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老後の悩みは「孤独」より「無為」 藤谷みさを『老人ホームの四季』の先見性

「老後」の先駆的考察

老後は1人になる。

それは現在、我々のほとんどに待ち受ける未来である。

しかし、少し前には、それほど当たり前ではなかった。

今年話題になったNetflixの韓国ドラマ「イカゲーム」で、印象的な場面がある。

主人公のギフンが、ゲームの参加者に老人がいるのを見て、声をかける。

「老人がこんなところでゲームを? お嫁さんが作ったごはんでも食べて、暖かい部屋で寝そべっていればいいのに」

老人は反論する。

「だったら君のご両親は、お嫁さんに作ってもらっているのか?」

そう言われてギフンは黙る。

離婚して借金を抱えるギフンは、老母にごはんを食べさせるどころか、老母に養われている境遇だからである。


現在、我々は、少し前は当たり前でなかった老後を迎えている。

核家族化、高齢化、少子化、離婚増加、非婚化は、日本、韓国をはじめ、多くの先進国に見られる現象だ。

その複合的な結果として、長い「お1人さま老後」が広く蔓延することになった。

それは必ずしも「独身」「独居」を意味しない。

結婚していても、長寿時代では、いずれ残った1人が長い余生を送ることになる。

家族が近くにいても、経済面を含めて今は生活が別であることが多い。

老人ホームに入っても、自分のことをわかっているのは自分以外にいない。最後はやはり「1人」である。

だから現在、「お1人さま老後」の生き方を指南する本が続々と出されている。


本書『老人ホームの四季』(社会保険出版社、1983年刊)は、その先駆として、味読に値する名著だと思う。

私自身、60歳を超えて退職し、「老後」を生き始めて、改めて本書に多くの発見があった。

83歳の著者は、老後の孤独、寂しさをもちろん感じる。

しかし本書によれば、老後の悩みで大きいのは、「孤独」よりも「無為」なのだ。

そして、若い頃から、老後が「無為」にならないように準備すべきだと説いている。

本書には、明治・大正・昭和の激動期を生きた人の、気骨ある「老人の知恵」が満ちている。


著者について

著者、藤谷みさをは、知る人ぞ知るエッセイスト、と言えるだろう。

1901(明治34)年、山口県生まれ。東京女子高等師範(現お茶ノ水女子大)卒。

1940(昭和15)年、毎日新聞社が「紀元二千六百年」を記念し、賞金50円(今の15万円くらい)で「皇国二千六百年史」を募集したさい、藤谷が1位入選した。

毎日新聞から出版された藤谷の『皇国二千六百年史』は50万部のベストセラーとなり、英語版、スペイン語版、中国語版も出された。

この時、東大の辻善之助、作家の幸田露伴、菊池寛などと共に審査員を務めたのが、当時毎日新聞の「社賓」であった徳富蘇峰だ。蘇峰は戦前を代表するジャーナリストであり、終戦時は大日本言論報国会会長だった。

藤谷は戦中、日本統治下の朝鮮(現韓国)で国語と歴史の高校教師をしていたが、戦後は夫の実家の山梨で専業主婦となる。

蘇峰は戦後、戦犯容疑が解け、公職追放が明けた後、藤谷に連絡を取り、秘書として雇った。

1951(昭和26)年から1954(昭和29)年まで、当時50歳前後だった藤谷は、90歳前後だった蘇峰の口述を文章にまとめ、畢生の大作、全100巻の「近世日本国民史」完成を助けた。「知る人ぞ知る」というのは、近代日本の思想史なりを調べ、徳富蘇峰の文献を読むと、蘇峰の協力者として必ず名前が出てくるからである。

1957(昭和32)年、蘇峰が95歳で亡くなった後は、エッセイストとして、『蘇峰先生の人間像』『随筆一期一会』などを上梓した。山田風太郎『人間臨終図巻』の蘇峰の回(それは短いが見事な蘇峰論になっている)で藤谷の回想録が引用されている。

一般には無名で、中央の出版界で作家として遇されていたわけではない。徳富蘇峰同様、戦前のキャリアが仇となった面があっただろう。山梨県に住み、ときどき地方紙にエッセーを連載する、いわゆる「地方文化人」という位置だった。

『老人ホームの四季』を出版した翌年の1984(昭和59)年、亡くなった(没年は徳富蘇峰記念館のデータベースに記されているが、それ以上の詳細はわからない)。藤谷の著書に、いわゆる現役本はないが、本書は古書として比較的手に入りやすい。


