「嫌われる勇気」とは結局何なのか?
嫌われる勇気とは?
三大心理学者の1人、アルフレッド・アドラー。日本でも「嫌われる勇気」という本が一躍有名になった。
日本において、アドラー研究のパイオニアである岸見一郎氏は「嫌われる勇気」という言葉に関して、誤解があると感じているそうだ。
では一体、嫌われる勇気とは一体なんなのだろうか?
人は悩みたくて悩んでいる?
アドラーの名言に以下のようなものがある。
「やる気がなくなった」のではない。「やる気を無くす」という決断をしただけだ。
一見わかるようで分からないが、アドラーは一貫して、私たち人間が行うこと全ては私たちの意志によって決めていると考えているような節がある。
怒る。笑う。挑戦する。諦める。悩む。そうせざるを得なくて、そうしているように感じるが、実は自分が決めているというわけだ。
確かに、愚痴を言う大人は自分の境遇がいかにも不遇だと言うように、延々と文句を並べる。しかし、どんなに不遇であれ、悪口を言わないこともできる。少なくとも悪口を言わないように努力や行動することはできる。
しかし、彼らはそれに気づいているのか、いないのか、盲目になろうとする。きっと怖いのだろう。あらゆる選択が自分で決めていると認識するのは大変なことだ。
先の例でも、悪口を言わざるを得ないと自分に言い聞かせて、悪口を言い続けるのはきっと楽だし、気持ちがいい。
だからこそ、無意識に盲目になってしまう。あらゆることは自分が決めているという認識は、否が応でも自分の行動を見直すことになる。
「悪口を言っていても、これは私が決めてやっていることなんだ。」という具合に。そうなってはもう悪口を言うこともバカバカしく思えてしまう。
そして、ここからが正に「勇気」がいるのではないだろうか?
「勇気」と「行動」の習慣
悪口を言わないために、トライしていくことになる。心がけや、新しい何かを取り入れるなど、やることは人それぞれだろう。だが、それは間違いなく勇気を持って行動したことになる。
仮に上手く行かなかったとしても、心の持ちようは変わらない。そこで諦めたとしても、それは自分で諦める決断をしたに過ぎない。そう考えるようになる。
別に諦めずに努力しろ。という訳でもない。諦めたにしろ、諦めないにしろ、自分が決めたことだという認識が重要なはずだ。
その認識は、常にあなたに人生の選択を迫ってくるような感覚に陥る。だから常時、勇気がいる。
だが、何も息苦しいことはない。透き通るように心がスッキリする。明確な意思と勇気を持って進むことは、あなたに張り合いを与える。