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時を越えて 第2話

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 その日は朝から雨が降り続いていて、夜になってもやむ気配はなかった。
「今日は、どうしよう……」
 肩に当たる晩秋の雨が、身を切るように冷たい。このところの連日の終電帰りで、疲れも溜まっていた。
「やめておこうか……」
 そう呟きながらも結局また、浩介は終電に乗っているのだった。やっぱり今日も、少女が見たい。一日逃したら、逢えるのは明日の終電。けれど同じように、少女が現れるとは限らないのだ。この不思議な現象は、始まったとき同様、突然終わってしまうかもしれないのだから。それに、もしかしてもしかしたら、独りよがりの勝手な思い込みかもしれないが。浩介は思っていた。もしかしたら、少女のほうもまた、浩介を待っているのではないかと。今日浩介が姿を現さなかったら、少女のほうががっかりしてしまうかもしれない。もちろんそれは浩介の一方的な想像だ。だけど、浩介を見つけて駆け寄ってくるときの少女の瞳。大好きな歌を、街中でふと耳にしたときのような輝き。あれは、浩介の胸の中にあるものと、同じなんじゃないだろうか。
 いつもと同じ薄暗い車内で、ゆらゆら振動に体をまかせているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。

「お父さん、どんな調子?」
 女の子の声が聞こえる。そこには二人の人間がいた。中学生くらいの女の子と、白衣を着た壮年の男性。
「うーん……着想は悪くないと思うんだが……。ちょっと構成を変えてみた。これで大分、負荷は減ったと思う」
 そう言って、男は壁面の大きなスクリーンを指差した。スクリーンには複雑な図形と解説が表示され、男が手元のパネルを操作すると、それがどんどん形を変えていく。
 そこは何かの研究室のようだった。飾り気のない長方形の部屋に、キャビネットや実験台が雑然と並んでいる。室内は暗く、スクリーンの光だけが部屋を青白く照らし出していた。だが二人の表情が暗いのは、そのせいだけではないようだ。
「うまくいくといいね」
 女の子が言った。その声は、浩介の頭の中に直接入ってきたように感じた。続いて、少女の声にならない心の声が、浩介の心に響いた。
(でも、そんなこと言っても仕方がない。これが成功したかどうかは、確かめようがないんだから)
 計算と予測のもとに、やってみるしかない。また、成功したのかどうか確かめようがないのと同様、失敗したのかどうかも確かめようのないことだった。
 この試みを始めた当初は、被験動物の身体は目の前で異常をきたし、失敗がわかった。あるものは激しい痙攣を起こし、あるものは眠りにつくように意識を失い、死んだ。その段階を過ぎると実験は一歩前進し、処置後、すぐに命を落とすものはなくなった。代わりに、動物たちは掻き消えるようにいなくなってしまい、そしてそれきり戻ってこないようになった。だから、もしかして実験は成功しているのかもしれなかった。だが確信が持てない。男は、結果が欲しかった。確かに「向こうに行った」という結果が。
 そうやって試行錯誤を重ねてきた。かつては数人の仲間がいたが、今では彼一人だ。仲間たちの中には、動物実験だけでは飽き足らず、自ら志願して被験者となったものもいた。
 そんな内容のことが、頭に入り込んできた。
……今のは彼女の、心の記憶なのか?
 男は、やつれて蒼白い顔の中にも、目だけは輝きを失わずに、愛する娘を見つめている。その眼差しを見た途端、今度は男の心が浩介の中に入ってきた。
(きっと完成させてみせる。あともうちょっとなんだ……。だから神様、もう少しだけ時間をください……)

「J駅、J駅~。この電車が、下り終電になります。お乗り過ごしのないよう……」
 駅員のアナウンスで目を覚ました。慌てて周囲を見回すと、車内にはもう浩介しかいない。
「夢……?」
 浩介は呟いた。頭がぼうっとする。
「寝過ごしたのか……」
 忍び寄る冷気で、目が覚めてきた。どうやらもう、例の場所は通り過ぎてしまったらしい。
 ぶるりと体を震わせると、シートに座り直した。

