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時を越えて 第3話(完結)

3

 一ヶ月の時が流れた。浩介は再び終電に乗っていた。
 この一ヶ月の間、リンのことを忘れようと努めた。だけどできなかった。リンは浩介の心から消えず、それどころか一層強くなっていった。
どこにいても彼女の姿がちらついた。絶えず彼女が笑いかけているような気がした。そして言う。軽やかな、鈴の音のような声で。

〝浩介。ねえ、私の名前を呼んで〟

 リンが浩介の心に植えた花は、もうしっかりと根づいてしまったらしい。花は心の中に咲き、香りは優しさを振り撒いて。 
 そして浩介はもう一度、終電に乗る決心をしたのだった。リンに、さよならを言うために。だって自分にできることは、何もないのだから。たとえリンの姿が胸から消えなくても、リンのことを想う気持ちがどんなに強くなっても。
 電車は容赦なく近づいていく。二人の出会った、あの場所に。
 浩介は瞳を窓から逸らさなかった。胸が高鳴る。約束の場所はあと少し。
もうすぐリンに逢える。 
 
窓の向こうの闇の中に、光が見えてきた。光の中には街の賑わいが見える。和服と洋服の人が入り混じり、レンガ造りの建物や、その中を堂々と通る馬車が見える。
 浩介は目を細めた。なんだか光の中全体が薄くかすんでいるようで、よく見えない。だけどすぐに、その中を駆けてくるリンの姿が目に入った。
もうそれだけで、泣きたいような気持ちになった。駆け寄ってくる少女を抱きしめたい。だけどそんなことができるんだったら、そもそもこんな思いはしなくていいんだ。
 二人は、一枚のガラスを隔てて向かい合った。浩介は驚いて目を見開いた。まずは名前を呼ぼうと思って、開いていた口が固まる。
そんな、そんな……
 リンの姿はかすんでいた。ぼんやりとして薄い。背後を見ると、後ろの街も、その中にいる過去の人々も、みんなぼやけてかすんでいた。
 にっこりと笑って、リンは浩介を見上げた。その笑顔もかすんでいる。浩介は手を上げようとした。ガラス越しに、彼女の手と触れ合うために。ところがそれよりも先に、頭の中に声が響いた。
〝浩介〟
 浩介は驚き、リン、と叫んだ。リンは驚いたように瞳を瞬いた。
〝浩介、今の声が聞こえたの?〟
〝うん。聞こえた〟
〝わあ。私にも今、浩介の声が聞こえた。私たち、手を合わせなくても聞こえるようになったんだね〟
〝うん。そうみたいだ……〟
 リンの言葉に頷きながら、浩介は驚きと悲しみを悟らせないようにした。
〝嬉しい。浩介がまた来てくれて。もう逢えないのかと思ってた〟 
 彼女のひたむきな姿に、一瞬ひるんだ。でも言わなきゃ。浩介は口を開いた。けれど彼女のほうが先だった。
〝やっぱり、ちゃんとお別れを言っておきたかったから〟
 頭に一撃を受けて、ごちゃごちゃになってしまったような気がした。その間に彼女は次の言葉を紡ぐ。
〝ここで逢えたのって、すごい偶然だよね。……私には、とても嬉しかったけど。でもこれが、いつまでも続くなんて思えない。だから、もう……〟
 浩介はただ、彼女の髪が目の前でさらさら揺れ動くのを見ていた。まるで光の糸みたいだ、と思った。
〝だって浩介は、私と違って普通の人だから。浩介はこの時代に生きている普通の人で、なのにいきなり私と会っちゃって、びっくりしたでしょ?〟
 浩介は何も言えない。
〝これは浩介にとっては、通りすがりの事故みたいなもの。だから、もうおしまい。おしまいにしよう〟
 そう言って、リンは両手を上げた。浩介も、彼女に合わせるように両手を上げた。指先がじんと熱くなる。
〝それを伝えたくて。……最後にちゃんと、お別れがしたくて。だから今日、また逢えて良かった。……さようなら、浩介。ほんの少しの間だけど、私、嬉しかった。ありがとう〟
