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【思考の穴ロジー】なぜ、人はあえて不便さを求めるのか?効率VSプロセス

自宅に寝床とキッチンがあるのに
ソロキャンプをする人。

普段、車や電車で移動するのに
わざわざ時間を割いてランニング、
ウォーキングをする人。

なぜ人はあえて、負荷のかかる環境
(不便さ)を求めるのか
あなたは考えたことありますか?

もちろん
「健康のため」「趣味だから」
といった理由があるのでしょうが、

どうやらもっと本質的な
理由があるように感じます。

今回はそのあたりを
アナロジー的に考察してみました。

啐啄同時(そつたくどうじ)
ということわざ、ご存知ですか?

逃すことのできない絶好の好機のこと。
仏教では「啐」は雛が内側から声を発して殻から抜け出ることを告げることを意味し、「啄」は親鳥が外側から卵の殻をつつくことを意味する。親鳥の手助けは早すぎても遅すぎてもだめで、タイミングが大事であることから。禅宗では「啐啄同時」は弟子が悟りを得ようとしているときに、師匠がすかさず教示し悟りの境地に導くこと。学ぼうとする者と教えを導く者の息が合って、相通じることを表す。

出典:『教養の「ことわざ」1500』西東社

これの本質は、生命力だと私は感じます。
なぜならタイミングが大事といえど、
そもそも雛鳥が内側から声を発しないと
親鳥も殻をつつかないはずだから。

卵の殻を破るだけの生命力がない雛は
外の世界へ出ても生き延びることは
きっとできないでしょう。

それからもうひとつ、アゲハ蝶の脱皮
の例もあります。

アゲハ蝶の幼虫は数回に分けて脱皮し
最終的に綺麗な成虫になるわけですが

スムーズに脱皮できるわけではなく
ある意味、もがき苦しむように
なんどもなんども力強く体を動かしながら
脱皮していきます。

その過程そのものが、脱皮し、成虫になった
あとのあの鮮やかな羽を羽ばたかせる力を
養っているのだと聞いたことがあります。

だとすれば、そのために必要なのは
「適度な圧力」ということになります。

簡単に脱皮できてしまうと
羽ばたく力を養えないことになるし
それだけの生命力がない幼虫でも
成虫になってしまうことになる。

かといって、皮が厚すぎて
どんなにがんばっても脱皮できないと
生命力があっても、成虫になれずに
命を失ってしまうでしょう。

だから「適度な圧力」というのが
キーになってくる。

つまり、適度な圧力が生きる力を養う
とも言えるのではないでしょうか。

私はそう思います。

以前、雑誌プレジデントで
独立研究者の山口周氏と、脳科学者の
茂木健一郎氏の対談を読んだことがあり

そのなかで、山口周氏が次のように
言っていたのを思い出しました。

心理学者のマズローが提唱した「欲求5段階説」がありますね。人間の最初の欲求は「生理的欲求」、それが満たされたら「安全の欲求」、それも満たされたら「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現欲求」と続いていく。でも、ソロキャンプなどは完全に論理破綻していますよね。生理的に不快だし、安全も保障されないし、誰からも承認されない。でもなぜか楽しい。
 マーケティングは、「人の欲望」を刺激するテクニックの集大成です。ここを言語化することができれば、ビジネスだけでなく、人間の幸福を解き明かすヒントにもなりそうです。

PRESIDENT(プレジデント)2021.10.29号より引用

記事中で山口氏は“ソロキャンプなどは
完全に論理破綻していますよね”と仰っていた。

だけど私はそうは思わなかった。
なぜなら「ソロキャンプ」という概念自体が
「生理的欲求」や「安全の欲求」の上に
成り立っていると感じるからです。

どういうことかと言うと
ソロキャンプする人は、キャンプの最中こそ
「生理的欲求」や「安全の欲求」が満たされ
ていない環境に一見すると身をおいているよ
うに感じるが、

