見出し画像

アジア差別 「パワハラ国家」日本の過去を清算できるか


私は護憲派を批判してきた。

「自虐」史観も批判したきた。

しかし、彼らにも「一分の理」があると思う。

それは、日本の「戦後の反省」が、特にアジア侵略に関して、不十分だからだ。


意識の二重性


日本は、「戦後の反省」のおいて、対アジアと、対英米とを使い分けてきた。

「支那・朝鮮」をはじめ、アジアに対する侵略・戦争については、

「仕方なかった。悪かったかもしれないが、彼らのタメにもなった」

と言う一方、

「英米」に対する戦争については、

「無謀で間違っていた」

と言う。

もちろん、政府の正式見解では、アジアについても「間違っていた」と謝罪している。

しかし、本音レベルで流通しているのは、上記のような言説なのである。


「アジアの指導者」意識


これは、実は戦時中からそうだった。

日本は、アジアに対しては、終始一貫「指導する立場」にあると考えていた。

だから、「支那・朝鮮」についても、

「決して彼らを憎んでいるのではない。間違った方向に行きそうだから、正そうとしている」

という姿勢だった。彼らを殺すのも「慈悲心」であり(実際そういう言葉を使っていた)、悪いことをしているつもりはない。

しかし、英米については、

「鬼畜米英」

であった。

アジア人を、少なくとも公式には、「鬼畜」とは呼ばなかった。敵ではあるが、あくまで「慈悲心」をもって接すべき相手だった。

(だから、火野葦平のような小説が政府にも受け入れられた。彼は小説の中で、中国人への日本軍の虐待を「告発」している)

日本が英米を指導すべき立場だとは、さすがに考えなかった。

英米については、むしろ、

「あんなに尊敬してきたのに。あなたたちが目標で、必死に真似にしてきたのに。それなのに、あなたたち白人クラブの正式会員にしてくれない。悔しい。裏切られた」

みたいな気持ちだった。

それは、怒りであり、憎しみだった。


パワハラ国家


今の言葉で言えば、日本はアジアにパワハラしていた。

支那や朝鮮は、日本に「指導してください」などと頼んでいない。最初からずっとパワハラだった。でも、「上司」のつもりの日本は、それに気づかない。だから罪悪感がない。

一方、日本から見れば、パワハラしているのは英米であり、自分は被害者だと思っていた。

平等の立場のはずなのに、英米から差別され、いじめられていると感じた。だから反撃した。もしかしたらボコボコにされるかも、と思いながらも。


鈴木大拙の屁理屈


こうした、対アジアと対欧米との二重の意識、ダブルスタンダードは、多くの日本人に見られるが、典型として鈴木大拙を挙げよう。

彼は禅を世界に紹介した仏教指導者であり、西田幾多郎の盟友として知られ、今も尊敬される代表的知識人だ。

だが彼は、日露以来の日本の戦争を正当化し続けた人でもある。

仏教は殺生を一切禁じているはずだが、鈴木大拙は、理論的抜け穴を発明する。それが、今も使われる「活人剣」という概念だ。

つまり、剣で人を殺傷するにしても、「殺人剣」と「活人剣」がある。前者は「悪い殺人」だが、後者は「よい殺人」だ。

「なぜ博愛と慈悲の教えにもとづく禅が剣と結びつくようになったのか? ・・(活人剣では)剣を所持する本人の側に他人をあやめる望みはない。敵が突然出現、自らの犠牲となる。剣そのものが自動的に正義の働きをしているように思え、同時に慈悲の働きも果たしているかのように考えられる(中略)このような役目を果たすとき、剣とはもはや、自己防衛の武器や殺戮の手段ではなく、剣士は、この時、一級の芸術家と転じ、真の独自性に満ちた作品を生み出す・・」(「禅と日本文化」)

殺人は「慈悲の働きも果たす」。オウム真理教の「ポア」論の先駆のような、この大拙の「活人剣」理論は、事実上、日本の軍人訓に取り入れられたと言われる。


侵略の正当化


当然ながら、大拙によれば、戦争にも「よい戦争」と「悪い戦争」がある。

今の人は、侵略戦争は「悪い戦争」だが、自衛戦争は、あえていえば「よい戦争」だろう、と考える。

それは戦前でもそうだった。大拙を含めて、戦前の知識人も基本的にはそう考えていた。「侵略戦争はよくない」と。

しかし、明治以来の日本の戦争を「侵略」だとは考えなかったのだ。

「日本はいやいやながら止むをえず、参戦し、自己本位的な目的ではなく、文明や平和、あるいは悟りか、文明開化に敵対する悪を抹殺しようとしたに過ぎない」

これは大拙の日露戦争についての言葉だが、明治以来の戦争すべてに、基本的にそう言い続けている。

そういう正当化において、大拙が特にひどいというわけではない。もっと時局迎合的な知識人はいくらもいた。大拙の態度は、ごく平均的と言ってもいい。


負け戦への反対


しかし、大拙が少し特別なのは、日米開戦については反対したことである。大拙は、太平洋戦争については、開戦前から「無謀だ」と憤激していた。

このことから、大拙は「本当は戦争に反対していた」「反戦論者だった」と言われるが、そうではない。

大拙はアメリカ滞在が長く、日本との国力の違いをよく知っていた。太平洋戦争は負けると思ったから反対したのだ。つまり、戦争に反対しなのではなく、負け戦に反対していた。

