地上の楽園

 壁掛け時計の下に、小さな額縁に入った絵がある。ブリューゲルの、たしか次男坊が描いたものだったか。和紙色の雲がかった空。鬱蒼とした森のほとりに、犬猫に兎、孔雀や白馬、子鹿から水牛まで十数種に渡る動物が一堂に会し、仲睦まじく憩んでいる。奥の方には、ブリューゲル流のグロテスクな幻獣の姿も見え、人間などが足を踏み入れればたちどころに喰い殺されてしまうような連帯感が漂っている。樹上の夥しい野鳥や、空に舞う鶴などが侵入者を監視して、ヒトの支配するディストピアの一角にあるささやかな楽園を護ろうとしている。しなやかな二頭の黒犬は耳をそばだたせて警官のように辺りを警戒し、赫い眼の水牛は隙を感じさせぬ表情で全体を監督している。頑張れ、そうだ、豚は匂いに敏感だろう、嗅ぎ分けるんだ、ヒトを入れるな、ヒトを入れてはいけない、そう、油断するな、いいぞ、狡猾そうな猫が、もう俺に睨みを利かせている。……

 九十五年頃、街で段ボールに棄てられた猫を見かけることは珍しくなかった。小学校の帰り道、よく俺たちはジャンケンをして負けた者に、次の電柱までランドセルを背負わせるという遊びをしていた。女だろうが容赦はしなかった。ヘンな優しさを見せようものなら、あくる日の教室で恥辱的な”からかい”の的となってしまうからだ。侮辱されれば黙ったままじゃいられず大喧嘩に発展し、たちまちに人垣が作られる。まるで闘鶏だ。小さき軍鶏らは、何の漫画に毒されたのやら、教師がすっとんで来るまで泥仕合を続けることとなる。そんなわけで、その日も大人びた容姿の有働が、自分の赤を背負い、両手に三つの黒をぶら下げて歩かされるのを男三人で談笑しながら追いかけたものだった。はたから見たら、苛めに見えたかもしれない。だが、有働と俺たちはまるで姉と弟たちみたいに、躰の大きさも顔の造りも二学年くらいは離れてみえた。有働の胸の膨らみについて、俺たちは公園のプリン山で真剣に議論したこともあった。有働は脚がしなやかに長く、リレーも速かった。冬でも短パンを穿いていた俺には、細身のジーンズを穿きこなす有働が生徒よりも教師側の人種に見えたものだ。有働は線路沿いをスタスタと先を歩いて、次の電柱を目指していた。うーちゃんは速えなァ、と俺たちは笑い合っていたが、いま思うと細腕に三つのランドセルは重く、さっさと降ろしたかったのだろう。歪めた顔を見られたくないという女心もあったかもしれない。

 次の電柱まで二十メートルはあったが、俺たちは迫り来る電車と競うようにして突っ走った。セメントの囲いがある団地のゴミ棄て場に、有働がうずくまってしまったからだ。泣いてしまったろうか、それとも嘔吐だろうか。俺は三人の中でいちばん脚が疾かった。うーちゃん、大丈夫か? と息を切らして声をかけた。しっ、見て……。有働は振り返らずにそう囁いた。猫だった。生まれたばかりらしい子猫が一匹、段ボールに敷かれたトイレ紙の上に丸まっていた。駿足の特権だなァと考えながら、俺は有働の隣りにしゃがみこんだ。有働は抱き上げたもう一匹の猫を撫でていた。猫は二匹いた。何だ、前かがみになってたから、てっきり嘔いてんのかと思ったよ。睡たそうに目を開けたり閉じたりしている猫を見つめながら言った。可愛いねえ、と有働は反応を見せずにうっとりしていた。他の二人が追いついてきて、しばらく二匹の猫をかわるがわる抱いて遊んだ。俺は猫に触る気にならず、ただ有働の匂いや息遣いだけを意識しながら黙ってしゃがんでいた。

