めくら詣で

 午後に起きてから自瀆三昧だった。同窓らが開く連日の新年会も、野暮用があると言ってスッパリと断ってしまった。色男は正月から忙しないねェ、と揶揄いの文面を見たときの俺は能面ヅラでソファに寝転んでいた。性器にあてがったティッシュを処理するのも億劫で、床にすてられていたジッドの「背徳者」を上体をよじって拾い、読んではウトウトと睡り時を潰していた。五時にもなれば、戸外はすっかり薄闇がおりている。雑煮にも飽きたからコンビニにでも行くかと、手につけた水で髪を濡らして、肌着の上に黒いセーターを着てアパートを出た。商店街のスピーカーから春の海が流れていて、この寂れたシャッター通りには似合わないなと苦笑した。二十グラムの蛋白質とコーヒーを買い、商店街を引き返し路地に入った。狭い路に、三人の老人が横並びに歩いていた。三人とも白い帽子をかむり、真ん中の小柄な老婆はけたたましい笑声をあげていた。木の枝を叩くような音がどこからか聞こえる。牛歩の三人に近づくと、それが彼らの持つ三本の杖が路地を搏つ音だとわかった。車が近づいてくると、三人はそれぞれに小刻みに地面を連打してそそくさと端に寄った。馴れたものなのだろう、その間も絶えず三人は談笑を続けていた。

 アパートを通り過ぎたが、俺はしばらく老いた盲者の行進を追うことにした。どうせ帰っても、飯を喰ってまた右手を汚すだけなのだ。三人は住宅街を縫うように、大通りを避けて、人通りの少ない狭い路を択んでいるようだった。記憶しているのか、それとも音や何かで判るのかもしれない。二度と車とすれ違うことはなかった。不規則な白杖の音が静まった路地に響き渡り、それが三本ともなると、はぜる焚き木のように鳴り止まぬ時がなかった。スナックから出てきた酔客が、大柄の盲老人に気軽に話しかけたりもした。果物屋を曲がった所で、三人はペチャクチャとさえずるのをピタリとやめた。石垣に沿って死者のように黙したまま歩き、厳かな足取りで萩中神社の鳥居をくぐった。石畳は空をうつような甲高い音を立てた。

 神は手水場を素通りした三人の盲を責めないとしても、精液のにおいを手に残こした俺だけは赦さぬだろう。コンビニ袋を地面に置いて、凍てつく水で両の手と口を清めた。かじかむ指をセーターで拭っていると、ふと鳴り続けていた音がやんでいるのに気づき、かえってその奇妙な寂寞が違和感を抱かせた。顔をあげると、三人の躰が揃って俺を向いていた。一瞬ゾッとしたが、小柄な老婆が、手水はそこですかえ? と穏やかに訊いてきた。ええ、と俺は答えて、こちらに向かってくる石畳を叩く夥しい音に戸惑いつつも、柄杓を手渡して指南してやった。それぞれが両の手や口を濯いでいるのを見ながら、一体この盲の老人たちは何をお願いするのだろうかと考えた。聞こうとも思ったが、水を塗りたくった老人たちの顔は、下手な問いを寄せ付けぬ厳粛さを湛えていた。皺という皺に闇が入り込んでいるような表情だった。俺は書生みたいに甲斐甲斐しく柄杓を戻したり、段差を注意してやった。大柄の老人が、先に詣でたらいい、と言った。俺は人っ子一人いない神社を見渡して、なぜ自分がこの場所にいるのか、一瞬わけがわからなくなって固まった。あら、消えちまったかいな、と痩せた老人が呟いた。俺は、ただ路地で見かけた聖者じみた行進を追ってきただけなのだ。神に何かを願うことなど考えていなかった。俺は本当に神隠しにでもあったみたいに、息をつめて気配を消そうとした。ありがたいことに、三人の老人はすぐに俺の存在を忘れたようで、カッカッカッと女のハイヒールにも似た音を響かせながら境内の方に歩いていった。

 去年は、川崎大師まで女と夜道を歩いていったのだった。冷えた躰をケバブと湯気のたつ豚汁で温めて、ボーリングを二ゲームして帰ったっけ。いや、あれは一昨年だった。去年は六郷神社だ。髪をボブにした愛らしい巫女が門松や絵馬を売っていた。あそこでは豚汁をタダで配っていて、子どもたちに混じって浮浪者が並んでいた。そうだ、一昨年は、此処で御神酒を貰ったのだ。女が甘酒を飲みたがって、帰りにコンビニに寄ったのだった。大師は三年前だ。怖ろしい気がした。二十七、二十八、二十九、小説のページを飛ばして読んだみたいに過ぎ去った。ああ、じっさい、そうかもしれぬ。何も事件の起きない、同じことの繰り返しばかりが書かれた章があったとしたら、その章を丸ごと引き裂いても差し支えないはずだ。変化がないと、時間が経ったことさえ忘れてしまうものらしい。変化、変化……。変わったのは周りばかりで、俺だけはまるで地球のように、同じ軌道をグルグルと自転している。メビウスの輪、内転するモルモット、眩暈の人生。……

 兄ちゃん、なァ兄ちゃん。朗らかな老婆の声がふってくる。俺はまだ手水場に狛犬のように固まっていた。お参りは済んだかえ? と老婆は言った。いやァ、祈ることがないんです、俺ごときが神さまにお願いすること自体がおこがましくって、罰があたりそうだ。老婆は肩を揺すり、ヒヒヒ、と笑った。兄ちゃんな、神さまにはお願いをするんでなくて、礼を言わにゃなァ、そんな男前に生まれてきたんだ、たっぷり礼を言わにゃ。暗くて、帽子のツバに隠れて老人たちの表情は見えない。神社特有の篝火のような灯は俺一人を照らしている。何、どうせ見えないんだ……。俺は携帯のライトをつけて、ためしに老婆の顔を照らしてみた。アッと声が漏れそうになった。眼窩が落ち窪み、眼球のあるべきところに暗い孔が二つ……。唇を目一杯に広げて、ニンマリと笑っていた。何だね、あんたいままでお願いばっかしよったのかい、まァ罰あたりな、ヒヒ、兄ちゃん、一日と十五日に神様がこの路をとおりなさる、毎月お参りに来るんだねェ、朝にな、躰清めてからでないといけん、兄ちゃん、そんな穢れた躰で来るもんでねェぞ、ヒヒヒヒ、それとな、あたしらみたいな老いぼれの尻は追いかけんことだ、もうすぐ迎えが来るでなァ、兄ちゃん引っぱられちまうかもしれん、ヒヒ……


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