言葉について考える。8 哲学書が難しいのはなぜ?

大学生の頃に買った『ニコマコス倫理学』、まだ読めていない。

アリストテレスも呆れとります。

どうにもならない人生に救いを求めて買ったけど、

読まなかったということはその時を無事過ごせたのか、

それとも今のためにとっておいたのか、どっちだ?

そもそも哲学書に救い求める大学生っているの?


 以前「方法序説」を読むのに時間がかかったという話をしました。

 わたしは以前大学院生として勉強をしており、この期間は自分の専門外の哲学書を読むこともありました。哲学書ってなぜこんなに読むのに時間がかかるのでしょうか。おそらく今アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を読んでも、一年やそこらじゃ読み終わらないでしょう。

 正確に言えば、読み終わらないというより、読み終わるということがそもそもないということかもしれません。

 デカルトの「方法序説」は序説という名のとおり、分量としてはそこまで多くありませんが、哲学の古典として読まれてきています。おそらくこれからも読まれるでしょう。分量としての全体を読み終わることはあるかもしれませんが、「よっしゃー! 方法序説読み終わったー!」という台詞にはやや可笑しみがあります。

 多分もうすでに何人もの人が「読み終わっている」はずですが、この本が読み終わることはありません。なぜでしょうか。

 おそらくそれには「問い」ということが関わっています。哲学書でとても重要なのは、実は結論ではなく、問いです。そしてその問いから生じる考察の過程、言葉、文章が大事です。結論は「ひとまず」おかれます。

 結論が大事じゃないか! と思われるかもしれません。もちろん結論も大事です。結論は道のりの集積です。しかしやはり問いが重要なのです。人間にとって「問い」は重要なのです。

 最初の話に戻って、哲学書ってなんでこんなに難しいんでしょうね。言葉自体は理解できるし、文法も理解できる。しかし書いてある内容が分かるには、とても時間がかかります。ただ、読んでいくことによって、分からなかったことが分かるようになるという過程があることも事実です。不思議ですね。

 

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