見出し画像

群青の日-2012.04.21

私がnoteを書き始めた頃、いつかこの出来事を書く日が来るのだろうとは思っていました。遂にその日が来てしまったようです。


中学3年生を迎える春、私にとって初めての彼氏が出来ました。幼稚園から中学まで一緒で中学2年生の時に初めて同じクラスになったバスケ部の男の子です。いつも人の輪の中心にてツッコミ役をしているような、背の高く彫りの深く整った顔立ちの人でした。

もう少し遡って2年生の冬。彼に片想いしていた私はガラケーを握りしめ毎晩彼とメールをしていました。キャリアの受信センターに何度も返信を確認する日々はミレニアム世代特有の青い思い出であることでしょう。
そんな最中に彼は体育の授業中に怪我をして入院し、そのまま春休みを迎えたのでした。

その春休み中、祖父母宅近くにあるやたらと電波の悪いイズミヤの本屋にいる時でした。メールでの告白の返事を貰って、何食わぬ顔で両親達と合流しつつ真顔を保つことに精一杯だったことをよく覚えています。


そして彼が春休みを終えても学校に戻れないこととその理由を知りました。
怪我をした際に彼に骨肉腫が見つかったのです。簡単に言うと骨の癌です。転移しておらずとも骨から血液に乗って全身に癌細胞が広がる可能性が高いのでなかなか厄介なものだと図書館やネットで調べました。

週末に彼が入院している大きな大学病院へ行きました。エントランスには某コーヒーチェーン店が入っていて、妙に白っぽく人工的に造られた明るい雰囲気と消毒液の匂い、大型のエレベーターに乗る人々の無言の圧のような何か。
私は今でも総合病院を訪れる度にはっきりとあの焦燥感に追われるような気がしてしまいます。

当時の私は今以上に自分に自信が無くて恋愛慣れもしていなかったので、病室で座って話をしていた彼に急に肩を抱き寄せられて目も合わせられずただフリーズしていました。彼は寂しかったのかもしれません。緊張と恥ずかしさに耐えきれない私に合わせてもらって手を繋ぐことがやっとでした。

私たちの交際期間はそう長くはありませんでした。所詮は中学生の恋愛だったから、とも言えるのですが。彼を励ますつもりで送った私のメッセージが彼の地雷を踏んでしまったのです。少しきつい言葉のメールがいくつか送られてきて私たちは別れてしまいました。

それでもずっとずっと彼が忘れられませんでした。


年が明け、迎えた元旦。
新年の挨拶メールを返している時に彼から久しぶりにメールが届きました。
新年の挨拶と、それから別れの際の謝罪でした。
「あの頃治療で余裕が無くて。気持ちは伝わっていたけど素直に受け取ることができなかった。ごめん」と。
私も改めて当時配慮が足りていなかったと謝罪し私たちはまた時々メールをする関係に戻りました。

春が来て私は第一志望の高校に入学しました。彼も少し前に退院し男子校に通い始めました。新たな出会いも多くありましたが私はまだ彼のことが好きでした。
やっぱりもう一度告白しよう、そう心に決めて数日後に新生活はどう?とメールをしたその日。
「ごめん、ちょっと今日はショックなことがあってさ。また今度ちゃんとメールする」と以前とは違い私を気遣った文面でした。別に私の告白は後回しで何ら問題は無いけれど、少しの胸騒ぎが止まりませんでした。

数日後、彼から癌が再発し転移もしているとメールで報告を受けました。頭の中が真っ白になりました。私の言葉でまた彼を傷付けてしまったら。
そう考えると到底告白なんてできませんでした。


彼にほとんどメールもしないまま過ごしていた高校生活での保健体育の座学の授業中、教科書に癌の再発時の生存率が載っていました。
確か5年生存率は30%。授業が終わってつるっぱげの体育の先生に震える手で教科書を持って尋ねました。
「先生、これって何年のデータか分かりますか。発症部位で数字も変わると思うんですけど何か詳細に載っている資料はありませんか」
普段やる気のなさそうな私が顔面蒼白でそう訊いてきたからでしょう、先生は少し困った顔をしていました。どのみち学校で何か教えてもらえることなどなかったでしょう。


