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活字の中を釣り巡る フライフィッシング的読書ガイド

『FlyFisher』2014年11月号掲載 ※書籍情報は掲載時のものです

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『ヘミングウェイ釣文学全集〔上巻・鱒〕』
(文藝春秋)

ヘミングウェイの釣文学と言えば『老人と海』『大きな二つの心臓の川』が有名であるが、本書に収録の『最高の虹鱒釣り』『二十ポンドの鱒との激闘』の二作に興奮しないフライフィッシャーはいないだろう。カナダでの虹鱒釣りを記したこの二作は、巨大な虹鱒とのパワフルな激闘がヘミングウェイらしい荒々しい文章で記されている。
エサに飛びつく虹鱒の水柱。そして二フィートもぶっ飛んでいく虹鱒。虹鱒は跳躍するのだ。また、ヘミングウェイの釣友ペンテコストがかけた、腕の長さはある虹鱒と一時間以上もの格闘とその結末は川釣り版『老人と海』を読んでいるかのよう。ヘミングウェイは虹鱒釣りと川鱒釣りとではプロのボクシングと素人の殴り合いほど違うと喩えているが、本作はまさしく格闘と呼ぶに相応しい傑作である。

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完本 私の釣魚大全
開高健(朔風社)※絶版

「軽妙洒脱」という言葉は開高健の文章を表すために作られたのではないか。軽やかな文章に挟み込まれる博識で頷き、男性には頷くこと然りの下ネタあり、釣り人の性にまたまた頷く。
エサ釣りは魚を捕る前にエサを取らなければならない。『まずミミズを釣ること』では、ゴカイを三杯酢で和えたら美味いのではないかと思いつくが、釣り餌問屋の主人に「そう高いもの食っちゃいけませんぜ」と嗜めれる。ゴカイは空路を渡り釣り餌問屋に届くことから高価なもので、「ハゼ様に召し上がっていただくよりほかない」と諦める。
ヤマメ釣りでは、河原の石をひっくり返すと羽虫がいて、それを焼いてキツネ色に焦げたのを食べるとエビに似た味がして美味しいのだそうだ。「だからヤマメ様にはイクラを食べていただく」と開高健。
本書には「釣り人斯くあるべし」というような説教臭さがない。それがいい。開高健は人間が魚を支配するのではなく、人間が魚に支配されているということを教えてくれる。
釣り人は竿を振り回すが、魚は釣り人を振り回すのである。

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マクリーンの川
ノーマン・マクリーン (集英社)

 フライ・フィッシング文学では絶対に外せない。映画『リバー・ランズ・スルー・イット』の原作である本書は、モンタナの原風景と父と息子二人の物語がフライフィッシングとともに描かれる。
この映画に影響を受けてフライフィッシングを始めたという人も多い。僕もその一人。
物語は「わたしたちの家族では、宗教とフライフィッシングのあいだに、はっきりとした境界はなかった」という文章から始まる。これほど明確にフライフィッシングを中心に沿えた小説というのは珍しく、また魅惑的なこの釣りの虜になる理由が、家族や人生といった我々の現実と重ねられることにも気付かされる。そのような意味でも本書はフライフィッシャーにとってバイブルと言っても過言ではなく、またフライフィッシングを知らない人に本作を例えに出せば良い格好が出来るのである。一度は読んでおきたい名著である。

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『雨の日の釣師のために』
D&G・パウナル/開高健 編 (TBSブリタニカ)
※絶版

部屋にいてあれこれと夢想にふける釣師のことを〝アームチェア・フィッシャーマン〟というそうだ。本書は一冊に三十五編が収められていて、タイトルからして釣りに行けなくて悶々とした気分を幾分和らげてくれる。ヘミングウェイ、シェイクスピア、フォークナー、ブローティガン、モーパッサンなど錚々たる文士たちの釣り随筆はどこのページから開いても部屋にいながら釣場へと誘ってくれる。その中でとっておきの釣場はジョスリン・レインの『マハシア伝説』である。英国統治時代のインドにてマハシアと呼ばれる巨大な鯉をフライで釣るというお話。インドという神秘めいた場所と伝説と付く魚の話は何とも言えない興奮を呼び起こす。これだから釣文学は面白い。

