石原慎太郎のこと
石原慎太郎が亡くなった。
彼とは何度か接点かあった。
一橋大学関連の如水会館で彼が講演し、その前座を竹中直人が務めた話は前にこのnoteで書いた。
その後、2000年代の都知事時代にも仕事で会った。
あの西洋の城の中のような都庁の都知事室に入った。
都知事室に入ると、石原は半裸だったので驚いた。上半身をタオルで拭いていた。
自分の肉体を見せびらかそうとしているのだろうか、「ライバル」だった三島由紀夫のように、と一瞬頭をよぎったが、考えすぎだろう。
仕事の内容は当然ここでは書けないが、さすが手際がよく、こちらの期待以上のサービスをしてくれて、頭が下がった。
そのときもらった名刺は、長らく大事にしていたが、コーヒーをこぼして汚し、どっかに行った。
彼の夢は、ゲーテのような文人宰相になることだっただろう。
そして、宰相としての体験を文学にして、ノーベル賞を取ろうと思ったかもしれない(チャーチルのように)。
彼の小説も私は好きだったが(それについてはまたの機会に語りたい)、作家としても、政治家としても、トップは取れなかった。
政治的には敵であった大江健三郎がノーベル賞をとったし、自民党でも傍流だった。
弟の石原裕次郎が死んだとき、びっくりするくらい話題になり、追悼写真集がめちゃくちゃ売れた。
びっくりするくらい、というのは、私の世代(1960年代生まれ)では、石原裕次郎は過去の人だったからだ。
アクションドラマで「部長」役で出てくる、貫禄だけの鈍い役者、というイメージだった。
今回、慎太郎が亡くなっても、裕次郎のときのように追悼雑誌が売れるということはないだろう。
しかし、石原慎太郎のほうが、私の世代にははるかに「現役感」があった。
芥川賞をメジャーにし、文学を売れる商品にした、という話は、追悼で必ず出てくるだろう。
その後、三島由紀夫や、黛敏郎や、武満徹といった戦後文化の最高の部分にずっとかかわってきた。
が、それも、私には過去の話だった。
私は、石原が政治家として何をするのか、というほうに期待をもった世代だ。
左派マスコミは、とにかく石原慎太郎を落とそうと選挙のたびに必死だった。安倍晋三の前、同じように憎まれたのは石原だった。しかし、安倍同様、石原が選挙で落ちることはありえなかった。今の、残りの「石原」は無残だが。
「『NO』と言える日本」(盛田昭夫と共著、1989)は、小沢一郎の「日本改造計画」(1993)とともに、戦後、日本がいちばん世界の注目を集めていた時期、いわゆる「バブル」期である1990年前後を象徴する政治思想書だと思う。
その後のバブル崩壊で、両書で示された政治の方向は、右でも左でも迷走することになる。
そのあたりも含めて、評価されなければならない人だ。
「日本人」というもののスケールを、個人の力で広げようとした人、と言えるかもしれない。
だが、しょせん都知事では、役不足だっただろう。猪瀬直樹を後継に据えたのと、「首都大学東京」「大江戸線」などに独特のセンスを感じた。
あと、ホームレス排除、尖閣「購入」など、いろいろあったが、しょせん知事職という限界は、本人がいちばん感じていただろう。
芥川賞作家で総理大臣を目指すような日本人は、もう出てこないだろう。
小粒になった芥川賞作家や政治家が追悼を言うのを聞きたくない。
寂しい思いがする。