 ふとん。ふとんはどこ?
 きゅうにどこへ?
 きゅうににげられない。
 きみはみておいたほうがいい」

 なにも。

 なにもない。

 なにもないおしいれ。

 かくれられない。

 たたみのかずを。

 くものあしのかずを。

 二ほん?

 みてみてみて。

 いとを。

 からまる。

 蜘蛛の。

 蜘蛛の鋏角が我が胸に突き刺さるのを!

 吸われていた。ちうちうと。わずかずつ。ほんの少しずつ。気付かれぬように。逃げられぬように。鋏角からは甘いしびれ。毒だ。毒を吐きながら麻痺させ逃げられぬように。悟られぬように。吸う。命を吸う。

 命を。

 ふと、さゆみの顔がみえた。

 能面ではない。

 泣いている。

 泣くなよ。
 
 さゆみ。

 お前。

 泣いたら、すごい不細工なんだぞ。

 やめとけって。
 泣くなよ。
 泣くな。

 な、いつもみたいにしてやるから。
 ぎゅってなでてやるから。
 ほら、泣くな。

 手を伸ばす。
 触れた。
 髪。

 ねばつく。
 ねば。
 糸?

 さゆみの顔だ。
 能面じゃない。
 知ってる。
 この顔。

 弥勒菩薩。
 微笑んでいる。
 衆生をすくうため。
 いや憐れんでいる。
 なのに微笑んでいる。
 嬉しいか。
 

 足を組み。頬に手をあて。
 衆生をすくうため
 瞑想している。
 

 ああ、駄目だ駄目だ駄目だ。
 救われては駄目だ。
 オレはいまだ。
 到達しない。
 底へ。
 双幅の地獄へ。
 あれを描くことができるなら。
 魂もいらない。

 蜘蛛の糸。

     絡まり、落ちる。 奈落へ―――




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