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憑 狂 ~ツキクルウ~ Ⅴ

 画家と百合子と大基。三人で囲む奇妙な食卓は、まるでいびつな家族のようだった。
 楽しそうにはしゃぐ画家と、微笑み相槌をうつ百合子は夫婦のようにも父娘のようにも見えた。ただ黙々と箸を口へ運ぶ大基は二人の息子か、あるいは弟のようであったかもしれない。

 食後の片づけを手伝おうとすると、百合子はやんわり断った。

「炊事も私のお仕事なの。これから作り置きの食事も作るから、ちょっと時間がかかるけど、大ちゃんはゆっくりしていて」

 大基は手持ち無沙汰に、画家を探した。最初に入った入り口の部屋のソファに寝転び、ぼうっとしている画家を見つけ、大基は声をかけた。

「お会いできて光栄です。ずっとファンでした」

 画家は大基を手招くと、天井を指差す。高い天井に、大きな蜘蛛が一匹、じっとしている。黄色と黒の縞模様の蜘蛛はコンクリートの灰色の上に接着されているかのようだ。

「ここは密閉されているのになあ。どこから入りこむのか、蜘蛛がいる。もしや、私の脳みそから湧いて出ているのかもしれんなあ」

 ひゃっひゃっひゃ、と猿のような声をあげて笑う。大基は何と言っていいかわからず黙っていた。画家はぼんやりと独り言のように問う。

「蜘蛛は何を食らって生きていると思う」

「……虫、でしょうか」

 画家は寝そべったまま、ちらりと大基のほうに視線をよこした。

「私のハラワタだよ」

 そう言って、また、ひゃっひゃっひゃっと笑う。

「あの……。アトリエを見学させていただいてもよろしいでしょうか?」

 大基がたずねると、画家は黙ったまま、アトリエの方を指差した。
 行けということだろう。大基はアトリエに入り、照明をつけた。
 ボタンやツマミを色々と触ってみる。光源を部屋中好きなところに設定できるようだ。すべての照明をつけてみた。アトリエの中は白い光であふれ、押し出されそうになる。慌てて光量を絞る。
 自分で自分に目くらましをかけてしまい、大基はしばらくフラフラと歩いた。

 歩きながら床に散らばる紙を拾う。どの紙にも、何が描いてあるかわからない、ただの無機質な線が踊っていた。次々と拾い集める。 意味不明の線は飛び跳ね、うねり、流れ落ち、渦を巻き、だが、静かにまとまっていた。

 何かはわからないが、これを知っている。見たことがあるのか聞いたことがあるのか嗅いだことがあるのか。何かよく知っている感覚を呼び覚まそうとする絵だった。
 思い出しそうで、思い出せない。もどかしさに、大基は部屋中の紙を拾い続けた。もう少し、あと少しで思い出せそうなのだが……。
 もっと何か手がかりはないかと、立てかけてあるキャンバスに手を伸ばした時、

「大ちゃん」

 背中に声をかけられた。

 そうだ。これだ。
 大基は、振り返ることができない。

 百合子の視線だ。
 出会った時から感じていた、背中を這う感触。

 この絵はこの感触そのものだ。
 では画家も、この視線で、百合子から見つめられたことが、あるのだろうか?
 知っているのだろうか? この感触を。

「お待たせしました。終わったから、おいとましましょう」

 百合子が微笑む。大基は逆らえない。きっと、画家も同じだ。なぜか、そう感じる。
 大基はアトリエの照明を落とし、百合子の後へついて行った。

 「では、先生。来週また参ります」

 画家はソファから飛び起き、しかし、その場からは動かず、目をぎょろぎょろとせわしなく動かしている。

「あ、ああ。来週、ね。そうだ、来週ね。うん、来週、うん……」

 百合子は鍵を取り出し、鍵穴に差し込み、回す。鍵をノブの代わりにしてドアを引いて開ける。外はすっかり暗くなっていた。

 ドアを出て大基は振り返る。画家は何か言いたげな顔で大基を見つめていた。百合子はなにかを断ち切り壊そうとするかのように強くドアを閉め、鍵をかけた。
 分厚いコンクリートの向こうに生命を持ったものがいるとは思えないほど、あたりはしんと静まった。

 鬱蒼と生い茂る庭木で庭内は暗い。見上げた木の枝の隙間からのぞく空に上弦の月が残っているおかげで、かろうじて道が見える。ここが市内とは思えない。葉摺れの音とわしゅわしゅと草を踏む音。静かだ。
 門を出て大基はなんとなくもう一度、振り返った。ただ四角いだけの建物は闇に沈みひっそりとして、生き物の気配を微塵も感じさせなかった。