 翌日、アルバイトの作業をしながら、浩介は昨日の夢のことを考えていた。
研究室らしき場所にいた男と少女。あの少女は、彼女だ。浩介が毎晩、ひと目逢えるのを楽しみにしている。ただ夢の中の少女は、窓の向こうの少女よりも少し幼いようだった。それに夢の少女は、男ときちんと会話をしていた。窓の向こうの少女は、周りの人々と交わっていない。
 あれは……。
 浩介は考えた。きっと、夢で見た光景、あれこそが少女の本当の世界なのだ。ちゃんと彼女が存在する世界。
 その中で浩介は、少女とその父親の会話を聞いた。二人は、何かの実験について話していたようだ。一体、何の実験だろう……。
 その日浩介はまた終電に乗った。少女に逢いたい気持ちと夢の記憶がない混ざり、複雑な気持ちだった。
 いつもの場所に差し掛かる。窓の外の闇の中に、ぼんやりとした奇妙な光が広がっていく。
 光の中には、鮮やかな色とりどりの紙吹雪と、その中を舞う楽しそうな人々が見えた。みんな半被や浴衣を着て、中には袴姿で剣を腰に差している人もいる。その中に浩介は、いつもの場違いなその姿を探した。けれど探すまでもなく、踊りさんざめく人々の中から一人だけ抜け出して、浩介のほうに駆け寄ってくる姿があった。薄い色の瞳を嬉しそうに輝かせて、子猫みたいに駆けてくる。
 窓のこちら側に立ちながら、近づいてくる彼女を待った。目を彼女から逸らさない。
 今日、彼女はここまで辿り着く。そう思った。多少の恐れを感じながらも、自分は彼女に手を差し述べる。
 
 少女は浩介を見た。浩介も少女を見た。二人は初めて対峙した。一枚の窓ガラスを隔てて。
 目蓋(まぶた)の裏に焼きついて、消えて欲しいと願っても、目を瞑(つむ)れば浮かんできてしまう。心の中まで入り込み、離れなくなってしまった、その姿。
 少女の後ろの世界では、祭囃子が続いている。たとえそれが見えていても、浩介も彼女もそことは別次元にいる。
 少女の、迷子のお花みたいに震えている唇が、わずかに開いた。浩介は待った。どんな声を、どんな言葉を発するのだろう。けれど少女は何も言わなかった。浩介は、少女の唇に向かって手を伸ばした。少女は、少しだけ首を傾げるようにしながら待った。だけど窓ガラスに触れた瞬間、衝撃が貫いた。空気が激しく震え、浩介の手を中心に、ガラスに渦が巻き起こった。浩介は慌てて手を戻した。すると渦はあっという間に収縮して消えた。ガラスの表面は、何事もなかったかのように落ち着きを取り戻している。
 二人は窓越しに、顔を見合わせた。
 今度は、少女が浩介に向かって手を伸ばした。同じだった。手がガラスに触れた瞬間、空気が激しく震え、渦が巻き起こる。少女は慌てて手を戻した。すると渦は消えた。
 二人は顔を見合わせた。あるのだ、確かに。ここに、壁が。距離にすればほんの二、三歩。たったそれだけなのに、そこには壁が立ちはだかっている。
 少女は悲しそうに目を伏せた。けれどすぐに瞳を上げ、浩介を見つめた。浩介も彼女を見た。潤む彼女の瞳とは逆に、力強く。迷いも落胆も、すべて押し隠して。 
 そのときゴウッという音がして、急速に空気が流れ出した。祭囃子も踊る人々も、少女も、すべてが消えていく。
 後ろへ後ろへ、暗黒へと消えていく彼女から、決して目を離さなかった。きっと彼女もまた、同じように自分から目を離さないでいるだろう、と思った。