高校2年生を迎えたばかりの春の日。時々連絡はしていましたが久しぶりに彼にメールをしました。同じように、調子はどう?と。
「もうそろそろダメみたい。自分の体だからよく分かる。中学のみんなに会いたいな」
そう返ってきました。
信じたくない気持ちもあるけれど単に身も心も弱っているとかいうわけでなく本当なのだろうと直感しました。何て返事をするのが正解なのかやっぱり分からないけれど。
「そっか。じゃあ近いうちにみんなで集まろう。私もきっとみんなも会いたがってるよ」と返すとありがとうと返事が来ました。


さて、その願いは是非叶えたいけれど収集の際にどう伝えたものか。一部の同級生は彼の病気を知っているけれど表向きには伏せてあります。どういう名目で集まるべきか、なんと皆に声を掛けようか、そもそも私の呼びかけで誰かが集まってくれるだろうか。
というか“もうそろそろ”ってどれぐらいだろう。3ヶ月?半年?1ヶ月ってことはないよね。よし、5月前半か半ばと仮決めしてできるだけ多く人を集めよう。
そう考えていました。

一週間半後、4月21日に彼は亡くなりました。
私は何もできませんでした。


同級生やその親たちが多く集まったお通夜の日は土砂降りでした。
母親同士は集まって皆言葉も無くただ泣いていました。
棺の中の彼は治療の副作用で顔が膨れていて別人のように見えました。

翌日の葬儀の昼間はよく晴れていました。
霊柩車とご家族が車に乗って過ぎ去っていく光景を見て、私は葬儀場の入り口で遂に膝を付いて泣き崩れました。
逝ってしまった。幼い頃から何かと死にたがっていた私は生きているのに彼は死んでしまった。この世界に神などいない、絶対に。だって私もきっと他の人たちも彼が生き続けることを何度も祈ったのに。

言葉にならず声を上げて泣いていると、今も付き合いのある男友達の1人が私を抱きしめました。彼も泣いていましたが「昨日はあんなに雨降ってたのに今日はこんなに晴れてる。こんな日に送り出せて良かったやんけ」と言いました。わんわん泣きました。


初めの1年は月命日に、その後は最低1年に一度は彼の家にお邪魔して手を合わせていました。自然と大人数になる日もありましたが彼のお母さんはいつも快く家に上げてくれてカレーを振る舞ってくれたりもしました。

音楽の専門学校に通う私に彼のお母さんからいつになってもいいから彼の曲を書いてほしいと頼まれました。
正直、言われるまでは避けていたことでした。勝手に私の想いで、無形であろうと言葉をメロディーに載せて発信してしまうと何かを冒涜するような気がしてしまっていたからです。
ですがその言葉があり、1年以上かけて私は1曲書き上げました。どうしても自分で限りなく完成形に近付けたくてコード理論を必死に勉強しました。彼の家族はわざわざ京都から大阪・アメ村のライブハウスまで曲を聴きに来てくれて泣きながらお礼を言われました。誰かが私の歌で泣いているのを見るのは初めてでした。

亡くなって4年の命日の日だったと思います。帰り際の私たちに彼のお母さんは少しだけ目を潤ませながら「みんな、生きてね」と言われたことが忘れられません。
私は彼のことを自分の脳内の“消化済み思い出フォルダ”に入れるまで6年ほどかかりました。


早いもので彼が亡くなってから12年を迎えることとなりました。そりゃ前髪から白髪もちらほら出てくるはずです。
令和の初めからつい最近まで新型コロナが猛威を奮っている中、私は梅田の会社に出社していたのでもう数年彼の家には行っていません。ここ2年ほどは命日に彼のお母さんに連絡を入れることすらしていませんでした。
でも、忘れたわけではないのです。
今年、お邪魔するかどうかはまだ決めていません。

この記事から特に何か教訓を伝えたいわけではありません。単に私が書きたかったから書いたまでです。
私は毎年4月21日にはつい深酒をしてしまいます。だからきっと明日もそうでしょう。そして「生きてね」という言葉が頭を過り、一曲だけ小さく口ずさみます。
昔自分で書いた曲なんてもう歌うことはないのですが、この日にこの曲だけは毎年。

タイトルは「群青の日」です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?