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釣師・釣場
井伏鱒二 (講談社文芸文庫)

 釣り文学というと真っ先に思い浮かべるのが井伏鱒二である。
本書は井伏鱒二の釣行記をまとめたものであるが、フライフィッシャーとしていの一番に開くのはやはり「奥日光の釣」であろう。
全般がリール竿による釣りの中、ニヤリとさせるのが井伏が洋式の蚊鉤竿、つまりフライロッドと初めて対面した場面だ。
昆虫を模した毛針、フライを浮かべることが、鱒にとって誘惑であるとする洞察は流石である。
湯ノ湖で釣りをした者であれば、この「奥日光の釣」の話は時代を問わない普遍的なものとして感慨深い。
釣場だけでなく、そこに至る道程、出会った個性的な釣師の話しなど、普段何気なく出向いている釣場が、実は多くの人の記憶で覆われていることに改めて気付かせてくれるのある。

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パブロフの鱒
ポール・クイネット
(角川書店)※絶版

最近釣りに行ってない、または少々飽きてきたと感じている釣り人に読んで欲しい。
 釣り人はいったい何を追い求めているのか?
そんな釣り人の根源的な思いを考察している本書は、魚を釣り上げることだけを至上命題に掲げた釣り人の目から鱗を落とさせる。
なぜ魚は鉤がかかった瞬間に猛烈に暴れるのか、そのファイトに釣り人はなぜ興奮するのか、なぜ釣り人は丸一日も釣れてないのに川に立っていられるのか。そして、なぜ我々は釣り人になったのか。釣り技術については一切触れられていないが、釣り人の心理や思考の多くを本書は教えてくれる。
「伸びたラインが水辺へと伝えているのは、我々の希望だ」
この一言を思い出すたび、また釣りに行きたくなるのである。

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イギリスの鱒釣り
フランク・ソーヤー
(晶文社)

釣りを始めた頃、それまで全く関心がなかった川が気になり出して仕方がなかった。魚がいるのだろうか、釣れる川なのだろうかと。それは偏狭な川への見方となって、魚が釣れない川は悪い川だと思うようになっていた。
そんな時に出会ったのが『イギリスの鱒釣り』である。
著者のフランク・ソーヤーはイギリス、ソールズベリー平原のエイヴァン川で川の管理人として生涯を過ごし、戦後、まだドライフライが主流であった時代にニンフフィッシングを確立した大家でもある。そのソーヤーが語る本書の中で今でも印象に残っているのが、第六章「フライとニンフ」の冒頭部分である。
〝わたしにとって川は偉大な芸術家の手で描かれた絵に似ている。川には無頓着な観察者が目にするよりもはるかに多くのものがあるのだ。人はさまざまな角度から川を見なければならない。光と陰に目をとめ、表面下に目をやり、共通の背景のなかに数知れぬ物の色彩を溶け込ませた絵筆の揮い方を見なければならない。画家が心に思い描いたものを理解できる場合にのみ、その画家がキャンパス上に表現した絵を十二分に鑑賞できるのだ。〟
僕はまったくの無頓着な観察者であったことに気付かされたのだ。
川をすべて理解できた訳ではないが、少なくとも本書を読むことで「わたしは魚とりが人類のためだけにあると考える人たちの仲間ではない」というソーヤーの言葉に賛同できるくらいには、魚に目が眩んだフライフィッシャーにならずに済んだのである。

