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光の亀~四天王寺亀井水の、#水の信仰

聖徳太子が建立した難波の名刹四天王寺には、霊水を湧き出す亀形の水盤があり、いまも参詣人が絶えない。この亀には、万葉の人々の願いと歴史の謎が秘められている。

(初出、2015年7月、カドカワムック怪45号。南邦夫・かめのこたわし、2020年改定再編集)

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水の前衛芸術

深海生物がブームになっています。水族館の展示スペースも増え、写真集もよく売れていると聞きます。グロテスクというだけで顧みられなかった深海の生きものたちの多様な美しさがようやく評価されたのでしょう。「水の惑星」ともいわれる地球が生みだした、「海」の偉大さ、不思議さに、ようやく多くの人々の目が向きはじめた証拠かもしれません。喜ばしい状況です。

十数年前、私は縁あって、四天王寺(大阪市)の堂守に就くことになりました。そこで、水に由来する古代の前衛芸術と出遭い、日々を共にしてきたのです。

亀井というと、壮大な六時礼讃堂の前にあって、いつも多数の亀が遊ぶ、“亀の池”のことだと思われがちですが、そちらは正式名を大寺池といい、昔は蓮池でした。本来の亀井は大寺池からすこし低くなったところに建つ亀井堂にあり、霊水を噴出させている水盤です。

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(これは大寺池、愛称亀の池)

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(これが亀井水)

堅牢なる石で造られた巨大水盤に、金堂地下から涌き出た地下水が流れ込み、湛えられ、溢れだしてゆく。千数百年来の水垢に染められた亀は、過ぎし時の重さを凝縮させながらも、涼やかな水をその背に揺らめかせている。しかも、甲羅のない亀が──。

甲羅を持たぬのに、なぜ「亀」として確固たる存在たりえるのか。亀井はまちがいなく独創的な芸術作品です。

しかし世間は、芸術としても、歴史遺物としても評価はしていないようです。

もちろん、亀井水を信仰し、愛する人たちは無数にこの小堂に集ってきました。

ところが、伽藍や寺内行事に比して、世には広く知られていない。この秘すさまには、何か隠された意図があるのではないだろうか?

私の誤解だったのですが、その原因が解明されるまで悩みに悩んだものです。

隠された亀

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亀を象った水盤、これが亀井です。二匹の亀が向かいあっているように置かれ、一方の亀の口から涌き出る水が、他方の亀の背──ここが水盤──に落ちる仕組みです。ただ、一見しただけでは、亀が二匹いることはわかりにくくなっています。霊水を受ける古い亀の顔は、新顔の亀の下に隠れてしまっているからです。

参拝者は上の亀(若いほう)の顔を正面に見て拝むことになります。説明や基礎知識がなかったら、下の亀には気づかないでしょう。実際、調査に訪れた学者や新聞記者のかたたちのなかにも、説明されてはじめて、驚かれるかたがいらっしゃいました。

下の亀形水盤に気がついたとしても、上の亀の噴水の新しさから、水盤も近年に造られたと思ってしまうでしょう。

この亀たちが本来は別ものであったことを証明してくれるのが、水盤になっている亀の首の内側に空けられた孔です。

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孔は水面すれすれに正確に穿たれています。外径は直径約5cmですが、奥にいくほど狭まり、入口から8cmの最奥部では1cmほどになります。湧き出る水量の測定、工具、工法、当時の匠の業は目を瞠るばかりです。

この孔は空洞に繋がります。つまり、亀の頭部は空洞なのです。いまは上の亀の頭を載せるために石膏で塞がれていますが、湿度の高い水場のため石膏は固まりきってはいません。孔から竹串を刺して測ったことがありますが、奥行きもまた8cmでした。

この実験で、本来は亀形水盤の頭部空洞に水を落とし、孔から背に静かに流れ込む仕掛けであったことが判明しました。今のように、背の水盤に水が直接落下する形式ではなかったのです。

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古い亀の顔面左半分は残念なことに削られてしまっていますが、右顔で目と口が確認できます。アーモンド形のつぶらな瞳は、飛鳥の猿石に象られた人物像と共通する表現形式に見えます。