 駅への道すがら、大基はカラッポのショッピングバッグを預かり担いだ。灯の下を、肩を並べて歩く。

「ありがとうございました。まさか、橋田画伯に会えるなんて……。しかも一緒に食事するなんて夢にも思わなかった」

「どういたしまして。橋田先生、噂よりずっと優しい方でしょう?」

「そうですね。あの、百合子さんは卒業したら、画伯の専属モデルになるんですか?」

 百合子は、ちらりと大基を見やると、首を横に振った。

「モデル料だけでは、さすがに食べていくだけしかできないから。弟の学費も稼がなければいけないもの」

「え……。あの、ご両親は?」

「亡くなったの。二人とも交通事故で。そのころ、もう先生のモデルの仕事をさせていただいてたから、暮らしには困らなかったのだけど」

「あの、すみません。立ち入ったことを聞いて」

 申しわけなさに頭を下げた大基に、百合子はにっこり笑ってみせる。

「いいのよ、大ちゃん。なんでも聞いて」

 そう言われると、何か質問しなければいけないような気がして、けれど、未だぼうっとしたままで、思考と感情がうまくついてこない。大基は頭をフル回転させた。

「ライフワークの進み具合はどうですか? 先日の、弟さんの絵」

 なんとかひねり出した質問に、百合子は一瞬、眉をひそめると、ほぅっとため息をついた。

「それが困っちゃってるの。先日、弟がふいっと家を出てしまって、モデルがいなくなってしまったの」

「え! 弟さん、何かあったんですか?」

「ううん、何かあったってわけじゃなくて……。なんというか、どこにでも、好きなように出かける性質で……。ふと出て行くと何日も戻らなかったりするのよ。それでまた、いつのまにか、ふいっと帰ってきてるの」

「そうなんですか。それは、困りましたね」

「そうなの。実は、卒業制作はあの絵にしようかと思っていたところなんだけど……。そうだ、大ちゃん!」

 くるり、と百合子は大基の方に向き直る。白いスカートがふわりと広がる。夢の中に咲く花のようだ。

「大ちゃん、モデルになってもらえないかしら?」

 輝くような笑顔。瞳はまっすぐ大基の目を捕らえて離さない。視線が大基の背中を這っていく。
 大基はもう、何も考えられない。ただ、うなずくことしか出来なかった。

「ほんとに? うれしい! じゃあ良かったら、明日からお願いできる? 私、がんばって急いで仕上げるから」

 大基は、また、うなずいていた。


 駅で百合子と別れてから、どこをどう歩いたのか判然としない。いつのまにか部屋にもどり、真っ暗な中でぼーっと立っていた。
 あまりにも色々なことがありすぎて、脳が飽和状態だった。部屋に散乱する画材の乱雑さが、そのまま自分の脳の中身のように思える。散乱する脳みそを眺めたまま、ただ、立っていた。

 ふと気付くと、テレビがついている。

 つけっぱなしで出かけてしまったのか、帰ってから無意識につけたのか。画面は黒く静まり返り、ざーざーと聞こえない機械音だけが鳴っている。何も映さないのに、色々なデータが飛び交っている。
 ただ、ぼんやりと眺め続けた。

 翌朝、チャイムの音で目が覚めた。ドアを開けると、さゆみが立っていた。

「なんだ、さゆみか。鍵開けて入ってくれば良いのに」

 大基が言っても、さゆみは何か思いつめたような顔をして、うつむいている。

「どうした、何かあったのか?」

「……ねえ、部屋、大丈夫?」

「え? 何が?」

「ヘンなこと、ない?」

「何だよヘンなことって」

 さゆみは、おそるおそる大基の顔を見ると、すぐに目を反らした。

「何だよ。お前こそヘンなんですけど。何なんだよ」

 大基の陰から、何かが飛び出してくるのじゃないかと恐れているかのように、さゆみはちらちらと部屋の中をうかがいながら、話し出した。

「昨日、出かけるって言ってたから、その間に掃除とかしてあげようかなって、来てみたのよ。台所の片づけしてたら、玄関が開く音がして。あなたが帰ってきたのかと思って、のぞいてみたら誰もいなくて、鍵も閉まってて。聞き間違いかな、って台所にもどったの。そしたら、廊下を歩く足音がして。ほら、トイレの前、ギシ! ってすごい音するじゃない? あれが聞こえたから、え? って思って見てみたら……」

 黙りこむさゆみを、大基はなかば呆れて見つめる。こいつは、朝っぱらから怪談を聞かせに来たのか?

