見出し画像

Nobody’s Home

先日友人と電話をしていた時のことです。
「会いたい人にはちゃんと自分から会いに行かなくてはいけない」という旨の話を友人はしていました。
それに対し私は「スケジュールが合わないとかはともかく、普通に誘って断られたらちょっとショックじゃない?」と返すと友人は驚いたように「え、そんなことある?」と言いました。
逆に、世の中そういうことってあまり無いのか?と思いました。
言われてみれば確かに昔は苦手だったり薄い関わりだったはずの知人と大人になって再会して皆んなで酒を飲んでみればお互い丸くなっていて古き良き友として時間を過ごせる、だから機会があればできるだけ人と会おうと、これは私もここ数年で学んだ事のはずです。
ふと、何故そんな発想が出てきたのかと電話を切ってから思い返して、思い出しました。

そういえば昔、本当に断られたことがあったのです。

その彼のことはここでは本名と掠りもしない、市原くんと呼ぶことにしましょう。
市原くんは私の高校時代の唯一の良き思い出、軽音楽部で同じバンドメンバーの同級生でした。私はボーカル、彼はベーシストです。
当時の彼を一言で表すならば“冷酷”
整った顔立ちと女の子ならつい目がいってしまう可愛らしい八重歯で大層モテていたのですが、とにかく興味の無い人間や物事にはバッサリと歯に衣着せぬ言葉を私や彼の友人に浴びせる場面をよく目にしました。友人のことは大切にしている彼の周りにいる人々はそれをよく笑っていました。
当時の彼にとって私の立ち位置というのはきっと、どうでもいい話ばかりしてきてなんとなくうざく感じる、もはや存在も正直どうでもいい同級ではありつつも一応バンド活動に付き合ってやってる女、といったところではないでしょうか。

バンド経験がある者の知る、練習している曲を一曲演奏し終わった瞬間の静けさ。そしてその静寂を破る市原くんの一言。
「おいボーカル、下手やねん」とゴミを見るような目で言われたことも数多あります。そしてぐうの音も出ない的確で建設的な指摘が入ります。
ちなみに市原くんは当時バンドを兼任していたのですが、もう一方のバンドのボーカルにも同じ目で同じ言葉を吐いていたと後に知って互いに爆笑しました。
もうここまでゴミを見るような目で見られると逆に面白くなってしまい私はうざがられることにもすっかり慣れてゆきました。

さて、悪口のようなことばかり書いてしまいましたが市原くんは根は周囲を見て必要なところに手を伸ばせる優しい人間です。あら、フォローが少し遅かったでしょうか。
メンバー内で生物学的には紅一点状態だった私にとっては非常に重たいボーカル用のスピーカーを教室から収納庫まで気付けば勝手に代わりに運んでおいてくれるのは大抵彼でした。
そもそも私が冷酷と表現した彼の言葉にはきちんと彼なりの理由があって単純な非難をしている訳ではありませんでした。だから校内で見かける彼の周囲には大抵誰かしら友人たちがいたのでしょう。

先述した“そんな立ち位置”な私ですがバンド活動以外でも彼とは、別の高校に進学した友人たちとともに区の自習室や地元のマクドナルドに行った先でよく居合わせたり、たまに高校の友人たちと一緒に放課後に遊ぶこともありました。
常識人のようでどこかネジが外れているところや素朴なものを愛するところ、何かをより良くする為に効率化を図るところも私にとって彼を観察した上で友人として好きになった部分でした。

ネジが外れているエピソードを一つ挙げるならば、知り合いから借りてきたという6弦のフレットレスベースを弾いている高校生なんて彼以外に私は出会ったことがありません。
オーソドックスなベースは4弦で、フレットという抑える枠のおかげで音を上手く調整できるように作られているのですがフレットが無い=完全に自分で音を合わせないといけない、ということです。言わば弦の本数が倍の三味線のような状態です。
「俺このベースで次のライブ出よかな」というぽつりとした独り言を聞き逃さなかった私はさすがに全力で止めました。

