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小説:浸

もう二度と味わいたくない感覚とは貴重な学びの瞬間である。私はそれを金属の箱に丁重に鍵をかけて身の内に仕舞い込み、金属はいつしか血液に溶け出し身体中を巡る。

最善と思える道筋へせっせと準備を施しても予想もしない方向からそれは崩されることもある。合理性を最優先させたくとも御膳立てまでされてしまい最大のメリットが潰れると善意を無下にはできない。これは自分本位な業だったのだ、そう言い聞かせてようやく私が定めた“自由”のうちの一つの扉を諦めようと努める。
結局、人の言葉を生きる理由にすると身が持たず、死ぬ理由にすると曖昧な加害者を生むのだ。能動も受動もする私たちは生きていると知らず知らずのうちに皆、さながら暗示の如く強く曖昧な意図に、言葉に縛られたり盲信する。


あの日のあの時の彼の言葉は私に話しかけているのではなくまるで神父を通して神に懺悔を行っているようで、途切れては予備バッテリーを絞るように出力を繰り返した。場面を切り取るように残酷な景色もやり場のない絶望もぼんやりとスクリーンに映った。
遂に吐き切るエネルギーさえ尽き絶えたようだがその声にまだ残る吐瀉物を人は未練と呼ぶのだろう、なんて考えた。
私は「いつか、ちゃんと消化しなきゃね」と言って丸まった彼の背中にそっと手を当てた。人のことを言えた立場でないはずだからこそ消化不良の不快感を私も知っている。
そしてこの言葉をきっと彼は覚えていないだろう。


濃霧と同化した日。
音が跳ねては体の側を走り抜け、導かれるがまま未知の薄い扉を開いたのだ。
自分の指先さえ見えず、時々過ぎる人の影がぼうっと現れては消えていった。
霧は色を織り成した。真昼の空色、人工的なピンク、ユーカリの緑。これ以上ない程深い藍色を見せた時、ようやく心持ちと視覚が繋がる安心を覚えた。此処ではこの藍さえ存在が許される。
そのうち霧の色は混ざり入れ替わり、圧縮される悲鳴が聴こえる。見えない軋轢と焦燥に骨が軋む痛みの音。
ついにCPUの処理のキャパシティを超えた時には次元を超えてしまっていて世界は何かを可能にすると知ってしまった。まるでIPアドレスがDNSサーバでドメインに変換される様を地で体感した気分だった。細胞の形一つ変わっていないはずの私の影は大きく揺れた。


日常。慣れた匂いの散らかった部屋に居た。今日も後ろ手を縛る男に従順に両腕を差し出した。
「ねえ、私のこと、可愛いなとか思ったことってありますか?」
珍しい私の問いに男は一瞬だけ手を止めて、作業をまた進めた。

「可愛いって思われたいの?」
「分かんない」
それ以上男は何も言わなかった。
私たちはそれで善いのだ。いつだって私たちの間に言葉は無い。
こう在るべきだと言わんばかりに互いを語らないことに意固地だった若い日は勝手な期待に勝手に傷付き、期待しないことを何度も覚えた。
結局切れても切れなかった私たちはそれなりの歳月を重ねて言葉にしないことを礼儀とさえ感じるようになってしまった。この本質を恐れと呼ばずになんと形容するだろう。気紛れに、ささやかに、ほんの時折り互いに甘える瞬間があるようになっただけ時と余裕と諦めがもたらす変化を感じる。
だから酷い仕打ちも共に愉しむ癖にいつもよりほんの少し優しかった男を恨めしく思い、こちらも自分勝手も良いところだと内心苦笑いしてしまった帰り道。
私は、きちんと認められた言葉を信用したいだけだった。


目の前の鴨川を見遣った夜。
どちらも大差のない河川敷のはずだが昔から四条大橋より三条大橋側に近い北側のエリアの方がなんとなく好きだった。
あの頃は飲めなかったビールを、あの頃と同じ頬を刺す冷たさの中で飲んだ。盆地の冬の京都はやはり寒い。揺らめく水面は充分に肴となる。少し離れた祇園や河原町の喧騒が水の声に流される。

“祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす”

あの頃教科書で習ったその文をそっと浮かべて川に零した。こうやって、同じように此処に座っていたことがある。沢山の進学先候補の入学資料の紙袋を乱雑に河原に置いた、まだ学制服に身を包んだその日の私は進路に悩んでいた。何者に成りたいかではなく何者に成るべきなのかと。合理性に頼りがちなのは昔からお得意の逃げ道かもしれない。

大人になってから、祇園精舎とは正式名称は祇樹給孤独園精舎というインドの建物を指し、それが日本に伝来した際に目の前の鴨川を跨ぐ四条大橋の向こうにある祇園舎、現在の八坂神社を建立し周囲一帯を祇園と呼ぶようになったことを知った。インドの祇園精舎には鐘はなかったとも知った。

諸行無常。風に煽られる目の前の川面のように万物は移ろい変化し続ける。

変わらないものなんてなかったよ、今のところはね。良い変化も悪い変化も、人の気持ちも、また変わっちゃう。留められないものも、留めちゃいけないものまである。
寂しいね、さみしい。