それがわかるのが、大拙の戦後の発言だ。

戦後になっても大拙は、アジアとの戦争については、

「東洋諸国の諸民族の政治的・経済的自覚を呼び起こす機会になりはせぬか・・これが端緒になって、今から何十年後に、東洋諸民族があらゆる意味において独立国を形成して、欧米の諸国民と共に世界文化の向上に協力するといふことになれば、誠に結構なこと」

と弁護的である一方、太平洋戦争の敗北については、日本に「知性」が足りなかった、などと反省を促した。

自らの戦争責任についてはほとんど認めていない。

親友の西田幾多郎は戦後まで生き延びなかったが、生き延びていたら、たぶん同じようなことを言ったのではないだろうか。


蘇峰の反省


別の例として、徳富蘇峰を見てみよう。

大日本言論報国会会長、毎日新聞社賓(役員待遇論説委員)で終戦を迎えた徳富蘇峰は、真っ先に公職追放となり、言論人の中では大川周明などとともに戦犯に最も近い位置だった。

彼は極東軍事裁判の成り行きを見ながら、次のような感想を記した。

日本人は、決して朝鮮の天然を、蹂躪し、奪掠し、放擲するような事はなく、最善の努力を以て、朝鮮の天然を善導し、且つ利用せん事を黽(つと)めた。しかるに朝鮮人は誰れ一人、日本に向って感謝する者もなく、常に日本人の手から、自由ならん事を、祈って已(や)まなかった。日本人は朝鮮から、取る事も取ったが、与うる事も与えた。しかし朝鮮人は誰れ一人、日本人に対して、感謝する者も無く、表向きは兎も角、内輪に入って見れば、朝鮮人の間には、日本人の評判は、終始一貫悪かったと言わねばならぬ。一言にしてこれを言えば、物質的には成功に邇(ち)かかったが、精神的には、全く失敗した。
所謂る捕虜虐待事件なども、別に日本人が残酷であったというではない。ただ田舎者が、田舎流儀を、無遠慮に振り回わして、遂に世界の物笑いとなったに、過ぎないのである。(いずれも「敗戦後日記」より)


「よいことをしていたつもりだったが、まったく感謝されていなかった」ことに気づいただけ立派だが、自分たちの善意は疑わない。

ただ「田舎者」だっただけだ、という反省は、鈴木大拙の「知性が足りなかった」と似たようなものだろう。

反省は、同じアジア人の気持ちがわからなかったことには向かわず、文明開化が足りなかった、つまり、西欧化が不十分だった、という方向に向かうのだ。


今も共通する認識


こうした姿勢は、ある年齢以上の今の日本の知識人も、基本的に変わらない。

例えば猪瀬直樹は、今回の参院選出馬にあたっても、自著の「『昭和16年夏の敗戦』の教訓」を強調した。

つまり、太平洋戦争の反省であり、アジアとの戦争は忘却されている。

百田尚樹のような作家が、いまだに中韓へのヘイト的言説を続ける一方、親米的態度を隠さないのも同根だ。

百田直樹は、戦後GHQによって日本人は自虐的姿勢を植えつけられたといい、それに日本人が気づいていないという。しかし、GHQが植えつけたのは「米国への復讐心の撲滅」、つまり親米的姿勢であり、アメリカ人と同じく、野球大好き、ボクシング大好きの百田こそ、その「親米」プログラムに洗脳されているのに、その自覚がない。

作家の百田が何を考え何を言おうと自由だが、それと安倍晋三のような最有力の政治家が親密なのをみれば、アジアの被害国(厳密にはその後継国)が日本を警戒するのも不思議ではない。


旧世代は変わらない


要するに、彼らは、「アメリカのパワハラ」については、自分たち(日本)が間違っていたから、パワハラではなく適切なご指導だった、と認めて、反省する。

一方、アジアへの自分たちのパワハラについては、「怒らせたかもしれないが、過去においては正しい指導だったから、当時としては悪くなかった」という考えから出ようとしない。

自分たちのパワハラをいつまでも自己正当化する、時代遅れの年寄りの思考から抜け出せない。

「過去においては正しかったが、今では間違いだ」

ではなく、

「過去においても間違いで、現在ではさらに間違いだ」

と彼らが認めない限り、アジアは納得できないのも不思議ではない。


新世代への期待


だから、こうした旧世代の保守系知識人が「9条改憲」を唱えれば、アジアが警戒し、国内の護憲派が反応するのも当然なところがあるのだ。

だが、私は、それを指摘して、護憲派が正しいと言いたいわけではない。

中韓に謝罪しつづけるべきだと言いたいわけでもない。

上のようなダブルスタンダートを持つ世代が反省し、その反省をアジアに対して示すことは重要だが、もう必要ではない。

なぜなら、彼らはもうすぐ死んでいくから。

彼らに対応する護憲派も死んでいく。

今の50代以下の日本人は、アジアへの差別意識を旧世代ほど持たない。ほとんどまったく持たないと言ってもいい。

(それは、明治の「脱亜入欧」以来のアジアにおける日本の地位の卓越性が消えつつあるからでもある。まず中国に抜かれ、南北統一すれば韓国朝鮮にも抜かれる)

そして、中韓を含めたアジアの若者も、日本への「恨み」を旧世代ほど持たない。ゼロにはならないかもしれないが、過去のことだと認識されるだろう。

今後の日本の外交も、改憲も、そうした新しい世代のためにおこなわれるべきだ、というのが私の言いたいことである。

近代日本の歪んだ意識と行動が起こした、悲惨な過去を学ぶのは重要だが、もうその過去を引きずらない、引きずらせない、ようにしなければならない。

いいなと思ったら応援しよう!