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謎が謎を呼ぶといいますが、まず現在の亀井水の信仰を述べることにします。

経木のお流し

亀井水信仰としてよく知られているのは、経木のお流しです。経木とは最小の木製塔婆です。御承知かもしれませんが、塔婆はサンスクリット語のストーバの漢字表記。お釈迦様の墓のことです。中国に伝わって五重塔などの塔になり、日本ではその一形態として板にした卒塔婆となりました。経木は小さいけれども墓そのものです。亀井水の経木のお流しとは、墓参の際に墓に水をかけることと同じこと。ごく素朴な信仰です。

亀井水はただその場に湧出している水ではありません。堂自体が中心伽藍と一体の設計によって設けられています。

四天王寺は聖徳太子ゆかりの寺院が共通してもっていた伽藍配置を、現代に唯一伝えている名刹です。戦乱、火災等で数度の再建を経ましたが、建築様式は変わっていません。亀井水がある亀井堂は中心伽藍の東北側に接しています。東北は魔が訪れる鬼門の方位。そこには当然重要な施設が置かれるはずです。

中心伽藍の金堂の内陣中心の地下には大きな井戸があります。亀井水の源がこの井戸であり、亀井堂へと涌き流れてくるのが白石玉出の水と呼ばれる霊水なのです。

では、井戸の水の水脈はどこから通じてきたものか?水源を遡ってゆくと、壮大な世界が眼前に広がります。

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世阿弥は四天王寺が舞台の「弱法師(よろぼし)」で、俊徳丸に亀井の水は無熱池(むねつち)の池水を受継いで流れきたる、と語らせました。

無熱池とは、ヒマラヤ山脈の西の果てにあり、インダス、ガンジス、プラマプトラ川の水源とされる湖です。仏教に限らず、インド、チベットの古代信仰の聖地として崇拝されてきた清涼な湖です。

聖徳太子の「勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)」では「一乗章」のなかで、無熱池が論じられています。四天王寺創建の時代の知識として、無熱池が仏教の真理の比喩として知られていたのでしょう。

亀井水の背景には、聖徳太子の時代には最先端の哲学があり、世阿弥が活躍した室町期の知識層たちに共通の認識があったことがうかがわれます。

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授戒灌頂と経供養

もう2例、亀井水の信仰を説明します。「授戒灌頂の水」と「経供養の水」です。

仏門に入り仏弟子となるためには授戒灌頂を経ねばなりません。授戒は仏弟子となる戒律を授かること、灌頂(かんじょう)とは儀式の最後の証として、頭に霊水をかけていただくことです。授戒の日、修行者は早朝から読経をつづけ、結縁のための様々な儀式をこなし、最後に亀井水を頭に頂戴して1日を終えます。私もその仏弟子を志し、慈邦という戒名を戴きました。

また、経供養とは四天王寺に伝承されている日本最古の芸能「天王寺舞楽」に関係します。「縁の下の力持」という言葉の由来となったという「縁の下の舞」は、秋天の下、古代の朝廷祭礼の如くエキゾチックに舞われます。縁とは堂宇の廂の意で、床下でごそごそ舞うわけではありません。経供養という法要の舞楽であり、かつては完全に非公開でした。

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(天王寺舞楽、蘇莫者。聖徳太子の笛に猿神がひとり舞う)

経供養のために特別な写経がなされます。用紙は太子殿で聖徳太子に供えられているものを、墨を擦る水は亀井水とされています。まさに、特別な水なのです。

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(広隆寺、聖徳太子像)

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(広隆寺聖徳太子像胎内納入物と文書)

京都太秦の広隆寺も太子由縁の寺です。ここには大嘗祭で天皇が用いた着衣をまとう秘仏聖徳太子立像が納められています。つまり、天皇陛下はご在位中常に聖徳太子と心をひとつにされているのです。近年、その胎内から太子関連の様々な遺物が発見されました。それぞれ説明を書いた紙に丁寧に包まれていましたが、その説明文を記す墨を擦るために亀井水が用いられたとの文書が出てきました。天皇と聖徳太子の絆をしるす水は、亀井水だったのです。文書に書かれた年は保安元年(1120年)です。