「で、何がいたんだって?」

 ため息まじりに聞く大基を、さゆみはキッと睨む。

「男の子! 中学生くらいの! こっち向いて立ってるの! 目があった途端、居なくなってたんだけど……。目があったはずなのに、見てもいないはずなのに、その子の背中しか覚えてないの!」

 ぐらり、と眩暈がした。

 男の子だ。
 廊下に立っている。
 部屋に向かって歩いて行く。
 テレビのリモコンをとる。
 ボタンを押す。
 何も映らないチャンネル。

 ざーざー。
 ざーざーざー。
 ざーざー。
 ざーざー。ざーざー。

 カーテンが引かれた部屋は薄暗い。
 その中に、少年の背中が立っている。
 なぜか、その背中を知っている。
 知っている。

 振り返っても、顔は見えない。

 なぜか、その背中を知っている。
 知っている。

 見えないのだろうか?

 なかったのではないか?

 もともと 背中しか

 なかったのでは

 ないか?

「ちょっと! 大丈夫?」

 さゆみが、大基の腕をつかんでゆする。

「大基! どうしたの? 大丈夫?」

 血が通っていないようなゆるゆるとした動きで、さゆみの手をどける。

「ああ、大丈夫。すこし、眩暈がしただけ」

 さゆみは払われた右手を胸に抱き、上目遣いで聞く。

「ほんとうに、大丈夫?」

「ああ。大丈夫だって。何もないよ。ヘンな事は、何も」

 ぼんやりした脳みそを生き返らせるように、大基は頭を振って幻想をふるい落とした。


 百合子の部屋に上がるのは二度目だ。
 あいかわらず、雑然としているようで心地よく片付いている。
 開け放した窓から、かわいた涼しい風が吹き込んでいた。
 百合子は一脚の椅子をキッチンの真ん中に据えた。その後ろにイーゼルを立てる。邪魔になるキッチンのテーブルと椅子を一脚、たたんで隅に寄せた。

「じゃ、大ちゃん、この椅子に座ってね」

 指示され、キッチンの真ん中に置かれた椅子に座る。百合子に背を向ける。とたんに、あの感覚がぞくぞくと背中をかけ上る。

 むずがゆいような
 不安なような
 安心するような
 逃げ出したいような
 いつまでもひたっていたいような

 見られている。
 当たり前だが、ひしひしと感じる。

 視線。
 背中を這う。
 肩をすべり、わき腹をくすぐり、腰をさすり。
 背骨をかけあがり、首に絡みつき、耳の裏をなめる。
 肩甲骨を押し、手のひらをすべらせるように、肩から腰へ。
 その視線は、質量を持っている。その視線は、圧力を持っていた。

 次第に視線は背中からわき腹を辿り、腹へ、胸へと這って来た。まるで愛撫するように、ゆっくりと。見えないことなど問題にもしない。
 視線は、顔まで這い上ってきた。頬を撫で、唇を押し開き、舌をくすぐり、喉の奥まで。

 止むことのない視線の侵食に、体中を舐めつくされる。背中だけではすまないのだ。腹も胸も顔も頭も喉も喉の奥も内臓まで。すべてをくまなく観察され、慰撫される。

 自分が自分でなくなったように感じた
 自分がただの肉塊であるように感じた

 その肉の塊が崩壊するぎりぎりのところを、握りしめ留めている魂までをも、撫でさすられ、解きほぐされ、自分がなにものであるのかすら、わからなくなっていった。

 ただ、背中だけを感じていた
 ただ、視線だけを感じていた
 次第にぼうっとして、何も考えられなくなる
 ただ、見つめられている

 自分が何者かは問題ではない 大切なのは、背中だ
 背中だけが、この世と繋がっていた

 どれくらい、時間が過ぎたのか、わからない。 数十分、数時間、数日。
数年、あるいは数秒?
 ただ、じっとしていた。
 視線にまさぐられながら。

 ふと、百合子のことが気になった。
 彼女は、どんな顔をしているのだろう。はたして本当に、絵を描いているのだろうか。

 もし、彼女がナイフを構えていたら?

 もし、ロープを握っていたら?