 そう言ってリンは微笑んだ。リンの言ったことは、すべて浩介が言おうと思っていたことだった。自分で言う手間が、省けたんじゃないか。
 浩介はリンを見つめた。笑っている。
 もしかして、この一ヶ月、俺が姿を現さなかったから、リンは俺の心を想像したんじゃないだろうか? それでリンはそう思うようになったんじゃないか? 
 ……きっとそうだ。だって、なぜなら、寂しくないはずが、ないからだ……。
 それともう一つ。今のリンの言葉は、彼女がかすんでいて薄いことには触れていない。
〝どうして……〟
〝え?〟
〝どうして、きみは、かすんでいるの〟
〝うん……しばらく前から、こんなふうなの。自分の体がかすんでるのって、不思議だね。ふふふ〟
〝笑ってる場合かよ!〟
 浩介は声を荒げた。それから内心で、殴りたいほど自分を軽蔑した。何を言ってるんだ、俺は。泣きたいのも叫びたいのも、俺のほうじゃないだろ。
 だって彼女が笑っているから。泣くべきなのに、泣かないから。
〝ふふふ……うん、そうだね。……あのね、浩介〟
〝……何?〟
〝私ね、ずっとこう思ってたの。私は、ほんとはもう、とっくにいないの〟
 胸の奥に、何かが鋭く突き刺さった。
〝浩介はもう知ってると思うけど、あのとき、シェルターにミサイルが近づいてきて、お父さんとお母さんが私に「行きなさい」って言ったとき。あのとき私、言われた通りに、過去に行きたいって強く思って。そうしたら、なんだかすごい風が吹いたような気がして……もう、頭の中がめちゃくちゃになって。気がついたら、過去にいたの〟
〝最初にいたのは、私がいた時代から百年くらい前。浩介から見たら、未来になるのかな。そのときは、私、タイムスリップに成功したんだ、私は時間旅行ができるようになったんだ、って思ったんだけど……〟
 話しながらリンの瞳が、ここではないどこかをさ迷う。
〝でもね、結局、お父さんの研究は失敗だったの。だって「飛んだ」先の世界の人たちに、私の姿が見えないんだから。これじゃあそこで幸せに暮らすなんて、できないよね〟
 そう言って、リンは笑った。その絶望的な事実に気がついたとき、彼女はどれだけ泣いたんだろう。
〝タイムスリップは失敗だったの……こう考えてもいいかもしれない。心、かな。そういうものだけが、無理やり過去に「飛んだ」の。私、このまま死ぬのはいやだって〟
〝……だって、……きみは……〟
〝名前を呼んで。リンって〟
〝……リン、は、……それじゃ……〟
 何か言おうとした。けれど言葉にならなかった。浩介の熱い吐息をやわらげるように、ふふふ、とリンが笑った。
〝ふふふ……私、自分で思ってたよりずっと、欲ばりみたい〟
〝…………?〟
〝あのとき、「私も、お父さんとお母さんと一緒に死ぬ」なんて言ってたくせに。私、ほんとは生きたかったみたい……。自分でも意識してないところで、生きたいって。思ってたみたい……〟
 リンの声が震えた。雪の空を飛ぶ小鳥のように。
〝私、しぶとくって。いっぱい、いろんな時代を回ったの。なかなかあきらめきれなくって。どこかにあるはずだ、どこかに私を見つけてくれる人がいるはずだって。探して、探して……しがみついてたの。ほんのちょっとの可能性に〟
 少女の瞳が、いくつもの時代、いくつもの世界を回顧した。浩介には想像もつかないほどの長い時間が、きっとそこに流れているんだろう。
そんなの当たり前だよ、リン。誰だって、自分の世界を探して、歩くよ。なぜなら誰だって、幸せになる権利があるからだよ。きみにだって、俺だって。 
 そう言ってあげたかった。けれど遥かなる時を見つめる瞳に、浩介は声をかけられなかった。
〝でもね、それももうおしまい〟 
〝……え?〟
〝そろそろ魔法はきれるみたい。私は、本当の、私のいるべきところに帰るの〟
〝……きみの、いるべきところって…〟
〝お父さんとお母さんのところよ〟
〝……そんな……それって……〟