本書の内容

夫と死別し、子供がなく、兄弟姉妹もみな死んで身寄りのない藤谷は、1980(昭和55)年、地元山梨県甲府市の老人ホーム「和告寮」に入寮する。

本書は、そこでの体験、観察した老人の姿や心理の綾、自身の人生の反省や晩年の心境を記したエッセー集である。

そもそもの目的は、書くことによって自らの「無聊を消す」ため、そして、「老人ホームにだけは行くつもりはない」という人に、「老人ホームは案外にいい所ですよ」と紹介するためだ、と冒頭で説明されている。

このホームでは、6畳2人の相部屋であった。プライバシーはあるが、集団生活でもある。

「浄福」の境地で花作りや人助けにいそしむ人もいれば、問題児ならぬ問題老人もいる。

そして、突然倒れる人、亡くなる人がいる。みんな死が間近であることを意識しながら、その日を生きている。

藤谷は在野の歴史家でもあった。だから、80歳を超えても、人や出来事を見る見方は客観的で、記述は的確、具体的である。

その本領が発揮されるのは、実は老人ホームのトラブルメーカーを描く部分だ。同室になった「E尼僧」との、生涯のプライドをかけたような意地の張り合いのエピソードは、本書の白眉と言ってよい面白さだ。(この感想文で書きたいこととはズレるので詳しくは記さないが)

徳富蘇峰は戦前は名文家として知られ、その文章は国語の教科書に載っていたほどである。

その蘇峰が、実質的な「共著者」として見込んだのだから、藤谷みさをも名文家だ。

竹内洋は、福沢諭吉が「旧士族」層に向けた文体とすれば、徳富蘇峰は「平民」向けの文体を開発した、と論じている(『稀代のジャーナリスト徳富蘇峰』)。「生涯一新聞記者」を自任した蘇峰は、漢文調の美辞麗句をまぶしつつも、分かりやすい文章を心がけていた。

しかしその蘇峰の「名文」も、次第に時代遅れになり、今では大変読みにくい。何しろ江戸時代(文久3年)生まれの人である。およそ40歳下の藤谷にも、すでに古臭く感じられていただろう。

一方、藤谷の文章は、今も立派に通用する。古いといえば古いが、以下の引用にわかるとおり、格調高く、明晰で、思わず引き込まれる描写に不足しない。80歳を超えた人の筆とは思えない、豊かな「知と情」を感じさせてくれる。

ただ、生来の資質か、あるいは教師を長くやっていたからか、彼女の文章は硬質、真面目一徹で、ややもすると上からの「訓示」調になる。それは、本人も自覚していたが、現代の好みではなく、人によっては気に触るかもしれない。


明治人の気骨

「『一番好ましいことは、家族の責任において老人を見ることだ』とこの頃またしきりにいわれているようである。しかし世の中はどの家も例外なしに、そう定石通りというわけにいかない。」

「わびしいのが老境であり、老境はどこにいてもわびしいのである。その中から少しの光をでも見つけ出して、わびしさをいささかずつでも緩和してゆくのは、老人自らの問題だと私は思っている。」

藤谷に一貫するのは「自立」「自助」の精神である。

彼女には白内障のほか、心臓に持病があり、病弱であることを自覚している。だからこそ養護の目があるホームに入ったのだ。いまは身の回りのことを自分でできるから「養護老人ホーム」にいるが、寝たきりになれば隣接する「特別養護老人ホーム」に移る日が来ることは了解している。

しかし、精神的な意味では、いかに老衰に向かおうと、自立し独立しようとする。

そこには、明治生まれの人生経験が反映している。藤谷自身がこう書いている。

「一瞬にして昨日の是(ぜ)は今日の非となり、昨日の悪はかえって今日の善となるという、価値観のめまぐるしい転換に卒倒したのは、他ならぬ明治大正生まれの世代だったのである。」

「そうした生き難い世の中を曲がりなりにも生き抜いてきたればこそ、たとえ回り道であろうと、それを通してより深い人間の本質である『独りで生まれてこそ、独りで死んで行く人間』の自覚に辿り着いたのではないか」

「昨日の是が今日の非になる」大転換の好例が、徳富蘇峰であろう。言論界の最高権威(「蘇峰賞」という年間最高のジャーナリストに贈られる賞があった)から、敗戦によって一夜で「A級戦犯容疑者」に転落した。