ひとたび家に帰れば、どちらも満たされた
日常を普段は送っているはずだから。

本当に普段の生活で、「生理的欲求」や
「安全の欲求」が脅かされている人は
そもそもソロキャンプなんて概念を
持ち合わせる余裕なんてない。

そういった状況下では、普段の生活自体が
まさしく生き延びるためのサバイバル
そのものになるはずだから。

また、ソロキャンプしている人は
その様子をYoutubeなどの動画サイトに
投稿することで「社会的欲求」「承認欲求」
を満たしているとも考えられるし

さらに人によっては、ソロキャンプという
行為そのものが「自己実現欲求」を
満たすための一環なのかもしれない。

これが一見すると文明の発展と
逆行しているようなソロキャンプが
マズローの欲求5段階説の論理破綻の
根拠とは思えない私の理由です。

では、こういった行為の本質はなにか
と考えると、それはやはり不便さや
危険な環境に身をおくことで

ある意味、生きるための力を養っている
(呼び覚ましている)とも言えるのでは
ないでしょうか。

孵化(ふか)する前の雛や
脱皮前のアゲハ蝶のように

適度な圧力が生きる力を養う

これは人間も同じなのではないでしょうか。

では、なぜ適度な圧力が必要になるのか?
そう考えたとき、便利さを追求した現代人の
生活の「代償」というものが見えてきます。

例えば、
運動不足の解消のため(または美容のため)に
ジムで身体を動かす都会の大人たちがいる一方

毎日山歩きをして、足腰が丈夫で
健康な地方のおじいちゃんおばあちゃんが
いたりもする。

飛行機や自動車、電車、エレベーター
エスカレーターといった移動手段が多く
存在する都会のひとたちは便利さの代償として

足腰の強さや基礎体力を養う機会を日常生活
から失ったのではないでしょうか。

それから、現代では
交通手段以外にも便利なサービスは
たくさんあります。

例えば、「食べログ」のような飲食店を
利用した人の口コミが見れるサービスとか
「Amazon」のカスタマーレビューなど。

こういった利用者の口コミや評判を
参考にすることで、お店選びや商品選び
に「失敗したくない」といった回避的欲求を
満たせるようになった。

この場合の利用者の代償はなにか?
そう考えてみたとき、それは

観察力、洞察力、思考力といったものを
養う機会の損失ではないだろうか。

合理的に目的までの道のりが短縮された
反面、昔は店構えや店員さんの雰囲気、
メニューなどを観察していろいろ考察したり
しながら、お店を選ぶなど、

こういったプロセスを通してしか
得られない知識や観察力といったものを養う
経験を失っているのではと感じます。

かといって、こういった便利なサービスが
不要といった極端な考え方をするのではなく
何事もバランスが大事。

ここでいうバランスとは何かと考えると
利用者に対するサービス提供のバランス
ということになると思うが、これはちょっと
難しいでしょう。

孵化(ふか)する前の雛は
親鳥が絶妙なタイミングで殻をつついて
くれますが、資本主義の世界で

サービス提供者=親鳥
雛=消費者

と考えたとき
サービスを利用する側の立場では、

利用者に対するサービス提供のバランス
というものを期待しないほうが良いでしょう。

なぜなら、マーケティング的な観点で
考えるとサービス提供する側は

消費者の欲求に対して
「生きる力を養う機会を奪わないために
適度な抵抗力を残したサービスを提供しよう」

などとは考えないからです。

なので、欲求と代償のバランスを
保つためには消費者が賢くなる必要がある。

私はそう思います。

そして忘れてはいけないのが
便利なサービスを提供している側は
その価値の対価を得ているということ。

そのために、多くの圧力に抵抗しながら
も、きっと力を養っているのだろう。

私もたくさんの便利なサービスを
利用させてもらっています。

このnoteもそのひとつ。
こういった便利なサービスを
せっかく利用させてもらっているのだから

私も、文章を通して読んでくれる人に何か
価値を提供していきたい。そう思います。

そのためには、観察する、調べる、
考える、といった適度な圧力を通して
伝える力を養っていきたいなと。

そんなことを思っています。


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