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角幡唯介 『漂流』

 『FlyFisher』2016年10月号掲載

 シーズンが終了した。
今年は春からあまり気持ちのいい釣りに出会えず、釣行もあまり重ねられずにシーズンが終わってしまった。
 例年、一回くらいは爆釣があるものだが、今年はなんとも低調であった。
ただ、爆釣が多ければ良いシーズンかというと、実はあまりあっても困るのが釣り人の面倒くさい習性である。昨シーズンは一度だけものすごく釣れた釣行があった。昼過ぎというのにライズが止まらずキャストすれば必ずヒットする。贅沢なもので、こうなると釣りが単なる作業と化してしまい釣りが全く面白くなくなってしまう。本当に釣り人は面倒くさい。
 釣りに効率を求めると漁になると誰かが言っていたが、まさに釣りと漁との境界は効率を求めるか否かであると思う。

先日読んだ角幡唯介の『漂流』(新潮社)が漁の話として胸躍るノンフィクションだった。
 一九九四年に沖縄のある漁師が南洋で消息を絶ち、三七日間の漂流の果てに生還した。しかし八年後、再び漁に出て行方不明になる。
著者はなぜまた男が漁に出たのかを探りに足取りを追うのだが、そこから浮かび上がってきたのは漁師という仕事の実態と、陸に暮らす人間には到底理解できない海の民たちの生き方であった。

 日本の周辺海域での漁場の漁師の大半が沖縄の人たちであり、その中でも宮古島の隣にある伊良部島にある佐良浜という地域出身の人々は、漁師の中でも人間として濃さが段違いである。

ある漁師の「漂流」をテーマに佐良浜に足を運んだ著者が、地元漁師から聞かされる話がべらぼうに面白い。
 
 まず漁師の金の使い方がすごい。
沖縄の本土返還前では、パラオに出漁すると月に三百ドルから五百ドルは稼いだという。当時一ドル=三百六十円の時代である。本土の平均給与が二万円から四万円の時代に沖縄の漁師は月に十万円から十八万円は稼いでいたのである。
それが漁に出れば稼げたのである。だから貯蓄という概念がない。
行き着くお金の遣い道は、飲む、打つ、買うである。
僕がイメージする「ザ・漁師」を地で行く無頼な生き方である。
 遠洋マグロ漁では、グアムに基地ができるとグアムにある韓国クラブに入り浸り、ジョニ黒やシーバスを頼み〝お通り〟で一気飲み。一晩に五千ドルは使った。クラブ側も豪快にお金を落とす客を逃すまいと漁から戻る漁師を捕まえるために港ではクラブのママたちが立ちならび、〝岸壁の母〟と呼ばれていたという。
 
また、漁師一代記ともいえる話がこれまた壮絶。
 戦後、アメリカ軍政となった沖縄近海では戦中に沈んだ軍艦が多く、米軍の弾薬輸送船から弾頭やスクラップを違法に回収してボロ儲けしたという。そして不発弾や沈船から回収した弾薬から手製のダイナマイトを作り、違法であるダイナマイト漁でも稼ぐ。あるとき沈船からのスクラップ回収作業中に作業のミスで沈船が大爆発。原爆のようなキノコ雲が上がり周囲にいた作業船数隻と三十人以上が爆死。それでも懲りずにまた沈船漁りを続けてまた沈船が大爆発。当時は腕や足が無い漁師が多かったという。
 そんな佐良浜の漁師たちの子供のころは集落に転がる不発弾から火薬を取り出して流木を燃やして遊んだりしていたというから、沖縄という場所と時代を強く意識させられる。
 そうした事故で仲間の漁師が亡くなったことを語る漁師も「みんなダイナマイトで相当やられているよ。一度に三人も四人も死んだりしてね。火薬抜きとって鉄を売って、それでもだいぶやられたんだ」とあっけらかんと言う。

本書では、海に生きる人の価値観、死生観がこれほどまでに陸の人間と違うものかと驚かされる。海洋民と呼ばれるように、海で生きるからこその境界を意識しない独特な視座。陸の民である人は必ず打ちのめされる一冊である。

漂流
角幡唯介/著
新潮社 2,052円
ISBN:978-4-10-350231-9

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