100日哲学チャレンジ☆14日目

ここ数日、原稿に向き合おうと何度も思いましたが。避けがちでした。
書きたいことが多すぎて。しかし、書きたいと思ったことも、記憶は時間と共に薄らいでいくものですから、「書けなかった」という感覚ばかりが後に残って、更に白紙を見るのが億劫になる。しかし、書かずにはいられない。自分のよく分からないところです。
まずはじっくり整理していこうと思います。

昨日。自動車学校の卒業試験でした。意外と緊張せずに試験を受けることができたのは、職場や家族、友人、恋人、みんなが優しく、支えてくれたからだと感じました。無事に試験には合格して、あとは平針試験場で最終試験を受けて、免許をもらうだけ。まあ、試験場でダメだよって言われたとしても、構うものかですよね。また次回、受け直せば良い。それくらいの気持ちで、色んな資格の勉強は進めていくと、気が楽だなって思いました。今まで、高校受験、大学受験、そして卒論等は、受からなかったら一年間先送り、っていうプレッシャーがあったから、とにかく精密に準備を進めたけれども。大人になって、定職についた今は、一個のことに集中して、完璧に仕上げる、というよりは、どれもそれなりの基準でこなして、ばんばん形になるものにとりあえずもっていくのが良い。そんなふうに思いました。

 形が少々歪でも、「価値を感じない」と言われたモノであったとしても。作り続け、やり続けることに自分が意味を見出しているのならば、納得しているのならば、やればいい。逆に、人から指摘されて、やっぱりやめようかな、なんて思ってしまうものは、そんなにも自分の中で大事な事柄でもないのかも。一時的にやめたとしても、また時間が経って、「やっぱりやりたいな」と思い、やってしまうものは、きっと自分の中にしっかりと憑りついている魔物がいる証拠なのだから、魔物に付き合ってやるのもいいなと思います。それが自分にとっては、研究と執筆、であるだけです。

 「憂国のモリアーティ」を見ながら、考えていたのですが。僕はまだ、個性や専門性と呼べるほどの卓越化した何かを持ち合わせていません。確かに教員免許状は何枚か持っていますが、教員として、どのような位置・スタンスに自分を置いていくのか、なんてのはまだ全然わかりません。とにかく、色んなことをやってみて、自分の得意・不得意や、興味、仕事における必要性もさることながら、趣味や道楽との繋がりも、見つけて組み上げていくことになる訳です。世界的に有名なモリアーティ教授を引き合いに出して比べるのもバカみたいな話ですが、自分には彼のような信念も覚悟も、知恵もない。酔っぱらってべらべらと弟に、自分の考えてきたことを一通り昨日は喋ってみたのですが、それにしても創造的な、具体性のある話をまだできない自分に、歯がゆさを感じるばかりでした。弟は弟で、僕の矢継ぎ早の中身があるようでない知識の雪崩に、心底ウンザリした顔で付き合ってくれました(感謝)。
 また大学時代のように、美しく高い理想を持ったリーダーのもとで、盤面を動かす傀儡師になりたいと思いつつも。やはり現実的には、操心ではなく、尊敬と主体性、礼儀と必然性に基づいて、相手の利益を願う形で、プロジェクトは運営されるべきでしょう。自分が、頭が良いのか、悪いのか、なんていうことで悩むのは最早あほらしいことで、今持っている力、そしてこれから身に着ける力を、何に注ぎ込むのか、手探りで進んでいくことの方が今は優先なのです。
 
 とはいえ、僕は意識的に、非常に注力している仕事上の研究について、この場では言及を控えています。この場所にまでそれを持ち込んでしまえば、僕には精神的に逃げ場がなくなる。「価値あるものを生み出すことに価値がある」という資本主義の絶対論理の浸食を避けるが為にも、僕は価値のあるものもないものも作り出し、ただ遊びたいのです。それを、稚拙だと言われればそうでしょうが、最早そう言われて自己嫌悪に陥る余裕も、社会人になってからはなくなりました。

 (また明日へ続く・・・♪)

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