 嗚咽で声がつまって、それ以上言えなかった。
情けない、俺。不幸でもなんでもないくせに。ごめん、きみはいつも笑顔なのに、俺はいつも泣いている。
 リンは、浩介と合わせていた手をつと離し、浩介の涙を拭った。リンの手が触れたところが、じんと熱く、気持ち良くなる。これじゃ逆だ。本当なら、俺がリンの頬に触れて、涙を拭ってあげなきゃいけないのに。
〝ねえ、浩介。私は過去に来れて、すごくうれしかったの〟
 澄んだ声が、子守歌みたいに優しかった。頬に触れる彼女の手が心地良かった。その気持ち良さに、ずっと浸っていたかった。
〝だって私、小さい頃からずっと憧れてたの。青い空、緑の木々。それが全部、見れたんだもの。それからたくさんの人。信じられないくらいたくさんの人が、みんな動いてる。それってね、世界が生きてるってことよ。ねえ、わかる? 浩介。私がどれくらい嬉しかったか、わかる?〟
 少女の瞳がきらきら光っている。その瞳を見つめて、浩介はぎくりとした。さっきよりも薄くなっている。
〝たくさんの世界を見たわ。いくつもの時代、いくつもの過去。何世紀、何十世紀にもわたる、人の歴史。私、とても感動したわ。幸せだった。そんなの私だけよ。私は世界でたった一人の、タイムスリッパーよ!〟
 少女は声を張り上げた。まるでここにはいない、たくさんの誰かに向かって叫んでいるように。 
 そうだ、そうだよ、リン。そんな稀有(けう)な運命を背負った人は、一人だけだ。一人だけ……。
〝とても感動したわ。嬉しかった……〟
声は唐突に小さくなり、ささやくようになった。
〝……淋しくは、なかったの?〟
〝……ほんとはね、ちょっと淋しかった。だって私がいることに、誰も気がつかないんだもの。でもね、もう平気〟
〝なんで?〟
〝だって、浩介に逢えたもの〟
 浩介は、このときのリンの笑顔ほど、きれいな顔を今まで見たことがないと思った。その笑顔は、この後ずっと長い間、浩介の心を支え続けた。
〝浩介に逢えた。私に気づいて、私を見てくれる人に、やっと出逢えたの。そしてあなたは、私を呼んでくれた……〟
 そう言うリンの姿が、刻々と薄くなっていく。
〝幸せよ……。あなたのおかげ。ねえ、わかる、浩介? 私がどんなに嬉しかったか、どんなに、あなたに、感謝してるか……〟
 感謝だって? 俺は何もしていない。それどころか、きみから逃げた。
〝私は、夢を、……叶えた。過去に、行って、幸せになるって……〟
 浩介ははっとした。すでにリンは、手を伸ばせば突き抜けてしまいそうなほど、薄くなっている。
〝まさか……まさか、だからなのか……? だからきみが、消えようとしてるのか?〟
〝……あなたの、おかげで……よ。浩介の、おかげで、私は……やっと、許される……還れる……〟
 浩介は心の中で、駄々っ子みたいに喚(わめ)いた。
 嘘だ、嘘だ。きみのいた世界なんて、もうとうに消滅して、ないんじゃないか。きみの帰るところなんて、きみの帰るところは……。
〝……本当、に、嬉、しい。最後に……あなたに、また、逢え、て……良か、った……〟
 声が途切れ途切れになっていく。存在が消えようとしている。過去から、未来から、リンが触れたすべての世界から。
〝あり、が、とう……〟
 リン。
 呼んだつもりが、声になってない。もはや少女は、おぼろな霧でしかなかった。
〝さよ……う……な、ら、……浩介……〟
 リンの微笑みが、その顔が、永遠に消えようとしている。
 リン。
「行くな‼」
 大声で叫んだ。叫びは光となり、世界を繋ぐ扉を、押し開く。
「行くな、リン! 行くな! 行くなあああああ‼」
 浩介は絶叫した。触れ合わせていた手を、リンに向かって強く差し伸べた。ガラスに渦が巻き起こる。渦はぎりぎりと、浩介の腕を締めつけるように収縮した。腕を引きちぎられそうな衝撃が襲った。浩介は歯を食い縛ってそれに耐えた。
「……邪魔、するなぁっ‼」