 もう一度、夢を見よう。
 少女のいる過去と未来の不思議な世界ではなく、少女の本当の世界を。そうして彼女が誰なのか、どこから来たのかを知りたい。

 少女がベッドに眠っている。彼女の周りだけが白々と明るく、その輪の外は暗い。少女は、浩介の知っている姿と、もうほとんど変わらない。
音もなくドアが開き、少女の父親が入ってきた。父親はベッドの傍らの床にひざまずいた。ベッドの上に両肘をつき、手を組み合わせた。
「リン……愛する私の娘。これからおまえに、処置をするよ……」
 男が呟いた。海の底の泡みたいな、静かな暗い声だった。
「おまえに言わないでやってしまうことは、悪いと思ってる。だけど時間がない。……時間がないんだ」
 男は組み合わせていた手をほどき、顔を覆った。 
「さっきレーダーが知覚した。とうとうセンターが、ここにミサイルを発射したんだ。遅くとも、十二時間以内には到達するだろう。……ここだけではない。この辺り一帯に散らばるシェルターを、一掃するつもりなんだ」
 男が手を顔から離した。男の目が見えた。こっちを見たような気がしてどきりとしたが、気のせいだった。男が見ていたのは、彼自身の記憶だ。
「この辺り一帯……といっても、他にどれだけ残っているかわからない。最後に他のシェルターと通信したのは、いつだったか。あれから随分経ったような気がする……。もしかしたら、私たちだけかもしれないな、残っているのは。だとしたら、たった三人の人間を殺すために、馬鹿でかいミサイルが発射されたというわけだ。ふふふ、私たちも価値があるんだな」
 口元が、皮肉げに歪んだ。
「……いずれにせよ、ミサイルは正確だ。ここはもうすぐ消滅する」
 そう言って男は、子どものように頬をベッドにつけた。娘の寝顔を見つめながら。
「リン、そうなってからでは遅い……」
 ささやくような声だった。
「リン。研究は完成しているんだ……。実験された動物たちは、みんなどこかで平和に暮らしている。ただ、それを確かめられないだけで。……だからリン、何も心配することはないんだよ」 
 突然、男は娘から顔を背けた。皺の刻まれた顔に、苦渋の色が浮かぶ。
「すまない……。わかっている、これは私のエゴだ。私は、実験が成功するのを見たい。もちろん今度もまた、確かめられないが。……わかっているんだ、これは、私のエゴなんだ」
 男は肩を震わせた。頬を光るものが落ちる。
「だけどリン、おまえを想う気持ちだけは、本物だよ……。幸せになって欲しい。こんな世界へ生んでしまったおまえへの、これはせめてもの罪滅ぼしなんだ。すまない……」
 部屋の様子がぼやけ、輪郭が崩れ出した。視界が黒く覆われていく。リンの姿も父親の姿も、みんな呑み込んで。
「リン、愛しているよ」
 男の声だけを残し、すべては闇に閉ざされた。
 気がつくと、いつもの終電の車内だった。
 一つ息を吐き出してから、座り直した。向かいの窓に自分の姿が映っている。浩介は泣いていた。夢の中の男と同じように。

 翌日。浩介と少女は再び、窓ガラスを挟んで向かい合っていた。彼女の背後では、銀色に光るビルの間に、大きなきらきら輝くボールが浮かんでいる。
 いつかの未来の光景らしい。けれど浩介は、それには関心がなかった。浩介の心は、目の前の少女だけ。少女には街の賑わいが聞こえているのだろうが、彼女もまた、浩介だけを見つめていた。 
 浩介はゆっくりと唇を動かした。