ちなみに、お水取りといえば東大寺の修二会が有名ですが、四天王寺でも亀井水のお水取りが厳かに行われてきました。

江戸時代の史料より

亀井水の本来の姿を求めて、江戸期の史料を探索してみました。

慶長18年(1613年)成立の「四天王寺秘密記」には、亀井の頭部空洞を母の口とみなし、その上に父の口がある、と記されています。

セクシャアルな解釈に貫かれた秘文書という体裁をとっており、真面目なのか冗談なのかは判然としません。四天王寺は修験道や密教との関わりが深く、性的秘儀の立場から記述されたのかもしれません。とはいえ、四天王寺の伽藍は大坂冬の陣で消失したため、前年の慶長18年成立の文書からは豊臣秀頼による再建の姿がうかがえる可能性があります。

それはともあれ、「秘密記」によって父とされたのは、なんであるのか。

宝永4年(1707年)に完成した「天王寺誌」は、秋野本順・由順父子が著者と推定されています。秋野家は小野妹子の末裔で、代々四天王寺の寺侍を勤める由緒ある家系です。「天王寺誌」では紫式部も仕えた藤原彰子が、亀井という言葉で歌を詠んだが、それは亀形水盤に基づくものだと断言しています。亀井という愛称は平安時代中頃に歌枕として普及したのでしょう。四天王寺は白石玉出の水、と呼んでいましたが、これでは歌に歌いにくい。

また、現在は、影向井がなくなったため、聖徳太子画像の由来である影向井と亀井を同じものとしていますが、影向井と亀井はそれぞれ別の石槽と明記しています。亀井に水を注いでいたのは、影向井である。

17世紀の、重要な図面と屏風絵が、四天王寺には残されています。亀井堂の内部の詳細に注目する研究者は皆無であったようです。

まず「元和(げんな)再建図」

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大坂冬夏の陣で壊滅した大坂の再建に、徳川幕府は四天王寺の再建から着手しました。亀井水の回りを、今も残る高さ90cmの石壁で囲っています。明らかに、亀形水盤とその手前の影向井、二つの石槽が銘記されています。亀井には無数の傷があり、歴史の古さを思わせます。特に注目されるのが、両前足を横断する擦り傷です。かなり重いものを無理に引きずったあとです。石壁が設営される以前につけられた傷に間違いありません。

写真は上が東になります。亀井堂の設計の特徴は、亀井水のある開放的な西の部分と閉じられた部屋の東の部分に別れています。石壁は二つの部屋に続いています。東の部屋は、経木を押し流し、大量に保管乾燥させるための部屋でしょう。江戸時代初頭にこのような設計がされたということは、経木のお流しはそれ以前から重要な法要としておこなわれていたことになります。

17世紀に大流行した屏風絵に、四天王寺住吉大社図、がありました。たくさん制作され、おおくは模写に空想をまじえて画かれました。亀井水も、亀が口から吐水する、常識的な空想で画かれたものがあります。普通の絵師は、亀形水盤は説明されても理解しがたいものでしたでしょう。ほとんどは、亀井堂の外観を立派に画くことに力を注いでいます。

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四天王寺所蔵のこの作品は、亀井堂の外観をあえて簡略化し、内部の亀井水を画くことに注目した、貴重な作例です。亀井水に向かって歩く老婆と娘が経木を手にしています。参拝の実体験による描写で、二つの石槽の重大さを理解した絵師によるものとわかります。

ところが、江戸時代後半になると、亀井水の説明は、おかしくなってきます。大坂研究の基本テキストとして圧倒的な権威を誇る、ベストセラー観光ガイド「摂津名所図会」(秋里籬島、寛政十年1798年)は、聖徳太子の肖像の由緒として影向井とも呼ばれまた亀の口から水が出ているから亀井ともいう、とおかしな説明をしています。この記述が、明治時代の改造をまねいた、誤解のもととなりました。

