<小説> 河童 / 芥川龍之介

 「どうか Kappa と発音してください」と警句を鳴らしているのは、作者本人である。奇妙な副題ではあるが、これには特筆すべき意味などなく、柳田国男らとの会談で、地方によって河童の呼び方が変わるという事実を憂慮して発音を統一させただけだと芥川は明言している。芥川自身、批評家たちにこの副題が衒学的だと批難されて弱ったと嘆いている。文学という、河童の棲む沼の如き深みに読者がズブズブとはまりそうになるのは、どうやら今も昔も同じらしい。本当は、「歯車」の記事を書こうと考えていた。だが自殺志願者の精神を描いた最晩年の大傑作を語るには、やはり芥川の精神的ユートピアである河童の世界を覗いてみなければ始まらないだろう。芥川にとっては、二十三号と同じく、現実世界はもやはディストピアでしかなかったのだから。……

 精神病院の患者、第二十三号の語るところによると、河童の風貌は我々が想像する通りの、というより、様々の戯画や漫画で目にした通りのもののようだ。可愛らしさなどは微塵もなく、むしろグロテスクで生々しい外見は次のように描写されている。頭に短い毛が生え、楕円形の皿は歳を取るごとに固くなる。背丈は1メートルくらい、体重は平均10キロ前後で、肥満した河童でも20キロほど。手足には水掻きがあり、ぬらぬらする皮膚はカメレオンの如く環境によって色を変えることが可能だ。また、カンガルーみたいに袋が腹にあり、人間以外の生物と同じく真っ裸で生活している。

 二十三号は病院を訪れた語り手に向かって不可思議な話をし始める。もっとも、二十三号はこの話を誰にでもするらしく、語り終えたあとには顔色を変え、身を起こし拳骨をふりまわしながら、狂ったように呪詛と怒鳴りちらすという。窓に鉄格子が嵌められているところを見ると、この三十歳くらいの患者は、どうやら重度の精神錯乱者らしい。……

 彼は長野県の上高地に登山に向かう途中で河童に遭遇し、それを追ううちにいつの間にやら河童の国に引きずり込まれていた。河童の国というと、俺などはやはりジメジメとした沼地、兄弟分の蛙などが犇めく水っぽい苔色の世界を想像してしまう。ところで、河童の前で”蛙”は禁句である。仮に冗談でも「蛙に似ている」などと言えば、精神過敏な河童はたちまちに死んでしまう。自己問答で死ぬこともあるくらいなのだ。二十三号によると、河童の国は「銀座通り」と違いがないという。店が並び、自動車さえ走っている。むしろ人間界よりも近代化しているらしいのだ。独自の法により、二十三号は「特別保護住民」としてこの国に棲まうことになり、様々の河童と知り合った。医者、漁夫、学生、詩人、哲学者、音楽家、政治家、資本家、裁判官、新聞社の社長、元郵便配達夫、写真家、二十三号はその誰の元を訊ねても歓迎された。

 河童の国の性質は、人間界に馴れた二十三号を愕かせるものばかりだった。お産の際、父親が母親の生殖器に口をつけて、「お前はこの世界へ生まれてくるか」と大声で訪ね、腹の子が「僕は生まれたくありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでもたいへんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから」と、そう断ると即座に中絶してしまった。このとき漁夫の父親は照れたように頭をかいた。芥川の母が狂人であったのは「点母記」の冒頭に書かれている、また父が死の直前に狂ったとも。晩年の芥川もまた河童の胎児のように精神病の遺伝を恐れていた。縊死に失敗し、自殺を怖れた芥川が、いっそ生まれる前に死ねたならばと夢想するのも無理はないだろう。また、”遺伝的義勇隊”と称し、悪意伝を撲滅するために、健全な河童は不健全な河童と結婚せよと国が扇動する。河童の国では雌が雄を追いかけ回す。あるいは、雄が雌の尻を追うように巧に仕向ける。この技巧は昨今の人間界でもすでに存在しているように思えるが、雄の方は抱きつかれただけで嘴が腐り落ちてしまうような体たらくなのだ。芥川は不倫相手である歌人秀しげ子に執拗く言い寄られていて、これにも随分と精神をすり減らしたようである。

 工業に関しても、2018年の日本と比してさえ圧倒的に発達している。本の製造数こそ優っているが、作り方がちょっと真似できるものではない。漏斗型の口に紙とインクと、”驢馬の脳髄”を乾燥させた粉末を入れるだけで本ができる、黒魔法のような製法なのだ。ひと月に七、八百種の機械が発明され、次々に職工は解雇される超工業化社会だ。AI発達の予言ともいえるようなこの社会で、不思議にもいくら馘にしようが「罷業」、いわゆるストライキという文字が新聞に踊ることがない。「職工屠殺法」により、解雇された工員はガスによって安楽死され、食用河童として食われるからだ。そのぶん肉の値が安くなる、と河童は言い、河童巻きならぬ河童肉サンドをぱくつくのだった。あなたの国でも下層の娘たちは売春婦になっているではないか? と河童は笑う。「職工の肉を食うことなどに憤慨したりするのは感傷主義ですよ」。俺が思うに、日本国の工業が或る目覚しい発達をみせたとき、まず職を失うのは売春婦やホステスたちだろう。高度な機械によって男が性欲を完全克服したとき、出産という目的を持つ雌が雄を死に物狂いで追いかけ回すという構図が現実のものになるかもしれぬ。俺はあと五十年生まれるのが早かった。……

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