リ、ン

 リンは、驚いたように目を見開いた。それから彼女も、ゆっくりと唇を動かした。

こ、う、す、け

 浩介も目を見開いた。彼女はそんな浩介を見つめた。その瞬間、薄暗く陰気な終電も、賑わう未来都市の喧騒も、すべてが遠ざかっていった。
 二人は、小雨におびえる咲いたばかりのお花みたいに、おずおずと震えながら、互いに向かって手を伸ばした。そこに二人を隔てるものなのなど、何もないかのように。
 震える指と指が近づき、ガラスに触れた。その途端、渦が巻き起こる。と同時に浩介に向かって、激しい風が吹きつけてきた。伸ばした手が、すごい力で押し戻される。リンも同じらしい。渦から吹きつけてくる風で髪が舞い上がり、もう片方の手で顔を守るようにしている。
 だけど浩介は、差し伸べた手を戻さなかった。腕を引きちぎられるような衝撃に耐えながら、歯を食い縛って手を伸ばす。リンもまた、そうした。 
 二人の手と手が合った。そのとき、二人を隔てていたガラスが消えた。巻いていた渦も、吹きつけてくる風も、何もかもが。二人の間には何もなくなり、確かに二人は同じところに立っていた。
 合わせた手と手から、不思議な光が生まれてくるような。二人を包む漆黒の闇までも、明るく照らし出すような。
 浩介は、リンの優しい温もりを感じた。この感触を、ずっと前から知っていたような気がした。
 リンは浩介を見て笑った。自分も笑いながら、何だ、そういう顔もできるんじゃないか、と浩介は思った。
 それからもう一度、彼女の名を呼んだ。

