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【書評】平川新「戦国日本と大航海時代」 ーー日本の実力

 この本は2年前に出て、すぐに読みたかったのだが、私は貧乏なので新刊を買うなど思いもよらない。図書館で予約していたのだが、人気があるらしく、なかなか私の所に回ってこなかった。

 忘れかけていた頃にようやく回ってきた。やはり面白い本であった。すでに書評は出切っているだろうが、私は書評の類は全く読んでいない。以下はすでに指摘されている所だろうが、記録として感想を書いておく。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592〜98)は、家来に与える褒美の領土が国内になくなったための苦肉の策、あるいは、秀吉晩年の誇大妄想が引き起こした狂気の所業、と従来教えられてきた。

 本書は、この通説に反し、朝鮮出兵は、ポルトガル・スペインの中国(および日本含む東アジア)侵略構想に秀吉が先手を打ったものであり、失敗はしたものの、日本の軍事力を世界に見せつける機会となって、ポルトガル・スペインの日本侵略の意思を阻喪させた、と説く。

 もし、秀吉の朝鮮出兵がなければ、ポルトガル・スペインは日本侵略を進め、フィリピンのように占領されていたかもしれない。しかし、朝鮮出兵で日本の軍事力をアピールできたことで、日本は、アジアのいち「王国」ではなく、一つの「帝国」だと認識され、秀吉や家康は、「王」以上の、ローマ皇帝に匹敵する「エンペラー(皇帝)」と呼ばれるようになった。

 朝鮮出兵で示された日本の軍事力は、長い戦国時代における国内の軍拡競争で育成されたものだった。そして、信長・秀吉・家康らは、当時の西欧の侵略攻勢をよく知っており、日本を守るのは軍事力しかないと正しく認識していた。そして、この時に生まれた、日本のこの軍事力に対する西欧の恐れは、その後の江戸時代の「太平」をも守ることになる。

 平川新は1950年生まれだから、60才代後半でこの本を書いたわけだ。

 日本のアカデミックな歴史家は、60を過ぎて、本音が出た面白い本を書く傾向がある。最近の本郷和人なんかも期待できる。山本博文は惜しいところで亡くなってしまった。

 たぶん「現役」時代は、学界の抑圧があって、思ったことをそのまま書けなかったのだろう。日本史の学界は、長らく左翼が支配していたと聞く。最近の若手はその支配を最初から気にせず伸び伸び書いている気がする。こうした老若の「脱左翼」歴史家を、最近の中公新書はうまく使って売れる本を作っている。

 しかし、平川の見方は、当然ながら単純な「右」の史観ではない。

 本書を読んで改めて気付かされるのは、近世においていかに天皇の存在が軽かったか、ということである。

 徳富蘇峰は、皇国史観のイデオローグとして「近世日本国民史」を書いたが(そしてそれは名著だが)、話を織田信長から始めている。皇室がないがしろにされた室町・戦国時代に終止符を打ち、「皇室中心の国体」を鮮明にして日本近代を準備したのが信長だ、という見方からであった。

 こうした見方は、今の日本人も持っているかもしれない。しかし、それが、まさに明治政府に都合がよかった日本近世観に過ぎないことにも、本書によって気付かされる。

 信長も秀吉も家康も、「力」の信奉者であり、皇室への敬意は便宜上のものであった。たぶんそれは幕末の尊皇の志士も、すなわち明治権力も、現在の政治権力者も、同じである。

 そして、それが必ずしも悪いことではない、というのが本書の伝えるメッセージだ。

 「左」には、平和憲法の効力を信じさせておけばよい。

 「右」には、皇国、「神の国」の霊力を信じさせておけばよい。

 真に肝心なのは、十分な「力(軍事力)」を持っているかどうか、である。

 と、権力者が考える限り、日本は安泰なわけである。


(なお、本書の後半は、伊達政宗の遣欧使節に見られる「戦国大名型外交」を細かく述べたものだが、煩雑であり、なくてもよかった。内容を前半だけに絞り、書名も「朝鮮出兵は正しかった」「朝鮮出兵のおけげで日本は生き延びた」といったものにすれば、ネトウヨなどを中心に5倍は売れただろうが、中公・読売としては流石にできなかったのだろう)



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