江戸の戯作者としても知られた幕府役人、太田南畝(蜀山人)は、一年限定の大坂赴任にあたり、摂津名所図会を買い求め名所めぐりをします。太田南畝も、同様に曖昧な説明に終わっています。(「蘆の若葉」1801年)どうしたことでしょう。謎を解明してくる文献があります。幕府老中による大坂と堺の巡検の記録、「二都巡見記」です。それによれば、亀井水は板で覆われ、中央のあなから水を汲んでいた。つまり、亀井はまったくみえず、影向井の先端しか見えていなかった。亀井水の保護のため板で覆われたのでしょう。それが、亀井水を見えなくしていたのでした。その時の観察記により、現代の歴史家はだまされてきたのです。

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(摂津名所図会)

明治期の史料より

曖昧模糊になってしまった亀井水を、再度観察記録してくれたのが、一信徒として四天王寺に魅了された民間人、大久保好識でした。

明治政府の文部官僚は、四天王寺にも史料調査に来ています。しかし、見るべきものは無いと決めつけて帰ってしまいます。その後、天王寺村役場は民間に保存されていた秋野家史料「天王寺誌」を東京に送ります。その青焼コピーが大阪市立図書館に保存されています。大久保はこれを見ることが出来た。

大久保好識「四天王寺由緒沿革記」(明治26年)写真は四天王寺に大量に保存されていたものをいただいたもの。一般には、府立中之島図書館で見ることが出来ます。

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大久保は序文で、亀井堂の傍にあった白蓮庵という宿坊で、この本を執筆したと書いています。当然、朝夕に亀井水を礼拝し、実見のうえで文章をまとめています。影向井と亀井の二つの石槽が銘記されます。序文の結語を見ると、亀井水に深い感慨をいだいていたことがわかります。

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明治36年(1903年)大阪で内国博覧会が開催されました。パリ条約に加盟することで、日本初の万国博覧会となりました。アイヌや沖縄にたいする民族差別がむきだしにされた人類館事件(人類館そのものは生活風俗の普通の展示でした。一般世論に、アイヌや沖縄という劣等民族が日本にいることを見せるのが恥だ、との非難がまきおこります)が記録に生々しいです。が、博覧会に大阪は沸き立ちました。その跡地が、今の新世界と動物園、天王寺公園となります。実は、四天王寺は丸ごと公園地指定され寺院として不遇を囲っていましたが、やっと公園地指定が解除され、寺院として認知されます。

はりきりすぎた四天王寺さんは、博覧会にあわせて、無謀な超巨大梵鐘を造り結果低周波しかでない鳴らずの鐘となったりします。宮武外骨は、滑稽新聞で四天王寺を笑いのめします。大阪の文化人の四天王寺嫌いは、いまだに外骨さんの影響でしょうか。一般の新聞も、四天王寺には庶民的な軽い筆致で臨みます。博覧会祈念の大万僧供養なるイベントを取材した、毎日新聞記者も、すけべ心まるだしで美女観察をしています。しかし、亀井水の前にくると、亡き母との昔日の思い出に感涙やむことなしと、神妙になります。まだ、亀井水は昔の姿のままだったようです。

そして亀井水改造

明治時代後半、京都奈良を歴史の聖地と称賛する帝大アカデミズムのおかげで、聖徳太子信仰の中心は法隆寺に変わります。江戸時代までの四天王寺の評価をとりもどそうと、四天王寺さんは時には無茶なこともなさいます。ひとつは、さきに述べた巨大すぎて鳴らなかった梵鐘。また、亀の池のほとりには、巨大な亀にのる象のうえにのる普賢菩薩の大銅像が作られ参拝者を圧倒しました。これらは、第二次世界大戦中の金属供出で消え去ります。

明治時代の新聞のマイクロフィルムを精査するなど図書館に通いつめ、発見したのが、明治43年(1910年)刊行の、生田南水の「四天王寺と大阪」です。生田南水は、四天王寺本坊と深くかかわった文人でした。娘の花蝶女をスパルタ教育で文人画家に育てたことでも知られています。

四天王寺のすぐ近く、上之宮町に生まれ育った南水は、生き字引とも言える人物です。しかし、その亀井水の説明を読んだとき、私は困惑しました。

それまでの文献には、亀井堂には、亀井水以外の仏像は記録されていません。詳細に仏像が記録されていてもです。南水によれば、亀井堂の中には多数の仏像が安置されています。その場所をつくるために、閉じられていた東の部屋を改造し、通行できるようにしたと推測されます。そして、明らかに亀の噴水が置かれ影向井はありません。亀井そのものの別名が影向井である、という説明がされます。これは、現在の四天王寺さんの公式見解となっています。