〝リン〟

 すると今度ははっきりと、聞こえた。

〝浩介〟
 
 澄んだ透明な声だった。
 と同時に頭の中に、ドンと激しい衝撃が入ってきた。危うくよろけそうになったが、必死でこらえた。浩介にはそれが何なのかわかっていた。

 研究室の中には、父親と、その横に母親らしき女性、リンの三人がいる。リンは大きく目を見開き、蒼褪(あおざ)めた顔で両親に詰め寄っている。
「……うそ! うそ! そんなのうそよ‼」
 叫びながら、少女は狂ったように頭を振った。返事はない。味気ない灰色の部屋の中、甲高い叫び声だけが響き渡る。
「うそ! 私、信じない! ねえ、うそだって言ってよ、お父さん、ねえ!」
 リンの瞳から、涙が溢れ出す。
「ねえってば、お母さん!」
 母親は、娘から目を逸らした。父親がリンの前に立ち、両肩を摑んだ。それからよく響く低い声で言った。
「おまえに黙って処置をしたのは、悪かったと思っている。だけどこうするしかなかったんだ」
 リンはいやいやをするように、首を横に振った。
「リン……。私は、研究が成功したと確信している。だから結果が欲しい。……私の研究は成功し、おまえはそれで救われたという。私がこの絶望の   世界でやってきたことは、意義のあることだったのだ、という」
 そういう父親の瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
「それは私のわがままだ……」
 母親は下を向いたまま、夫も娘も見ようとしない。ただ足下に、ぽつんと水滴が落ちた。
「だがね、信じて欲しい。それだけじゃないんだ。おまえに、幸せになってほしいんだよ。こんなひどい世界、絶望の世界で、終わって欲しくないんだ。私たちはもういい。だけどおまえは……」
「いや! いや! 私も残る! 私も、お父さんとお母さんと一緒に、ここに残る!」
「そう言い出すだろうと思ったから、こっそり済ませておいたんだ。おまえは死ぬべきじゃない。おまえは、生きるべきなんだ。それができる世界に行って。もう、ここでは無理なんだ」
「ここは完全に破壊されてしまった。発展とともに広がった汚染、蓄積され続けた毒素。みんなわかっていながら、止められなかった。どうにかするための努力を、本当のところでは誰もが放棄していた。なぜなら責任を取るのは、自分じゃないからだ。ツケを払うのはいつだって、後の世界の人間だからだ。それを誰もがよく知っていた。だから多くの人間が心の奥で知っていたように、世界は病み衰え、死んだ。人の住める世界ではなくなってしまった……」
 彼の言葉は、娘にではなく、その場にいない誰かに向けられているようだった。
「そうして人は、そうとしか生きられないんだよ。それをそう呼んでいいのなら、進化と発展を止められないんだ。だから、始まりから終わっていたのかもしれないな。バトンを後の人間に回しながら……」
「そんなえらそうなことを言ったって、私だって同じなんだよ」
 リンはうなだれて顔を上げない。父親の話が、耳に入っているのかどうかもわからなかった。もしかしたらそんな話は、すでによく知っているのかもしれない。
「ここはもはや、滅亡を待つだけの死の世界だ。私たちのようにわずかに残った人間が、細々と生きているだけの。センターはそんな私たちの中心だったわけだが……数年前から、外に散らばる人間を抹殺し始めた。理由は簡単だ。人が多いほど、資源や食料が減るからね。だけどいずれ、センターだって、終わるよ。それでようやくこの世界に、安らぎと静寂が訪れる……」
「だから、リン」
 父親の声が、ありとあらゆる感情の間を揺れ動く不安定なものから、はっきりした、目的を持つものに変わった。瞳は見えない果てから戻ってきて、しっかりと娘を見つめた。リンは伏せた顔をあげ、父親を見た。それから力なく首を左右に振った。そこにはさっきまでの、狂ったような拒絶はなかった。
