今、デカルト「方法序説」を読む。

 自分こそが正しいという気持ちになることはある。そしてそれは悪意からではなく、善意から、正義感からであるから余計に事情は複雑になる。他人と共存するとはどういうことか、異なる意見が生まれた時どうすればいいのか、私たちが直面する問題は古典の中にヒントがある。

 哲学書の入門として扱われる古典に、ルネ・デカルト「方法序説」がある。デカルトは17世紀フランスの哲学者であるが、生涯でさまざまな国を転々とした。「方法序説」は、1637年、デカルト41歳の時にオランダで出版されたものである。「序説」という名のとおり、これはデカルトが発表した大著の序として書かれたものであるが、それは今日までも読み継がれる哲学の古典となっている。

 わたしは確か19歳くらいの頃に初めてこの本を手にした。それまで哲学書なんて読んだことがなかった。初めて手にした時は、内容はさっぱりわからなかった。最初の数ページで挫折し、本棚に眠っていた「序説」をちゃんと読み返したのはそれから3年後ぐらいだったと思う。岩波文庫の青で読んでいて、厚さ1センチにも満たないけれども、それをちゃんと理解するには初めて手にした時から4年ほどかかったと思う。

 こう書くと内容がやたら難しいのではないかと思われるが、そんなことはない。とても簡明に、そして内容が濃く、短くまとめられている。さまざまな意見があると思うが、わたしにとってはやはりこれが哲学の古典のように感じる。でも簡単に読めるものではない。一つの哲学書や本を読むにはじっくりその言葉や思想と向き合う時間が必要だ。

 哲学は当たり前とされていることを問い直す。そして哲学書を読むことは、先人たちの思考の軌跡や足跡をたどることができる。哲学書をじっくりと読むことは結構おもしろいはずだ。わたしは「方法序説」を読むのに4年かかった。だけどそこに書かれていることはどんどんと自分を形成していく。形成していくというより、地盤になっていく。4年の歳月は無駄なものではなかったと思う。

 「方法序説」ではまずはじめに次のことが言われる。


良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである。
(…)
わたしたちの意見が分かれるのは、ある人が他人よりも理性があるということによるのではなく、ただ、わたしたちが思考を異なる道筋で導き、同一のことを考察してはいないことから生じるのである。(…)


 これは本当に冒頭の部分の少しの引用であるが、これだけでもとても考えさせられる文章だ。「良識」は「理性」ともいわれ、原典では「bon sens」(「正しい分別」、「真偽を判断する能力」)と書かれる。私たちは自分に自信がない、とか、将来なにをしたらいいかわからない、とか悩むけれど、でも自分のなかで正しい分別をできているだろうかという疑問を持つことはないだろうと(「その当時の哲学者は言ってるんだよ~。」と)デカルトは言っている。もちろんデカルトの「序説」で一番言いたい主張は、このことを問い直すことから始まる。彼はすべて〈真〉(つまり揺るぎない真実)だと思われていることを疑った。そしてこの疑ったり、何が〈真〉だろうか? と考えている自分が存在しているということだけが、まず確実に真実であるという一つの結論に達した。

 やや難しいことを書いたが、つまりこういう事だと思う。私たちはそれぞれ「これが正しい!!」という考えを持っている。だからこそ何が正しいか? ではなく、それぞれの人が抱いている〈真〉をそれぞれが疑ってみることにこそ意義がある。おそらくデカルトはそのような考えをもっていたのだ。学問の基盤だな、と思うし、こういう古典があるからこそ、人は生きていけるのだとも思う。

 でもやっぱりこういう本を読んでいても、「自分が正しいのに!」と思ったり、異なる意見を持つ人に苛立ったりしてしまうのは人間の性である。私もそうだ。だからこそ時にはゆっくり立ち止まって、一つの本に一年やそのくらいの年月をかけて読んでみるということも大事なのかもしれない。本を読むことは自分と向き合うことなのかもしれないな。

*デカルト『方法序説』、岩波文庫、谷川多佳子訳

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