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幸せの判断として

このところ人と話をすることが極端に減り、自分の中で考えを巡らすことが主になってきた。この極端な休みの中で、自分というものをよりクリアに捉えることができているとともに、一人で生活する事に寂しさを一切覚えなくなったことに驚いた。一人暮らし4年目の春。

1年前までは寂しくて仕方なかった。友達も多くはない、恋人もいない、甘えたくなるようなお店もなく、私はこれからどこに行くのだろうかという問いを何回も作り出しては忘れる努力をし、世の中の人々の強靭さにいつも怯えていた気がする。どんな人にも悲しみは付きまとうものであり、それを想像することと理解はしているのに、なんだか軽やかに生きているように見える他人が羨ましくて、憎いとまで思うほどだった。そんな憎悪を見透かされてたまるものかという、これまたひねくれた負けず嫌いから理論武装と強がりと、平気なふりを繰り返し、より自分が孤独になっていくことを遠くから眺めていた気がする。

そお常に、私の敵は私の中にある。他人に何か嗾けられたとて、私はそれに反応している私に嫌悪感を抱くのだ。対する嫌なことを目の前にして、反射的に打ち勝つ脳の回転力がない自分に惨めさと敗北感を感じる。自分で自分を殺す思考だな、とそこでも疑問を抱き、果てしない渦に飲み込まれていく。

そんなことを繰り返し私は一つの答えに行き着いた。それは「判断」である。この自分を繰り返し攻撃してしまう思考に対する防御策としての「判断」である。

はて、また考えてみると、渦に飲み込まれていく時間は必要か否かである。必要な渦も沢山ある。ないものもある。ではその判断を事象毎に正しくしていくことができれば、この苦しみから逃れたられることができるのではないだろうか。

この文章を書いている今はすでに、過去のことなので、理論的思考が先立ち点と点を結ぶことができているが、実際していた頃はただの癖である。その癖が私の今の性格に繋がっていたのだなと最近気がついた。

いろんなところに判断があった。いろんなところに判断基準があった。今の自分の気分、立場、金銭感覚、諸々を考慮して一番幸せと感じる判断は何だろう。全てを何となくではなく、しっかりと理由をつけて自身が納得出来るポジショニングは何なのか。常の判断が人生を作っていく。後悔のない、自分の選択に文句のない行動を。もはや修行のような気持ちで自分の心地が良いほうはどちらかという問いを生活の中で何万回、何億回と繰り返し、正解率を上げていくことが生きることなのでないかと受けとめ始めた今日この頃。10日意識すれば人はそれを癖にできると聞いたことがある。私は今後も毎日判断を繰り返すだろう。でもそれを考えていることを見透かされることがまた恥ずかしく、他人にはいつも「何となく?」と答えてしまう。それもまた私の判断である。ただ一つ変わったこととして、私は私の味方になった。

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