『皇国二千六百年史』で脚光を浴びた藤谷も、基本的には失意と混乱の戦後を送ったはずである。

蘇峰の秘書時代の思い出をつづった藤谷の『蘇峰先生の人間像』に、「反共の書」と題された戦後の印象的なエピソードがある。

「反共を標榜する或る人の著作物を先生が私に下さった。」

「表紙と著者の筆名ーー一見してそれと判る最右翼的な臭味ーーを見て、有難いどころか、見くびられたような、いやな思いを禁じ得なかった。」

「先生は唯々軽い気持で下さったに違いない。然しそれが私を悲しませるのである。」

藤谷は別に蘇峰の崇拝者ではなかった。蘇峰から請われて秘書になっただけである。

その蘇峰の周りには、戦後も、右翼や「国士」たちが集まってきた。藤谷は、それを嫌がっていた。

しかし、世間から見れば、藤谷も、「時代遅れの右翼の仲間」と見られて仕方ないご時世であった。

彼らにとって戦後は、そうした「誤解」に耐えて生きなければならない時間だったのだ。

最近99歳で亡くなった瀬戸内寂聴(晴美)は、藤谷の約20歳下(1922年生まれ)である。

戦後混乱期に苦労したのは同じとはいえ、瀬戸内の作家デビューは戦後であったため、戦後思潮にうまく乗って活躍できた。不倫の過去を責められることはあっても、藤谷のような戦中の経歴がなかったのは幸運だった。

蘇峰とも藤谷とも因縁の深い毎日新聞社だが、戦後はほぼ無縁である。戦中は蘇峰の「近世日本国民史」連載を売り物にしていたのだが、それが戦後毎日新聞社から出版されることはなかった。その全100巻の刊行は、蘇峰の死後、時事通信社が行うことになる(現在、その半分ほどが講談社学術文庫に入っている)。

メディア史の有山輝雄(元成城大教授)は、『徳富蘇峰と国民新聞』のあとがきで、そんな毎日新聞社を皮肉っている。

「蘇峰は戦犯として新聞界から葬りさられる。だが、賞(蘇峰賞)まで設けて蘇峰をかつぎあげた大新聞社は、手のひらかえして自己保身をはかり、現在まで存続することとなった。徳富蘇峰も、主観的には巧みに時流に乗った知識人であったつもりだろうが、彼以上に巧妙な組織があるのである。」

もっとも藤谷は、『老人ホームの四季』の中で、毎日新聞山梨支局の記者が訪ねてきて、地方版に自分の半生記が載ったことを喜んでいる。

それはともかくーー藤谷は「失意の戦後」を具体的に愚痴っているわけではない。

くわえて、子どもがないこと、山梨での生活が貧しかったこと、病いに伏しがちであったこと等も、何となく察せられるだけだ。苦労が多かっただろう。「生き難さ」という言葉を、今の若い人も使うけれども、藤谷が使うともう少し深い陰影を帯びる。

「孤独」ということで言えば、彼女の世代は、時流の中で孤立する「孤独」も知っていた。国も権威も頼りにならない、ということも身をもって知っていた。

この世代ならではの経験、その語られない苦労の連続が、「独りで生まれてこそ、独りで死んで行く」という老後観にも生きているのである。


無為を消す

その彼女が老後の悩みとして訴えるのが、「無為」である。

「『およそ老境の悩みは経済上の問題と健康上の問題と、それに孤独と無為にある』と喝破した人があったと思う。」

「ここで私がいいたいのは、その四つのうちに、前三者は外部から何らかの方法で補ったり、手助けをしたりする術が必ずしも皆無ではない。それに反し、最後の一つ『無為』こそは、本人自らの手で何とか解決する以外、全くお手上げである。」

彼女によれば、無為こそが老後の「最大の敵」なのである。その対処を、彼女は、「無為を消す」「無聊を消す」という言い方をする。

彼女は、30年前、蘇峰の秘書をしていたときのことを思い出す。

「その日の勉強を終えて、別棟の私室に引き上げようとする私を呼び止めて、先生は、『お家から離れていて、お寂しいでしょうなア。すまないと思います』と言われた後、『私は独りでいても、寂しくない術(すべ)を知っとる……』とひとり言のようにもらされた」

「私は独りでいても、寂しくない術を知っている」

その蘇峰の言葉は、蘇峰の死後すぐに出版された『蘇峰先生の人間像』にも書かれている。

しかし、当時50歳前後だった藤谷は、その言葉の意味を捉えきれないでいた。

蘇峰は、午前中のひと時を「国民史」の口述に当てたあと、ボール箱の外側に、糊で包装紙を貼り付ける、という内職のような手作業をして、時間を潰すことがあった。箱を貼りながら「いまにあなたにも差し上げますよ」と上機嫌だったという。

