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お土産で間がらが見える

 アメリカ旅行の際に衝撃だったのは、一緒に行った友人が購入したお土産の多さである。キーホルダーからお菓子、さらにはtシャツにハンドバッグまで。おそらくその友人はお土産だけで、かるく50ドル以上購入していたと思う。

 これのなにがすごいかって、全部自分のモノではなく、誰かにあげる用のお土産なのだ。ケチ性で、普段からよく会う人にしかお土産はあげたくないと考えてしまうぼくは、心の狭さみたいなものをアメリカの広大な大地でひどく痛感した。その友人は、「あいつとあいつにはコレかな」なんて言いながら、楽しそうにお土産を選んでいる。かたや、「お土産はあいつらに準備すれば十分だろう」と考えているぼく。トホホな性格だ。

 お土産を買うという行為は、旅先でもその人の事を考えているということだから、とても尊いことだと思う。旅先で楽しそうにしている友人が、もしも自分のためにお土産を買ってきてくれたら、「あんなに楽しそうななかで、ふと、ぼくの事を考えてくれる時間を作ってくれたなんて、、」と感動してしまうだろう。それがわかっているのにやらないぼくは、ある意味で友人に恵まれている。こんな性分で変わらずに相手してくれるのだから。

 そういえば以前、オーストラリアの砂をお土産だと言ってもらったことがある。そいつとは気心も知れていたし、ぼくは半分冗談でいらないと言ったものの、心のどこかでは嬉しさを抱いた気がする。「タダでお土産を済ませやがって」と一瞬思ったけど、そいつがオーストラリアのビーチで一人、ぼくとの間がらも考えてジップロックに砂をかき集めてくれている姿を想像すると、なんだかおもしろかった。そいつの思わぬ一面である。

 お土産には、その人との間がらが如実に表れる気がする。それは値段とかもそうだけど、やっぱり何をくれるかでわかる。ふざけたものであったり、真面目なもの。使えるものに、いらないもの。一度使えばなくなってしまうものか、一生使えるようなものか。3年生のとき行った旅行ではお菓子を渡していた友人たちに、今回はコースターをプレゼントしていた。コースターをお土産として選んだときに、その友人たちと距離が縮まっていたことを実感した。自分がやったことなのに、無意識にそのコースターを手に取ったことに安堵したし、嬉しかった。遠く離れた地でも想う人たちのことは、これからも大事にしていきたい。

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