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現実の愉快な曖昧さ~詩三編

断酒会ではいつも

アルチュウで糖尿病と

自己紹介をする

大酒呑みで糖尿病で死んだ

父と兄の思いでを語る

脳梗塞から片足をえそで喪い

静かな五年の闘病で亡くなった父

いつもベッドに寄り添い

老いを迎えた三毛猫

生への疑念に沈んでいた

私は父のように酒呑みになって

はたちの命をなんとか保った

やがて兄が糖尿病の

あらゆる合併症を併発し

八年の混乱のすえ

死んでいった

幼い時にみたとさつ場の牛のように

兄が解体される夢におびえ

酒を断とうともがいていた

父さん兄さん

死の情動サナトスに

とりつかれた少年は

まだ生きています

南無観世音聖徳太子に

人生の最期をささげ

死骸として打ち捨てられた

歴史に確かな現実を求める

不確かな生活を楽しんでいます

虚構をはがすほどにゆらめく

現実の愉快な曖昧さ

しあわせです

宇宙のことを考えるとこわいねん

と言って

死んだ同級生がいた

彼がなにを恐れたのか

私は陳腐な言葉にできないから

宇宙のことをあれこれ感じながら

生きてきた

たしかに死にたいほど

孤独でさびしく

膿のように不可解な情念につつまれる

そんな日々もある

無力で金も知恵もなく

ぽつんと虚空にとりのこされる

でもそのうつろさが

命の自由の源泉でもあると

私はうそぶく

何者かであろうとすると

宇宙のなかであまりに私は矮小だ

だからといって急ぐことはない

そのうち私も消滅するのだから

さびしさが響きあう

この空間を感じていようよ

花の遺伝子にも原産地の記憶があるなら

ブーゲンビリアはなんで大阪の冬に咲くのか

中南米の思い出との違和感に

すこしは悩んでいるかもしれない

ならば日本列島に住むホモサピエンスは

みな深い無意識のどこかに

多様な故郷の風土の喪失を感じていないか

私の故郷は七十年前の時間のかなたの

喪失の歴史のすべて

この街には喪失感が堆積してきた

昔は砂州が堆積したように

今はさびしさが新たな地層をなす

寂しいか?

いや我らは常に孤独を生きてきた民族では

なかったのか

いつしか傲慢な近代により

社会を偽装してきたが

いつしかたどり着くのはさびしさの果て

我らのたましいは孤独に安らぐゆえ

かぎりなきやさしさの国をいつも

思いえがき語り伝えた


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