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優生思想に支配された現代社会

 私はできない私を差別していて、私と同じような人々をも差別している。
優生思想とまではいかないが、それに近いものがあることを自覚している。思想は自由だが、言葉にするかしないかは大きな差。生まれながらの白黒思想の完璧主義が招く思想なのか、それとも私に知識や教養がないから生じる思想なのか。要因として両方あるように感じるが、意外なことに視聴を選択するユーチューブは障害者のドキュメンタリーや戦争、差別や人権について訴えかけるものばかりで、至って真剣に見ているし、どうにもならない現実に憤りを感じ、ひとり嗚咽することも珍しくはない。
 今日この国では、生産性や合理性を追い求めてきた戦後の名残がまだまだ残っているようにも感じる一方で、ユニバーサルデザインや、インクルーシブ教育など障害の有無に関わらず人々が共に暮らしていくことを目指した言葉をよく目にするようになった。私は知識として持っている程度で、深く学べていない。だから中途半端な知識にぶらさがった中途半端な思想を持つのだろう。
 でもこんなこと、センシティブなテーマなので誰に言っていいものかわからないし、話すと危険な人といった印象を持たれてしまうかもしれない。だから私の中で向き合うしかなく、大きな負担となっている。
 「みんなちがって、みんないい」
 確かにその通りだと思う一方で、都合がよすぎるようにも感じる。みんなちがって、みんないいを完璧に落とし込めている人なら、明日から重度心身障害者と入れ替わりを言い渡されても、うろたえもしないはずだ。そんな事不可能だから、誰も考えないのだろうけど。
 勝手な私の理論で行くと決めつけが激しいが多くの人の中に優生思想は影を落としており、それに気が付いていないだけなのではなかろうか。だから生産性や合理性を追い求めている。
 もう、競争のレールからは降りたいし、生産性や合理性なんてクソくらえ。この生きづらい世の中を、私は、私であり続けることはできるのだろうか。

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