そんな彼は大学生活を経たあと北欧に住んで仕事をしているようです。確かに成績が良かった彼のSNSは英語だったり何かよく分からない記号の入った言語(恐らくデンマーク語だとかスウェーデン語だとかポルトガル語だと思いますが私は総じて“寒そうな国語”と勝手に呼んでいます)の投稿がほとんどです。何ヶ国語話せるのかは知りません。


高校を卒業して数年、まだ周りの友人たちは大学生だった頃だと思います。彼のInstagramの投稿を見て久しぶりにDMでやりとりしていた時です。
大学当時から海外を行き来していた彼とは長く会っていなかったので「まあまた日本にいる時に機会があれば数人で飲みにでも行きましょう」と本心ではありつつありきたりな言葉で締めようと送信したメッセージに対しての彼の返信は「金がない。俺らそんな友達もいいひんやん?」と。
今思い返してもそうなのですが当時もその素直が過ぎる言葉に笑ってしまいました。

元々人との距離感を縮める一歩前に恐れを抱く私です。当時は笑った後に、彼がはっきりものを言う人で良かったと感じたことを覚えています。
そんな経験も含め、いつしか冒頭の私の疑念は生まれたのでしょう。

さて、そんな市原くんともごくたまにDMで話す機会がここ1年ほどでありました。
海外でも作れそうなラーメンのレシピについてだとか、海外と日本の食材への価値観の違いだとか、長らく母国にいない人間はどの分野から母国語を忘れていくのか、など。彼から聞く話はどれも興味深いです。
そして大変意外だったのが私のこのnoteを時々読んでくれているということ。比較的読みやすい素人の日本語の文章に触れることで彼なりに日本語から離れないようにしているのかとも思いましたが、前後編に分かれた話の前編を投稿した日の夜に「ちゃんと続き載せてな」とメッセージが来ていたことはかつての友人としても1人の書き手としても非常に嬉しくありました。

大抵、自分と違う経験や景色を見ている人と会話することは楽しいと少なくとも私は感じます。そして分析しその人の知り得ない情報も含め生まれた考察を交わし合う。交わし合うことで思考の分岐数が、つまり可能性の元が増えゆく。そんなことが手元のデバイス一つでできる時代ではありますが。

次に彼がいつ帰国するのかは知りませんがもし帰国したらめげずにもう一度ぐらいは数人でご飯にでも行こうと誘おうと思います。
またばっさりと断られてもそれはそれで一興なのですが、これも冒頭に書いた通り大人になれば嫌でも多少は丸くなり、いつしか縁を尊ぶようになる。長い海外生活で数多の出会いがあったであろう彼も例外でないと思うのです。こんなこと、以前もここで書いた気はするのですが。
新しい人間関係を築くことから得るものは沢山ありますが大人になる前を互いに知る人間というのは当然ながら母数が増えることはないのです。そして、昔も少なくとも私はなんだかんだで彼との会話を楽しんでいました。互いに大人になった今、どんな会話ができるのか。日本語忘れてないといいけれど。

もしそれが叶うならば身に馴染んだ懐かしい、けれど確実に少し変化した京都の町を眺めながらでも、“令和の日本の第二の都会はこうなっているよ”と私のよく知る大阪の街を少し案内しつつでもきっと楽しいんじゃないか、だとか。

当時必ずライブの最後に演奏していたONE OK ROCKのNobody’s Homeを聴きながら、ふとそんなことを考えていました。

崇高で偉大な人の言葉に感銘を受けることもあるけれど、次の日には覚えているかも分からないような友人のふと漏らす言葉が意外と心の片隅に残ることをそろそろ知っているはずの私たちだから。
そして友人と呼べる対等な存在は理論上では無限に近く作れるはずなのに、現実において友人とは貴重だとそろそろ知っているはずの私たちだから。

もしもその時がやって来たら彼のいつものSNSの投稿は“寒そうな国語”ではなく何語なのか、きちんと確かめたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?