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『ペンギン・ハイウェイ』という映画と小説と、おっぱいの話

『ペンギン・ハイウェイ』というアニメ作品が、
Amazonプライム会なら無料で観ることができる。

観るのは2回目だ。
初見は映画館で、きちんとお金を払って観た。

映画館へ行ったのは、
原作の小説を読んでいて、
結構好きだったからだ。

原作は森見登美彦の同名小説だ。
彼の小説はいつも漫画的で、
事実、アニメ化・漫画化も多い。

そして彼の描く主人公は、
女性に対して煮え切らない、
オンナの腐ったようなマザコン男がほとんどで、
ヒロインは、
現実味の薄い不思議ちゃんだ。

別にそれを批判しているわけではない。
それが彼の作品世界なので仕方ない。

世の中、
北野タケシ監督が撮る、
暴力世界が全てではないし、
現実が辛いのに映画を観る時くらい、
リアルを離れても良いとも思う。

話が少しズレたが、
森見登美彦の書く小説にしては、
毛色の違う内容で、私は好きな作品だ。

本屋でその本を手にしたのは、
私が『ペンギン』を好きだからだ。
だから、ペンギン・ハイウェイとうタイトルでなければ、
この本を買わなかったかもしれないし、
映画も観ていなかったかもしれない。

主人公はこまっしゃくれた小学生で、
彼の非日常的なひと夏の体験の物語だ。

映画は忠実に小説世界を映像化しており、
主人公が、
彼の小学生らしくない、
思考術と研究の日々を語っていると、
唐突に、住宅街にペンギンが現れ、
物語が始まる。
話は彼の日常、友達、家族、
そして、キモとなる『お姉さん』を巡り、
進んで行く。

主人公はその論理的思考術で、
世の中の全てのことを日々考えているのだが、
お姉さんについても論理的に思考している。

なぜ僕はお姉さんのおっぱいが気になるのだろう。
同じおっぱいなのに、お母さんのソレとは違うと
感じるのはなぜだろう?
おっぱいの事を考えていると、
幸福な気持ちになるのはなぜだろう。

この物語の中で、
お姉さんの名前は知らされない。
ずっと、お姉さんのままで、
謎のままであり続ける。
彼女自身も、
私って誰で、なんなんだろうね、と語り、
やがて、お姉さんは彼の前から消えてしまうのだ。

映画でも、小説でも、
後日のお姉さんの詳細は語られないが、
きっと主人公以外に
お姉さんの事を覚えている人はいないのだろう。

昔、同じような感覚の映画をいくつか観たが、
一番似ているは『銀河鉄道999』かもしれない。

漫画家、松本零士の代表作の一つであり、
ヒット作でもあるその話にも、
謎の女性『メーテル』が登場する。
彼女の登場と共に、
主人公の銀河鉄道の旅が始まり、
物語が進み、
彼女との別れによって物語も終わりを迎えるのだ。

映画の最後、
メーテルは語る。
私はあなたのお母さんの若い頃の姿をした影、
私は人の形をした幻。
だから、
私は青春という旅を終えたあなたの前からは消えるのだ、
と。

子供の頃は、メーテルとは何だったのか判らなかったが、
ペンギン・ハイウェイのように
言ってくれれば良かったのに。

お姉さんは主人公に言う。
こらっ、少年!
君はさっきから私のおっぱいばかり見ているだろう。

主人公にとってお姉さんは謎であり、
憧れであり、幸福であり、行動原理であり、
そして、おっぱいなのだ。

そうか、
メーテルはテツロウにとっておっぱいだったのか。

おっぱいは全ての少年にとって、
謎であり、憧れであり、幸福であり、
行動原理であるのだ。

どうでも良い事だが、
映画のエンディングでは、
宇多田ヒカルの歌が流れるのだが、
再見するまで、その事をすっかり忘れていた。

そして、黒バックにエンドロールで、
スタッフやキャストの名前が流れるのを観ている時に、
宇多田ヒカルの声が聞こえると、
条件反射的にエヴァを想起してしまうのは何でだろう。

ちなみに、タイトルのペンギンのイラストは、
私が趣味で描いたもので、内容とは関係がないので、
あしからず。
Lineスタンプも趣味で作っているので、
良かったら下記から。

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