 何とも無謀なのだが、段ボールを抱えて四人で団地を隈なく廻った。貧乏人の街なのだから、快く飼ってくれる人間などいるわけがなかった。邪険にあしらわれた記憶しかない。鉄工所の浅黒い男には、煩いと頭を小突かれた。男と同じように有働も叩かれていたのが赦せなかった。後日に、線路の石をトラックに投げつけて逃げてやった。二十年後のいまなら容易く殴り倒せるだろうが、反対に、仕事の邪魔をして悪かったなァと心から思う。俺たちは子供っぽい正義感に酔っていて、相当にしつこく食い下がっていただろう。その鉄工所はまもなく閉鎖されて空き地になった。あの時分の男は相当に神経が参っていたはずだ。線路沿いをそれて路地に入り、住宅街を廻った。鰻屋は廃棄の魚を、酒屋はミルクをくれた。向かいの公園で、猫にはミルクをやり、鰻のクズは自分たちのオヤツにした。有働が小さな舌で指についたタレを猫みたく舐めているのを見て、胸がどきどきと高鳴ったのを憶えている。五時のチャイムが鳴っても猫の引き取り手は見つからなかった。俺たちはまた線路沿いをのんびりと歩いて戻った。ムラカミという駄菓子屋で餡子玉を買って与えようとしたが見向きもしなかった。形の崩れてしまった段ボールを、饐えた臭いのするゴミ捨て場じゃなく路地に面した駐車場の入り口にそっと置いた。が、隅に浮浪者が棲みついているのを一人が見つけ、ここじゃ喰われると思い糀谷駅前の皮膚科病院の隣りにある小さな駐車場に移動した。俺たちは後ろ髪を引かれる思いで散りじりに帰った。

 次の日、朝から俺はせっせと見取り図を作っていた。三人が机を囲んでいる。学習ノートの見開きいっぱいに、中央をブッタ斬った巨大なテントを描いていた。まず、きのうの子猫を二匹入れてやった。それから、校庭にいるウサギと鯉。テントの一角に池をこしらえた。雀と鳩は公園で捕らえよう。鳥たちのために真ん中に木を植えてやった。カラスは、凶暴だから入れてやらない。友人の飼っているハムスターと、俺の部屋にいるヤモリを放した。だいぶ、賑やかになったなァと友人が呟く。多摩川でハゼと海老を釣って、蟹と蛙を追い回そう。エアガンと虫取り網で、トンビや鷹も捕獲できるかもしれないな。少し迷って有働が、わたしのコタロウも、と消え入るような声で言った。次々と下手な絵で動物たちを加えていった。まるで狂気じみたサーカスだ。俺たちは希望に燃えて、爛々と眼を輝かしてこの楽園の計画を話し合った。六郷土手の背の高い叢の中に、乞食の家の要領でテントを建てる、秘密基地の構想だ。音楽室のビロードのカーテン、体操マット、運動会で使われる委員会用のテント布、学校にある様々の備品を拝借するというとんでもない目論見。……

 放課後、俺たち四人組の足取りは軽かった。まずは主役たる子猫の確保、これが大事だ。電車が轟々と通るたびに、俺たちは雄叫びをあげながら並走した。友人の一人が蹴つまずいて膝から血を流したが、怪我した本人も腹を抱えて笑った。愉しそうに手を叩いて笑う有働を見て、俺は幸福を感じた。奇想天外な計画の中で誰にも話していないこと、それは俺と有働が飼育員としてテントに住み込んで動物たちの面倒をみることだ。大切なコタロウもいることだし、無下に断ることもあるまい。まだ性交の意味すら知らぬ無垢な少年の大胆な企て、その可愛らしい楽園の夢想は、一足早く皮膚科病院横の駐車場に着いた有働の甲高い悲鳴によって絵の中のテントのように引き裂かれた。俺は走った。誰よりも早く両手で顔をふさぐ有働のもとに走った。段ボールには、猫の影の形もなかった。だがトイレ紙に、細かい血飛沫のような跡だけが残っている。俺は有働の向く視線の先を睨んだが、その頃から目が悪かった。無意識に、猫のような忍足になって奥へと進んだ。狭い、陰気な駐車場だ。低いブロック塀の向こうの住宅の黒い隙間に、うごめく何かがいるようだ。心臓がビクンと跳ねるのがわかった。犬だ。黒い、痩せてはいるが獰猛そうな犬が、粘土のような色の子猫を咥えたままこちらを見いているのだった。暗い隙間で、犬の瞳だけが炯炯と光っている。黒犬はピクリとも動かなかった。他の二人が追いついて息をつめてその姿を眺めても、目をこちらから離そうともしない。有働は二度、鋭く叫んだ。俺は近くに石が落ちていないか捜したが、もしも外れたら、喉を噛みちぎられるのではないかと恐怖した。逃げろ! と我慢できずに誰かが不意に叫んだ。その瞬間、黒犬が猫を落として怖ろしい声で吠えた。或いは、電車の轟音だったかもしれぬ。有働がぺたりとアスファルトに尻餅をついた。俺と男二人は、小便を漏らして立てないらしい有働を生贄だとばかりに置き去りにし、一目散に駆け出していた。かくして楽園の夢は、淡い恋と共に終わりを告げたのだった。……


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