南水は、亀井水の改造が行われたことにはまったく触れません。あたかも、聖徳太子の時代からこのようであったかのごとく、改造後の姿を語ります。知識人としては、不誠実な態度ではないか。先達に対して、私は厳しく非をとがめなければなりません。四天王寺職員としても、公式見解を否定するのは、躊躇されました。

しかし、古代遺産を改造し、それを隠蔽することは、許されません。

影向井は何処へいった

明治末の大改造によって形が半分変わってしまった、亀井水。それまでの影向井は、亀井堂を出され、どこへ運ばれたのか?

私は、西門の手水鉢がかつての影向井の石槽ではないかと思っています。

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現在のものは、平成7年に取り替えられた、三代目のレプリカです。亀井を意識してみると、確かに抽象的な亀にみえます。江戸時代後半、秋里籬島や太田南畝が見たのは、この凸部でした。初代手水鉢には、この凸部にひとつの孔が貫通していました。手水鉢や浴槽としてはありえない孔です。

初代手水鉢がうつりこんだ、昭和37年ごろの写真が見つかりました。

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真っ黒な石槽です。水面が赤く見えるのは、完成したばかりの西大門の柱を映しているからです。

ラフガディオ・ハーンは、明治29年亀井堂を訪れ、大阪の人々の深い信仰に感嘆しています。ただし、彼は隻眼のうえに強度の近視でした。さすがに暗い亀井水の亀形水盤の姿は見えず、影向井を亀と認識しています。古びて黒ずんだ亀の姿は身体の半分が床下に隠れていた、と記録しています。戦前の写真を見ると現在の亀の噴水は、全身が見えていました。明らかに、改造前の証言です。

昭和初期に生まれた落語「天王寺詣り」では西門には手水鉢がない、と証言されています。手を清めるためには、西門柱に取り付けられた輪宝を回すと説かれています。影向井は亀井堂から運び出されどこかに大切に保管されていたのかもしれません。四半世紀もするうちにその由来は忘れられ、由来不明の石槽として転用されたのでしょう。

この真っ黒な手水鉢は、文化財保護法の成立にともない、大阪府考古資料のひとつに指定されました。まだ当時は、図面や写真をのこすことなく、ただ説明の短い文章で形状と寸法が府の文化財保護課のファイルに残されていました。

石垣を含む全体図を再現すれば、亀井と影向井の水面の位置と長楕円の縦横比率が、遠近法による緻密な計算のもと設計されていることが理解できます。まちがいなく、手水鉢に転用された石槽は、影向井でした。

東に流れる水の謎

おなくなりになられましたが、京都庭園室の社長、小埜雅章さんは、日本最古の庭園術書「作庭記」の研究者でもありました。風水にもとづく庭園術では、水は東北から南西に流すのが原則です。しかし、亀井水はまっすぐ東へ流れる。重要な例外であると、述べられているのです。作庭記に言及されている亀井水を検証にこられ、情報交換させていただきました。

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平安時代の歌人たちは、光あふれる亀井水、あるいは月を映す亀井水を表現しています。つまり、お堂はなく、野外の施設であった。だから、石垣の上から東むきに見下ろしたときの遠近法が幾何学的に計算されていたのです。

最初の亀井堂は鎌倉時代の「一遍絵伝」に画かれています。二つの石槽を囲んだだけの、小屋のような建物でした。

石垣の上から東にむいて礼拝する。つまり、朝の太陽礼拝の水鏡である。あたかも、大地の底からわき上がる光に見えたことでしょう。地下から地主神の龍神様が舞い上がる、光の輪舞です。

創建時の太陽信仰から、やがて夕日礼拝の極楽浄土信仰の中心地として四天王寺は変遷していったわけです。

大地の時を刻む地下水と、天空の時をめぐる朝のたいようの、光の交合。命の再生と悠久の歴史を映す祈りの場として、亀井水はうまれたのです。



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