その作業のやり過ぎかーー何しろ90歳の高齢であるーーあるとき蘇峰は手を痛めて包帯をする羽目になる。

藤谷は『蘇峰先生の人間像』では、

「ほんの頭脳休めの手すさびに過ぎない箱貼りのために、故障が生じたのでは、日頃の先生にもふさわしからぬ軽挙の様な気さえする。」

と少し冷たく記していた。

しかし、自身も80歳を超え、藤谷はその言葉と行為の深さに思い至る。蘇峰もまた「無為を消して」いたのである。

「私が余命幾ばくもない今となって、先生を一番懐かしく思い浮かべるのは、あのさりげない『独りでいても、寂しくない術を知っとる』の、一見さりげないようで、その実、私に聞かせたい本音の一端だったのかもしれないひと言である。」

人間は寂しい存在であり、老後であればなおさらだ。

「この期に及んではもうやり直しもきかない、絶体絶命の一人歩き」

「滔々たる大河を前にして、渡らんとして渡りえぬ旅人さながらに、いたずらに手をこまねいて歎息するのみ」

と、老境の孤独、死を前にした寂しさを、藤谷は表現している。

しかし藤谷は、「箱貼り」に象徴される、思い出の中の蘇峰の日常に、寂しさをただ回避するのではない、寂しさを「抱きしめる」境地を再発見するのである。

ここから藤谷は、現代に通じるような提言をする。

老後のための「経済」「人間関係」など「万遺漏なき環境」を備えることも必要だが、それ以上に、

「老境こそは人間最終の理想境だとの考え方を、子供の時から養成すること」

が必要だというのである。

そのためにはーー

「蘇峰先生の言葉をかりれば『独りでいても寂しくない人間』をつくり上げることだと思う。」

「年老いていたずらに退屈したり、暇をもてあましたりする代わりに、黙々として『独りを楽しむ』術を身につけている人間の好ましさ、ゆかしさを、何となしに感じ取らせることだと思うのである。」

これは、藤谷が書いて40年ほどたち、高齢化がさらに進んだ今こそ、思い出されるべき提言だと思うのである。

老人が楽しむのは、老人だけのためではない。

若者にとっても、老人が周りに増えてくる。その老人たちが楽しそうでなければ、自分の将来をも悲観してしまうだろう。

だから、老人は、若者のためにも、「無為」を消して楽しむべきなのだ。


ここで私の感想になる。

藤谷は、「無為を消す」「独り楽しむ」術を、必ずしも具体的に列挙しているわけではないが、それは「生きがい」のような重いものでなくていいはずだ。

60歳代の私は、まだ老人「入門」くらいだが、自分の経験を言わせてもらうなら、現役時代の「趣味」の延長がいいとは限らない。

退職したら、読書や音楽鑑賞、映画鑑賞に好きなだけ時間を使える、と楽しみにしていた。たしかにそれらをいまも楽しんではいるが、老後の無為を潰せるほどには楽しめないのが本音である。

やはり「受け身」の趣味は、飽きがくる。それに、本や映画を含め、マスメディアの情報は、基本的には青年、壮年向けに作られている。彼らの関心・興味を前提にしている。送り手が現役世代なのだから仕方がないことだが、老人の心理や志向とはズレている。

藤谷の場合は、「書くこと」が無為を消す手段だった。しかし、頭脳労働である必要はない。蘇峰の箱貼りではないが、単純でも、自分が能動的に作業する何かがいいと私は思う。この note も有用だ。


藤谷が本書の最後に、つまり生涯の最後に記した以下の一節は、感動的であるとともに、現代にはますます「予言的」なメッセージだと私は思うので、引用しておきたい。

「今のこの何一つ足らぬものなき繁栄の中にあって、思いきり過保護にされ、甘えの構造の中に陶酔している人間たち。いったんその夢が破れた時、周りのだれ一人、手を貸してくれないとわかった時、果たしてどのようにして立ち上がり、どのようにして活路を拓いて行こうというのであろうか。」

「彼らが自らの手でそれを発見する前に、私たち老人の世代がかつていやというほどなめ尽くした、いわば堕地獄の世界が、断じて再現されないという保証はどこにもないのである。」

「考えることや反省することが無用の長物視され、贅沢視されるという低劣な生活体験は、願わくば私たちの世代で終わりにしたいものである。」


最後に

藤谷が晩年入寮した老人ホーム「和告寮」は現在もある。

40年たち、当時の関係者はもういないだろうが、いつか機会があったら山梨の同寮を訪ね、藤谷みさをの最期の記録などが残っていないか、調べてみたい気がしている。(もちろん、いずれ私も世話になるかもしれない老人ホームというものの視察もかねて)

藤谷が最後の3巻を「共著」した「近世日本国民史」100巻のうち、私はまだ5、6巻しか読んでいない。司馬遼太郎はじめ多くの歴史作家がタネ本にした一次史料の宝庫である。私の老後の無為を消すために、こちらも少しずつ読み進めたいと思っている。

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