 もし……

「大ちゃん?」

 びくっとすくみあがる。百合子は立ち上がり、大基の目の前へ歩いてきた。手にはナイフもロープも持ってはいない。

「まあ、すごい汗。体調が悪いんじゃないかしら?」

 彼女の手が額に触れる。ひやり、と冷たく確かな感触がする。どこか無機質で生命を忘れてきたのではないかと思った。

「熱いわ。あなた熱があるのよ。少し、休みましょう。横になって」

 彼女の言葉が体を通り抜けていくような気がする。いつまでも額にひやりとした感触が残る。百合子は和室の襖を開けて中に入った。奥の百合子の部屋からタオルケットとクッションを和室に運び入れて、キッチンに戻ってきた。

「立てる? 畳で少し、横になっていて」

 よろよろと立ち上がる。力が入らない。頭がふわふわとして、なんだか自分の体が霞にでもなってしまったかのようだった。

 和室は六畳で、押入れと天袋があるだけだった。家具などひとつも無く、がらんとしていた。百合子のクッションを枕に、冷たい畳にじかに横になると、体の火照りを畳に移すようで気持ちよかった。百合子はケットをかけてくれながら言う。

「少し休めば、気分も良くなるわ。ゆっくりおやすみなさい」

 大基は目を閉じた。

 目をつぶり、うとうとしていると、夢を見た。

 無人の和室に背中がある。中学生くらいの男の子か。背中がぽつんと浮いている。
 膝を抱えている。いや、ちがう、膝はない。顔もない、胸もない、腹もない。
 ただ、背中だけ。ぽつんと浮いている。

 背中が立ち上がる。押入れを開ける。天袋から何かを下ろす。押入れにしまう。
 なにをしまったのか。
 見てみたくなった。
 背中の後ろから覗き込む。そこには確かに何かがある。何かがあるのがわかる。

 しかし何も見えない。ただ、何かがある。これを、知っている。直感でそう思う。
 これをどこかで見たことがある。いや、嗅いだことがある? もしくは聞いたことが? 触ったことが?

 背中がくるりと振り向く。振り向いても、背中。玄関から外へ出る。急いで追いかける。ぶにゃぶにゃした足の裏の感触を感じながら走って行く。
 靄の中から現れたように突然に姿を見せた扉に、背中が入って行く。追いかけてドアを開けると、薄暗い部屋にいた。

 リモコンを取る
 ボタンを押す
 何も映らない
 ざーざー

 誰かが玄関を開け、台所へ入っていった
 後を追う
 廊下がギシッときしむ

 なにも見えない。
 そこには、なにもなかった。

 ドアもなかった。

 床も無かった。

 天井も壁も無かった。

 自分の体さえ、無かった。

 ああ、そうだった

 すべてあそこに置いてきたんじゃないか

 あの森のような庭に建つ、墓石
 
 あの、金庫の中に

 ツキクルウ。

 はじめから、わかっていたじゃないか。
 彼女の要求にはすべてこたえるだろう。
 すべてを無くし。自分自身さえ手放して。
 この世のなにものでもないものになって。
 誰からも忘れられて。

 けれど、それは、とても幸せな気持ちがするものだった。


 ふと目覚めて、展転と体の向きを変えていると

「大ちゃん?」

 明るいほうから声をかけられた。襖が半分開いていて、薄暗い和室に蛍光灯の明かりが薄く差し込んでいる。

「起きた? 喉はかわいていない?」

 百合子がマグカップを持って和室に入ってきた。逆行で顔が見えない。頬の横にマグカップを差し出された。起き上がり、両手で受け取り口をつける。冷たい水だった。一口、二口飲む。

「ごめんなさいね。慣れないことなのに、長い時間お願いしたから、疲れちゃったのね」

 お願い……。
 いったい、なにを、お願いされたんだったろうか?

「今日は、おしまいにしましょう。起きられる? それとも、まだ休む?」

 身体は、まだ休みたいと言っている。しかし、理性が頭の隅で拒否している。

「今日は、帰ります」

「そう。じゃ、仕度ができたら送っていくわね」

 そう言って彼女が去って、しかし自分がどこへ帰るのか、何の仕度があるのか、ぼうっとした頭ではよくわからなかった。

 とりあえずタオルケットをどけて立ち上がる。頭がふわふわして今すぐにでも横になって眠ってしまいたいと思う。帰ろうと騒ぐ理性が邪魔だ。半分、無意識にケットを畳み、クッションを乗せて部屋の隅に置く。

 仕度……、と言って、とくに思い当たる事はない。ぐるりと部屋を見渡しても、何もない。半開きの襖を完全に開け、和室を出る。

 あかるかった

 せかいがかわったように

 ただ、普通に灯りがともっているだけなのだが。
 地中から這いでてきた虫の幼虫のような心持ちで、大基は目をしばたたいた。

「大ちゃん。用意はいいのかしら?」

「あ、はい。ご面倒かけて、すみません」

 ペコリと頭を下げる。
 そうだ。モデルをしに来ていたのに、途中でへばってしまったんだっけ。

「ほんとに無理をさせてごめんなさい。じゃあ、行きましょうか」

 背中を押され、玄関へ向かう。
 ふと、和室を振り返る。がらん、と、何もない部屋からは、百合子の手のような冷たい空気が流れ出していた。

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