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日光鱒釣紳士物語
福田和美
(山と渓谷社)※絶版

なぜ奥日光湯川がフライフィッシングの聖地と呼ばれるのか。本書は幕末から明治、大正、昭和と一大リゾート地にするべく夢を追った釣師たちの物語である。鱒の生息しない奥日光へ鱒の移植を始めたのは英国人公使付参事官ハロルド・パーレットであるとされ、放流したブルックトラウトをパーレット鱒と呼ぶようになった。実はその費用は坂本龍馬などと親交のあった長崎の貿易商トーマス・グラバーであったということで、本書は一気に幕末から近代日本の歴史という圧倒的なスケールを帯びてくる。
昭和に入り、英国との関係悪化など一抹の哀しさも漂い、グラバーが故郷スコットランドの川を奥日光湯川に重ねていたかと想うと湯川での釣りがまたひと味違ったものになる。
奥日光で釣りを楽しむなら欠かせない一冊である。

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日本の名随筆4 釣
(作品社)

「なぜ毛鉤で釣れるのだろうか」
毛鉤にまだ信頼を寄せられない餌釣りからの転向フライフィッシャーには本書収録の山本素石『テンカラ幽玄』をお勧めしたい。
陶器狂の人間が河原の砂の中に埋まった白磁の瓶子を見つけるも白いゴム鞠だったという。
それだけで魚が偽物であるはずの毛鉤を本物の虫と勘違いする理由がわかるというもの。
とくに毛鉤を「イタズラ」との言い換えには猛烈に納得。喩え話の上手い釣りの読み物ほど面白い物は無いのである。山本素石がテンカラ釣りを始めたころの話であるが、初めの一尾を釣る迄の苦悶とした心情は自分の初釣果までの苦労とダブり他人事とは思えない。
 和式洋式を問わず、騙し騙されの毛鉤釣りの魅力を言葉巧みに語る本作は、フライフィッシャーにとって必読といっていい。

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鱒釣り アメリカ釣りエッセイ集
(朔風社)

アメリカのフライフィッシャーたちが語ったエッセイ十三篇が収録。
なかでも元アメリカ大統領ジミー・カーターの『スプルース・クリーク日誌』は著者の立場から見ても興味深いエッセイである。しかしその内容は、魚を釣るために誰よりも早起きし、マナーの覚束ない釣り人の愚痴を言い、大物に逃げられ悔しがる、我々となんら変わらない釣り人のエッセイである。大統領のためにH・L・レナード社が作った高級ロッドや戦前のS・アルコック社のフック一箱くらいが贈られる以外は。
 もう一篇オススメはロバート・トレーヴァーの『つましき釣り人』である。
これは道具に関するエッセイであり、フライフィッシングを始めようと思っている人に一読をオススメしたい。この釣りにはお金がかかるというイメージを払拭しようとする著者の意気込みが微妙に空回りしているところが可笑しい。釣りをするだけなら本当にお金がかからない釣りだとは思うが・・・これは読んでのお楽しみ。

ことフライフィッシングが関わる本では専門用語の羅列で初心者には意味不明というのが多い。しかし本書は注釈付きであるため、この釣りの大まかな雰囲気を掴むにはもってこいである。
また、フライフィッシング発祥の地イギリスのスタイルが牧歌的で詩的、自然と調和するイメージではあるが、アメリカのスタイルはスポーツ的、探求心や合理性が釣りの上位にくるようなイメージである。イギリスの釣りエッセイを集めた『釣師の休日』と読み比べてみるのも面白い。

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釣り師の休日
エドワード・グレイほか
(角川書店)

『鱒釣り アメリカ釣りエッセイ集』が戦後のアメリカの釣りエッセイを集めたものであるが、こちらは十九世紀末から二十世紀にかけてイギリスで書かれた釣りエッセイ集である。
オススメはロウズィー・バーラムの『フィッシング・ウィドウの手引き』である。フィッシング・ウィドウ―つまり釣師の未亡人である。なぜ釣師は釣場に行くのにすべてを犠牲にするだろうか、鰓のあるものを捕まえる衝動はどのように生まれるのだろうかと、釣り出かけた夫に取り残された妻が、釣師を理解しようと考えを巡らすエッセイである。
家族を置き去りにして釣りに出かけてしまうフライフィッシャーは、この一篇をあなたではなく、残された家族、特に奥様に読んでもらうことを強くオススメする。
これはあなたのためである。
幸運を祈る。



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