 限界まで伸ばした腕の先に、凍るような虚無の冷たさを感じた。持てる力のありったけを込めながら、ずっとこんな寒いところにいたのか、と思った。
「リン、消えるな! ……俺も、行くから!」
 リンの姿は、もうかろうじて霧が見えるだけだった。そこからかすかに、声が聞こえた。
〝行く、って……どこ、に……〟
「手を伸ばして。俺の手を握って」
 霧のようになってしまったリンの手が、戸惑うようにさ迷った。浩介の手を見つけ出すと、おずおずと触れる。手と手が結ばれる。その瞬間、目も眩(くら)むような白い光がそこから発した。リンの体が、ほんの少しだけ色を取り戻す。手が、ほんの少しだけあたたかくなった。
「ほら、きみは消えてなんかいない」
 少女は瞳を見開いた。その瞳が、やわらかな色を取り戻していく。
「感じるだろう? 俺の手を」
 リンがかすかに頷いた。
 白い光はどんどん強くなり、眩しいほどに辺りを照らし出した。浩介はもう片方の手も、窓の向こうへ差し伸べた。渦が腕を目がけて収縮する。けれど差し伸べた手は、もう戻さない。
「きみもこうして」
 言われるままに、リンがもう片方の手を差し出した。二人の指と指が絡み合い、両手が結ばれる。そのとき光は、三倍にも四倍にも強くなった。浩介は、静かに、けれどはっきり言った。
「リン。俺が行くよ。きみのところに」
 リンの体は、さっきとは逆に、刻々と濃くなっていっている。
〝行くって……そんな……どうやって……〟
「リン。きみの力を、俺にもわけて。俺の手を強く握って。それから強く、祈って」
 リンの指が一瞬羽根のように軽くなり、すぐに力が込もる。白い光が輝きを増した。漆黒の闇を薙ぎ払いながら。
「リン。僕もきみと同じになる。そしてきみを探す。必ず見つけ出す。たとえどんなにかかっても」
 そうだ。何を迷う必要があったのだろう。自分だって元々、一人だったんじゃないか。
 窓の向こうで、リンが泣き笑いのような顔をした。その姿はもうどこも欠けていなかった。ブルーに光る不思議な服に、茶色の髪をなびかせて。彼女は世界でたった一人のタイムスリッパーだ。今までは。
「そうして、もう一度。巡り逢ったら今度こそ」
 リンから、何か途方もない力が指先に流れてくるのを感じた。優しくて強い、そしてほんの少しだけリンの香りのする。これまで体験したことのない感覚が、身体の隅々まで駆け巡る。それを感じながら浩介は言った。
「幸せになろう」
 光は、今や二人の全身から発しているようだった。浩介とリンは、輝く光の球となった。永劫(えいごう)の闇をも照らすこの光が、きっと導いてくれるだろう。

「二人で」

 光がすべてを満たした。窓のこちら側も、向こう側も。二人自身の姿も。すべてが光に包まれた。その中で浩介は、リンの涼やかな声を聞いたような気がした。

〝待っている。浩介、待っているわ…………〟

 気がつくと一人立ち尽くしていた。車内はさっきまでと同じ、薄暗くて静かだった。たったいま浩介の身に起こったことなど、何もなかったように。
 窓に触れると、窓ガラスは氷のように冷たい。けれど浩介は、そこにその冷たさとは対照的な、あたたかい力を感じた。細胞の一つ一つまでをも、満たしてくれるような。
 心と体のすべてが満たされ、叫び出したいような気持ちだった。今なら何だってできる。リンのために。

 リンを探す。探し出す。
 幾百、幾千、幾億に、散りばめられた世界の中から。
 無限ともいえる時間の狭間から。
 あなたを探し、見つけ出す。

 そして永遠の孤独から、きっとあなたを救い出す―――。
                                   

                         了

#創作大賞2023


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