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天皇とゼレンスキー 「王」と戦争の歴史

昨日のブログでも書いたが、大統領のプーチン、ゼレンスキーに当たるのは、日本では首相ではなく、国家元首としての天皇のはずである。

プーチンとゼレンスキーを見ていると、「王」の本来の役割は、対外戦争に勝つこと、そして、そのために国民の士気を高め、外国軍と戦わせることだと改めて感じる。

平時の王族は、各国との友好外交に優雅な姿を見せるが、民族の存亡がかかった戦いになれば、民族を立ち上がらせ、勇ましく戦ってもらわねばならない(もちろん、「引き際」を作るのも重要な仕事だろう)。

王は、外交や戦争に勝って地位を安定させ、民は、外交や戦争に強い王を信頼して従う。そうした関係が想定され、期待されている。

日本の王である天皇の、戦争における実績を振り返っておく。


日本国の成立過程はいまだ謎だが、大陸における「隋」「唐」という強大な帝国の出現が、国内権力の集中を必要とした、というのは通説ではなかろうか。

人びとがヤマト政権に求めたのは、大陸の強国に勝つことであり、記紀なども、ヤマト政権が「いかに戦争に強いか」を強調しているように思える。

白村江での敗北(663年)がさらに危機感を強めたはずだが、結局、唐(と新羅)は日本本土に攻めて来ず、本当に天皇が対外戦争に強いかは、不明のままだった。


中世には、最近注目を集めている、刀伊の入寇(1019年)があった。満州にいた女真族の九州への侵略だ。

この時は、太宰府にいた公卿、藤原隆家と、地元の武士団がこれを撃退した。

この時、京都にいた天皇は、後一条天皇である(在位1016〜1036)。当時は藤原家の全盛期で、天皇は藤原道長の孫に当たる。

「後一条天皇は国政に興味を示すこともなく、ただ藤原氏に追随する存在だった」(「天皇125代」宝島社)。

この頃までに、天皇自身は「王」としての実質を失い、「藤原政権」が日本を動かしていた。

とはいえ、刀伊を撃退した藤原隆家は、皇族の一部ではあるから、藤原政権とともに天皇も面目を保った形か。

しかし、すでに対外戦争への緊張感が、かなり失われていたのを感じる。


そのあと、元寇(1274、1281年)がある。

知られる通り、自衛戦争を指揮して勝利したのは、鎌倉幕府の執権、北条時宗だ。

時宗の上司、鎌倉幕府の将軍は7代の惟康親王だ。皇族で、いわゆる宮将軍。しかし実権はない。

元寇の時、京都の天皇は何をしていたのか、というのは教科書にも書いてないのではないか。

当時は南北朝分裂の真っ最中。大覚寺統の亀山天皇・上皇の時代だった。

亀山上皇は、ひたすら伊勢神宮、岩清水八幡宮で、戦勝祈願していた。

実際の戦争指揮には関わっていないが、勝利したことで、ここでも皇族は面目は保ったのだろうか。


次に、日本から侵略していった対外戦争、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役 1592〜1598)がある。

当時の天皇は、後陽成天皇(在位1586〜1611)だ。

この時代になると、天皇は、完全に政治の「駒」として、信長、秀吉、家康などに動かされている感じだ。

当然、朝鮮出兵に口を挟むような立場ではなかった。

しかし、生まれの卑しい秀吉は特に、天皇の権威を利用して、自らの権力強化とともに、戦意高揚も図った。

秀吉は、朝鮮の次に明を破り、後陽成天皇を北京に移して、明・日本・朝鮮を統一する大帝国を作るつもりだった。

戦争を含めた権力行使のために、天皇の権威を積極的に利用する原型がある。

朝鮮出兵の失敗は、豊臣政権の崩壊を招いたが、天皇の権威に傷がついたかどうかはわからない(後陽成天皇の在位が江戸時代まで続いたところをみると、そういうことはなかったのだろう)。


この時代は大航海時代であり、スペイン、ないしポルトガルに、日本が侵略されてもおかしくなかった。実際、フィリピンは1565年にスペインの植民地になった。

信長・秀吉などの戦国大名や天皇は、意識はしていただろうが、どこまで現実的な危機感があったかはわからない。

しかし、結果として、スペインなどによる日本侵略はなかった。秀吉の朝鮮出兵は狂気の沙汰だったとされるが、それを見て日本の武力を認識し、西欧が日本侵略を諦めた、という説が最近ある。

そのおかげかどうか、ともかく対外戦争の危機は、その後、江戸時代末期までなくなる。


次の対外戦争の危機は、黒船来航(1853年)である。

孝明天皇(在位1846〜1867)は、強硬な攘夷論者で、開国論の江戸幕府、また一部公家と対立した。

この頃までに尊皇思想が醸成されていて、天皇の政治への影響力が復活していた。

幕府の大老・井伊直弼は、天皇の許可なく外国と条約を結んだので、1860年に暗殺される。

1863年に薩英戦争があったが、敗北した薩摩は、むしろ西欧の力を知って覚醒していく。

天皇は1863年、攘夷実行の勅命を出す。しかし、倒幕派の勢力がますとともに、天皇の影響力は低下していった。

結局、英米やロシアに対する戦争にはならなかった。

天皇が倒幕の障害になっていると見る岩倉具視らによって、天皇が追い詰められたところで、孝明天皇は亡くなる(1867年)。

あまりに倒幕派にとってタイミングがよかったので、暗殺説が流れることになる。

孝明天皇の攘夷の勅命に従った士族たちは、明治の初めに一掃される。

「尊王攘夷」が、「反(孝明)天皇」「反攘夷(開国)」に転回していく幕末の流れは、まったく分かりにくい。


そのあと、日清日露戦争と明治天皇、日中戦争・太平洋戦争と昭和天皇の話になるが、それについては昨日のブログにも書いた。近代は再び対外危機が高まり、世界大戦を経験する。


こうして見ると、やはり100〜300年ごとに大きな対外戦争の危機がある。

明治天皇は「戦争に強い王」を復活させたかに見えたが、昭和時代には敗北する。

天皇の役割もさまざまだが、しかし結果としては、日本という国土と民族を守ってきたと言える。

もちろん、他国の平和を壊すのもやめていただきたい。

次の危機の時に「ゼレンスキー」はいるのだろうか。








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