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中国・韓国への「詫び状」としての9条

私は長らく、「護憲派」というのが理解できなかった。

憲法にウソをついて軍隊を持っている現実はマズイだろう。だから、憲法を書き換えるしかないだろう、と思っていた。

でも、軍隊を持っていても、「戦力不保持」の憲法と矛盾しない、という理屈を、憲法学者や識者が説くので、へえそんなものかね学問は深遠だね、と思いつつも、納得できていなかった。

最近になってようやく、これまでの憲法学者がおかしい、と言う学者が現れて、やっぱり私の方が正しかったのではないか、と。

世間も、「護憲派」の理屈と距離を置き始めて、最近の世論調査では改憲派が護憲派を上回るようになった。

そうはいっても、「9条改憲は『平和憲法』を壊す『壊憲』だ」みたいな声がすぐになくなるとも思わない。

日本では共産党が主張しているコレは、韓国や中国が言いそうだし、現に言ってきたことである。

これから改憲が政治日程に上ってくると、9条以外が対象であっても、同様の声が中国・韓国から聞こえてくるだろう。

見方を変えれば、日本の「護憲派」の主張は、中国・韓国の代弁であった、と見ることができる。

そして、そう見たとき、私は初めて「護憲派」を理解できるのである。

日本のサヨクは中韓の手先だ、というような、ネトウヨ的なことを言いたいわけではない。

日本に侵略された過去を持つ中国、韓国が、日本を警戒するのは当然だと私は思うのだ。

なぜ警戒心が消えないかというと、警戒心を消す努力が足りなかった、あるいは、努力にも限界があった。

戦争の国家的責任については、国際裁判があり、講和があり、補償があり、法的にはとっくに決着がついていることになっている。

しかし、裁かれたのは主に軍人・政治家であり、天皇の責任、マスコミの責任、思想家や作家の責任、庶民の責任などは、日本人の私から見ても、十分に追及されたとは言えない。

特に、天皇制含めた「国体」が保持されたことは、別の記事でも書いた通りであり、中国・韓国から見れば、

「日本は変わっていないのではないか。反省していないのではないか」

という疑念を持たれても、仕方ないと思っている。

表面上、というか「行為」の問題だけでなく「心」の問題がある。

つまり、近代日本は、中国や韓国に対して「差別意識」を持っていたのは間違いない事実なんですね。

差別意識は「軍人」「国粋主義者」だけが持ったわけではなく、庶民も持っていた。また、もちろん全員が持っていたわけではなく、中国や韓国に差別観がない人も、同情的だった人もいた。右翼にも左翼にも、差別する人もいれば、差別しない人もいた。しかし、中国人や韓国人から見れば明らかな程度には、日本人は全体として差別意識を持っていた。

そして、今も持っている人がいるわけです。

そうである以上、彼らの疑念が消えないのは無理がない。

しかし、日本としては、これ以上、やりようがない、ということがある。

鳩山由紀夫は違う意見だろうが。しかし「慰安婦像に土下座」が正しいとも思わない。

私は昭和天皇には戦争に関して当然に「責任」があると思っている(「戦争責任」という言葉はあえて使いたくない)。

しかし、平成時代の天皇は、それを意識して、韓国に対して、ギリギリまで謝罪の念を伝えようとされていたと思う。

平成に入って、韓国の大統領が来日するたびに、晩餐会での天皇の「お言葉」が話題になった。

特に、親日の金大中が来たときの「深い悲しみが常に私の心にある」という言葉には、天皇の思いがこもっていたと感じた。

そういう地道な活動が問題を氷解させる可能性を感じたこともあった。

しかし、その後、日韓関係はどんどん悪化していった。

いずれにせよ、根本的に改善されない「歴史問題」を背景に、日本の反体制派は、「9条を守れ」で、過去の日本の侵略を象徴的に批判し、中韓への同情を表明してきた面があると思うんですね。

前にも書いたことがありますが、「9条」というのは、単なる法の条文ではなく、一種の「換喩」であり、それを「守る」行為が、政治的な象徴行為となっているわけです。

社会主義が実現しなかったので未だ成仏できない「理想主義」とか、「国体」の戦争責任を追及できなかったので中韓に申し訳ない思いとかが、この「9条」というものに込められている。

現実的には、9条の改正に当たっては、中国と韓国に対して、過去の侵略を本当に反省しているということ、過去の差別意識について申し訳ないと思っていること、を伝える必要がある。

もし逆に、ここで「侵略は正当であった」とか「差別は当然であった」と言う人たちが現れたら、9条改正は非常に難しくなる(私は白人の侵略への対抗という「正義」は認めるが、アジアの侵略はそれで正当化できない)。「9条」で封じているはずであった「魔物」がまだ生きている、と彼らに感じさせてしまうだろう。

国粋思想や差別意識を強制的に、人為的に、無くすことはできない。それを許すのは左翼思想だ。洗脳か、殺すしかなくなる。それは許されない。自然に少なくなるのを待つしかない。

自国の憲法を変えるのに、他国の言うことを気にする必要はない、と言う人はいるだろう。もちろん、自国のことは自国で決めていい。しかし・・・

私が言いたいのは、9条が象徴していた曖昧なものを清算し、現実的に解決することこそ、政治家がすべきことではないか、ということである。

(もっとも、「世代交代」で過去が自然に清算される可能性がある。私のような年寄りは余計な心配をしなくていいかもしれない。というか、そう願いたい。)



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