「リン。……だからおまえは、過去へ行って、自分の世界を見つけなさい。そこにはおまえが大好きな、美しい自然があるよ。青い空や、緑の木々が」
 この瞬間、男は、歯車を狂わせた科学者ではなく、絶望の世界を叩きつけられた怒りに燃える糾弾者でもなく、父親だった。
 部屋が鳴動を始めた。三人は、はっとして体を強ばらせた。父親が急いで壁のスクリーンに走り寄る。それを素早く操作し、映し出された幾何学模様を見て、言った。
「…………来た」
 振り向いて妻と顔を見合わせると、頷いた。リンは何かを言おうとして、口を開いた。けれど言葉は出てこなかった。
「リン。もう時間がない。もうすぐ、ここはなくなる……だから」
 父親は娘を見据えた。リンが口を開いた。「いや! 私もここに残る!」と言うつもりなのだと、浩介にはわかった。けれど聞こえてきたのは、別の言葉だった。
「……どうすればいいの」
 今にも消え入りそうな声だった。けれどはっきりした、それは肯定だった。父親の瞳が優しく細まる。
「簡単だよ。行きたいところのイメージを、頭の中に思い描いて。おまえがよく見ていたような、美しい写真の景色を。そうして強く念じるんだ。そこに行きたい、と。それだけで、おまえは過去へ〝飛ぶ〝」
 リンは目を瞑り、言われたとおりにしているようだった。けれど何も起こらない。その間にも揺れは激しくなっていく。
「……できない。できない! お父さん、何も起こらないよ!」
 父親の焦っている気持ちが、浩介に伝わってきた。だけど彼は、そんな様子はおくびにも見せずに、娘の肩にそっと手を置いた。
「落ち着くんだ、リン。大丈夫、できるよ。研究は成功してるんだ。さあ」
 リンは、顔をくしゃくしゃにした。
「そんなこと言ったって、できないよぉ……」
 そのとき、それまで黙っていた母親がリンに近づいた。父親に代わって娘の前に立つと、リンの両手を胸の前で合わせ、その手を自分の両手で包み込むようにした。
「リン、あせらないで。ゆっくり、もう一度やってみて」
 優しい声だった。その声は不思議なほど、リンの気持ちを落ち着かせた。
 リンはもう一度目を瞑った。目を瞑ると、優しい母の温もりと、強い父の愛だけに、少女は包まれた。それからリンは、何度も写真で見てきた、青い空と緑の木々を心に思い浮かべた。それはいつも信じられないくらい美しかった。 
 少女の周りから、すべてが遠ざかっていった。振動する部屋も、耳を打つ不快なな轟音も、父も母も、自分自身さえ。深淵の闇に呑まれていく。そしてその感覚を浩介も共有していた。 
 最後の瞬間に、リンは聞いた。あるいは聞いたように感じた。優しくて懐かしい、大好きな声を。
「リン、ごめんね。こんな世界にあなたを生んで。……私たちを、怒ってる?」
 リンは自分の意識が、とても激しく、それでいてひどく静かで深いところに呑み込まれていくのを感じた。そうしながら、最後の力を振り絞って言った。父と母のいるところに、自分がこれから自分が行こうとしているところに、すべての世界に届くように。
「ううん、怒ってないよ。私を生んでくれてありがとう、お父さん、お母さん。私、幸せだった……」 
 声が二人に届いたかどうか、わからない。だけどリンは、愛してるという言葉をたしかに聞いた。けれどもそれはもしかしたら、これから始まるたった一人の長い旅路の中で、淋しさのあまり夢見た幻かもしれなかった。 
 揺れは一層激しくなり、部屋が音を立てて崩れ始めた。そんな中、残された二人は体を寄せ合った。
「あなた、私たちの娘は、幸せに、なれる?」
「なれる、さ、もちろん」
 二人は互いに支えるようにして、強く抱き合い、一つの影となった。
「……あなた、愛して、るわ……」
「私も、愛して……」
 閃光が炸裂した。真っ白な無慈悲な光が溢れた。それから耳を劈(つんざ)くような轟音が響いた。浩介は、少女の父と母が、途轍もなく遠くへいってしまうのを感じた。

