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「おいしい」と「普通においしい」

 両者の違いはなんだろうか。料理を食べて「普通においしい」とよくコメントする友人がいるので、聞いてみた。朝昼晩の食事をほとんど外食で済ますというなかなかグルメな友人である。彼は明確に両者を使い分けていて、序列としては「おいしい」が上で、「普通においしい」は次点に位置付けられているとのことだった。ふぅん。

 「おいしい」の頭に「普通に」をつける理由はなんだろう。ここでは、私なりの解釈を記したいと思う。

 思うに、それは「意外性」というニュアンスだろう。食べる前はそれほど味に期待していなかったけれど、いざ食べてみると予想よりも美味かった、という場合を想像してみてほしい。このときの予想と実感のギャップが、「普通に」という言葉に込められているように思う。食べる前から「これはきっとおいしいだろうな」と予想しているものに対して、「普通においしかった」とは言わないのではないだろうか(言いますか?)。つまり、「おいしい」に「普通に」を付け加えるかどうかは、料理を食べる前にその味をどのように見積もっていたかに大きく影響を受けるといえるだろう。

 しかし、不思議なことである。「意外性」の表現として「普通に」という言葉をあてているのだ。これは、ちょっとおもしろい。こういうような言葉の斬新な使い方を知るたびに、世の中には天才がいるのだな、としみじみ思う。「普通においしい」は、今ではもうすっかり普及して、普通の表現になった。ただ、これを最初に思いついて、使い始めた人間は、間違いなく第一級の天才である。

 「普通においしい」は、それが生まれる前は、世の中に存在しない表現だった(当たり前のことを書いている)。「普通」と「おいしい」は個別に存在していたが、両者を組み合わせて使う人間はいなかった。

 ここから先は想像の話である。

 あるとき、一人の人間が料理を食べて「普通においしい」と感想を述べた。彼は食前、料理の盛り付け方や色合いから「これはたぶん、あまりおいしくはないだろうな」という控えめな分析をしていた。ところが、そんなマイナスな味の予想を大きく超えて、目の前の料理はとてもおいしいものだったのだ。それで何か感想を言おうと思ったのだが、そういうバックグラウンドというか、食べる前の自分の心情を含めて料理の味にコメントしようとすると、どうしても長くなる。別に長くなってもいいのだが、ここは何か気の利いたコメントを一言でビシっと決めてみたい。何か良い表現はないものか。と、一瞬のうちにそこまで思考をめぐらせて、とっさに「普通においしい」というコメントが出た。天啓であった。

 食事に同席していた友人は、そのコメントの意味を瞬時に理解した。「なるほど、そういうことか」と。すなわち、相手がやや低めに味の予測を立てていたこと、しかしそれを大きく上回るおいしさに感動していることを、その短いコメントを聞いてすぐに理解したのだ。そんな言葉の組み合わせはこれまで一度も聞いたことがなかったのに、である。「普通」も「おいしい」も、それぞれの意味は知っている。ただ、これらを組み合わせて使用することで、こんなにも示唆に富んだ表現になるものかと、このときの友人は深い感動を覚えたのである。

 そうして人から人へ、ときに影響力のあるメディアをはさみつつ、この表現は全国に伝播していったのではないだろうか、というのが私の予想である。これまでになかった表現を生み出し、一瞬のうちに相手を理解させる。たとえ意識的に生み出された表現ではなく、まったく偶然の産物であったとしても、それは間違いなく天才的なひらめきである。

 こういう新しい言葉の使い方に対しては、否定的な見方をする人も一定数いるだろう。「普通においしい」はどちらかというと若い世代の人が使う言葉だろうから、そういうものを「日本語の崩壊」なんて表現で十把一絡げに批判する人間もいるだろう。しかし、「普通においしい」に限っていえば、これは「崩壊」ではないと私は思う。「破壊」でもない。既存の言葉を組み合わせたら、新しい意味がたまたま生まれただけである。どちらかといえば「生成」とか「創造」に近い。

 「言葉とは、時代と共に変わりゆくものである」というのは、どこかで聞いたことのあるフレーズである。誰が言い始めたのかは知らないが、まったくその通りだと思う。言葉は変わる。そして、言葉が変容していく背景には、天才的な人間の存在がある。言葉は、ひとりでに変わるものではない。自然が変えるものでもない。変えるのは人間である。意識的であるにせよ、無意識であるにせよ、至高の切れ味をもった天才のひらめきとセンスが、現代における「新しい言葉」の源泉だ。そこに目を向けよう、と私は言いたい。やみくもに新しいものを否定してはならない。誰がどんなきっかけでこのような言葉を創造したのか。どんな天才が、どのような受け手に発信したのか。それは誰かが仕組んだ計画なのか、無意識的に生み出され拡散したものなのか。いわゆる若者言葉をはじめとした、とかく批判されがちな「新しい言葉」を考えるときは、その背景にあるものに思いを巡らせてみよう。今までとは違った世界が見えてくるかもしれない。

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