どう足掻いても、どうしようもなく私は人の子だ。リミッターを外すコツを知っても、いくら己や人の業の色を見定めても、私も我欲に満ちた人間だった。つまり、私も含めた皆がきっと知らないところで誰かを寂しくさせる一要因なのだろう。


寂しいに、浸りましょう。


夢の裏を返せば大きな責任を負った友人と、親を殺すか迷った挙句自分が死のうとしていた友人と、しがらみを嫌い古い関係を一度は絶った友人と、深夜のカラオケの一室に居た日。
それぞれ帰れば待っている孤独を見ないふりをして私たちはまだ自由だと言わんばかりに懐かしい曲に乗せて大いに叫んだ。
暖かくなったらテーマパークへ遊びに行こうと友人は言った。シーズンになれば甲子園のナイター戦も、夏には川下りも。
「全部、ビールが付き物だね」と友人は笑っていた。
突然何があるか判らないこの世界でそんな口約束ができることは、きっと幸せと呼ぶのだ。


あの日彼は可愛いよ、大丈夫、と何度も繰り返してくれた。ポット苗の中身が根詰まりしていた時に少しほぐしてやるのときっと同じことだったのだろう。慈悲と施しであり、処置とも呼ぶ。
「知る前には戻れない」
確かに私が震える声でそう言った通りだった。言葉は、温情だとか温もりだとかは、繋ぎ止める勇気にも呪いにもなり得ていつしか細く深く根を張る。適度な量の水が無い環境では根はいつか渇ききって死に絶えるか、誰も知らないうちに土の中で根腐れし千切れて溶ける。水の供給源はどう確保するのが正しいのか、私はまだ探している。

目を開くと見慣れた自室の少し黄ばんだ壁が映った。

「未知の恐怖を紐解くより既知の恐怖に向き合う方が数倍厄介ね」
「それでも求めるものは欲しがりなさい」
「簡単に言うのはよしてよ。人は、双方は恐れが招くものを視ている、いえ、視る義務があると同時にそれは防波堤にもなるのよ」
「ならば其れさえ、恐れも痛みさえも互いに分かち合いなさい。思う存分傷を舐め合いなさいな。それもあなたたちの勝手な自己への縛りでしょう。妨げる理由にするだなんて馬鹿げているわ」
「時間を割く、リスクを超える程に大層な価値があるとどう確信を持てと?相手も、相手にとっての自分も」

「五月蝿い。黙りな」
声は一瞬ぴたりと止んだ。

「それでも、あなたはあなた以上にあなたを求められる存在に成りたかったのでしょう?」

ようやく静かになったようだ。

「諸行無常」
私の声だ。

「アメリカのA、ブラジルのB、チャイナのC、デンマークのD」
私の声だ。

「チキン南蛮。観音開きした鶏胸肉の可食部重量に対し1%の砂糖と塩、10%の酒を揉み込む。薄力粉、卵の順に…」

大丈夫、私の声だ。
壁を見つめる私は時々、分からなくなるのだ。


「なんで私のタイミングじゃ駄目かな」
さて、お米を炊いてシャワーを浴びなくては。

「なんで素直に求められないかな」
先に洗濯機を回して、トリートメントが切れていたから詰め替えをしないと。

「どうしたら求められるのかな」
分かっているけれど体は動かない。思考が先行し過ぎて溢れ言語化の順序が乱れる。これは良くない。

「なんで駄目かな。なんで何が駄目か考えることを止めないかな。いい加減にしろよ、過ぎれば甘えで逃げで愚かだろうが」
きっと起き上がれないのはエネルギー不足だろう。世の中には“やけ食い”も“食事も喉を通らない”という表現もある。つまり一定値を超えた圧の加わった人間はどちらかに二極化するということだろうが私の場合は後者であろう。最後にいつ何を食べたかあまり思い出せない。思考と動力の最低限を正常に働かせる糖分は取らねばならないようだった。

たまに胃が捩れるが空腹感は感じない。脈打つ度に僅かなエネルギーを振り絞っている。削れていく感覚に魅力されてしまっていた。生きる為の活動のはずが真逆に追いやる矛盾が好きだ。少しずつ消える、確実に近付く。

低体温なのかひどく寒い。体温が下がったままの布団の中はいつまでも冷たい。

人は火事場の馬鹿力とまで言わずとも気力さえあれば体に鞭打ってでも動くことはできることは過労働が蔓延る社会や現代の育て親たちの声が証明している。捧げ施す度合いは気力と愛着次第とも言える。

「冷たいままでもいいのにね。これじゃ埋めているのか削っているのか解りもしない」

少し細くなった喉に手をかける。
いつか誰かに、望んでそうされたように。
私も温もりが恋しかったのだ。

カウンターの上の小物入れに光る、男の家の合鍵が見えた。都合付きで預かったものを例の如く言葉も交わさぬまま、けれど互いに便利だと言わんばかりに、いつしか当たり前のように鍵だけは私のものになっていた。

一つ、確信を持って言えることがある。
私は私の意図も介さず堕ちる瞬間が好きだ。

また目を瞑った。
まだ、確かめたいことがある。

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