 何が起こったのかもわからずにいるうちに、目の前のものが急速に後ろの闇へと流れ出した。浩介ははっとした。リンは、銀のボールの浮かぶ未来世界とともに闇の中へ消えていくところだった。
 後にはぽつんと手を上げたままの浩介が残された。その手に触れる窓ガラスの冷たさに気づいて、手をおろした。ガラスには、泣いている男が一人映っていた。
 彼らは、リンの両親は。破滅の世界で、絶望の中で、満足したのだ。満ち足りて死を迎えた。だけどそこからはじき出されてしまった、彼らの娘は……。

 漠然とした想像は確信に変わった。リンは、未来からやって来たのだ。夢に見たリンの世界。破壊され汚染されつくし、わずかに残った人々が、滅びの時を待っている……。あれは未来の地球だ。 
 浩介は今までずっと、リンの旅する世界を一緒に見てきたのだ。浩介にとっては過去や未来でも、最果ての世界にいたリンにとっては、すべてが過去だったのだ。
 なぜ自分にだけ、彼女の姿が見えたんだろう。
 わからない。あの日あのとき、あの場所を通る電車に乗った浩介と、過去と未来をさ迷い続けるリンの波長が、偶然合い、扉が開いた。そういうことなのか。
 なだれ込んできたリンの記憶。だがあのとき浩介の心の中に入ってきたのは、それだけではなかった。そのもう一つのものが浩介に、リンと触れ合った喜びだけでなく、恐れ慄く気持ちももたらしていた。
 それは孤独だ。
 父親の研究は、半分は成功だったが、半分は失敗だったのだ。タイムスリップは、リンが強く〝飛ぶ〝ことを心に思い描くことにより移動する。それはできた。だけど……。
 こんなはずじゃなかったのだろう、と思う。リンの父親も、最後になって承諾したリン自身も。彼女は、過去のどこへでも、まだ損なわれていない世界へ行って、そこで幸せに暮らすことができるはずだった。けれど実際には、飛んだ先の世界の人々には、彼女の姿は見えなかった。そこにいる誰も、リンがいることに気づかない。
 果てしなくリンは飛んだ。自分を受け入れてくれる世界を見つけるため、話しかけてくれる誰かを探すため。だけどどこに行っても同じだった。彼女は誰にも見えなかった。
 自分の居場所を探して、永劫ともいえる長い時間を彼女はさすらい続けた。
ガラス越しに手を合わせたとき、それが浩介に伝わってきた。それでようやくわかった。リンの、深い淵のような暗い瞳のわけが。不思議で儚げな雰囲気のわけが。それも当然だったのだ。リンにあるのはただ、絶望的な孤独だけだったのだから。
 浩介だけがそれを知ってしまった。知ってしまった今はもう、浩介の心は、以前よりずっとずっとリンのことを想っていた。
 だけど同時に恐れた。
 だってリンの、深い孤独と絶望を知ったからといって、それが何だっていうんだ? 俺に何ができる? 俺は偶然リンを見てしまって、その正体を知ってしまった、それだけだ。さ迷える時の旅人。彼女に心から同情する。この同情が、自分を苦しいほど締めつけて離さない、この得体の知れない感情の正体だ。リンの、淋しそうで儚げで、それでいていつも優しく微笑んでいる、そんな顔が離れてくれない理由なんだ。 
 浩介は、何度も自分にそう言い聞かせた。泣いていた。
 翌日。二人は再び、電車の窓越しに向き合っていた。どちらからともなく手を上げる。指先が同時にガラスに触れる。ガラスは氷のように冷たい。けれど昨日のように、渦が巻き起こり激しい衝撃が襲ってくることはなかった。二人の手は、次元の扉を開けたのだ。ガラスの硬質ではない、優しくてやわらかいリンの手のぬくもりを浩介は感じた。
 最初の言葉を口にした。リン、と。
 少女もまた、その名前を口にした。
〝浩介〟
 声は、開いた扉から直接心に響いてくる。浩介は何か次の言葉を言おうとして、唇を開いた。けれど浩介の持っている言葉たちが、急に臆病になってしまったかのように、何も出てこなかった。
 リンが微笑んだ。なんて優しい微笑みなんだろう、と浩介は思った。なぜならその笑みの下に、百万人分の孤独を集めたってまだ足りないような淋しさと、それを隠すことのできる強さを秘めているからだ。
〝リン……きみの過去を見たよ。昨日、手を合わせたときに……その前にも、ちょっとだけ夢で見たけど……それで、きみのこと、わかったよ〟
〝うん。私も、見た。浩介の過去。昨日ね、私のほうにも、あなたの記憶、入ってきたの。でもその前から、あなたと出会ってから、あなたのこと夢に見たりしてた。だから、名前を知ってるの〟
 そうだ。浩介に彼女の記憶が入ってきたのなら、リンにも浩介の記憶が入っていったはずだった。自分のいる場所も忘れて、浩介は思わず身を乗り出した。額が窓ガラスに当たってごつんと鳴った。手を触れ合わせることはできても、頭はだめらしい。リンがくすりと笑った。
〝素敵だった〟
〝……すてき? 何が?〟
〝あなたの、記憶〟
〝俺の記憶? 何で?〟
〝だって、たくさんの人がいるんだもの〟
 リンは、何でもないことのように言った。浩介はその言葉の意味を瞬時に理解した。だから凍りつき、何も言えなくなってしまった。笑う彼女の本当の心が、痛いほどわかったからだ。
 浩介の視線に気づき、リンは慌てて言った。
〝あ、でも、仕事とか、いろいろつらいこともあるんだよね。ごめんね、素敵なんて言って〟
〝……いや〟
いや。つらいのは、きみのほうじゃないか。
 後に続く言葉をのみこんだ。それから、腹の底から声を搾り出した。
〝俺は、……あなたを、かわいそうだと思う〟
 リンの顔が凍りついた。浩介ははっとした。もしかしたら、言ってはいけないことを言ってしまったんじゃないか。だけど止められなかった。そんな自分がいやだった。
 合わせた手が震える。リンの手も、さざ波のように震えていた。浩介はリンが泣くかと思った。けれど逆だった。彼女はまた笑った。名前と同じ、鈴の音のような声で。
〝ね。さっきの、もう一回言って〟
〝え? さっきのって?〟
〝さっきの。私の名前〟
 ずきりと胸が痛んだ。
〝……ね、私の名前を、呼んで〟
〝…………リ、ン〟
〝もう一回〟
〝……リン!〟
 たまらず、もう片方の手で目を拭(ぬぐ)った。リンは笑っている。
〝もう一回〟
〝リン!〟
 嗚咽の混じった声で、その名を呼んだ。リンは笑っている。そして涼やかな笑顔が、闇の中へと消えていった。リンの姿が見えなくなると、浩介は思う存分涙を流した。そして思った。
 もうやめよう、リンに逢うのは。この終電に乗り、過去と未来の交差する瞬間を求めて、少女の姿を探すのは。
 自分が彼女のためにできることは、何もない。このままずっと終電に乗り、一瞬の話し相手になるなんてできない。自分は平凡な人間だ。過酷過ぎる運命を背負った、不思議な少女とは違う。
……俺は本当にきみが、かわいそうだと思うよ。だからどうか……。

#創作大賞2023


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