リケジョの思い_5_

もうひとりの自分

月夜に

夏の夜です。部屋は少し蒸し暑く、落ち着かなげに首を振る扇風機の音。夜風にあたれば少しは涼しかろうと、アイスを片手に窓を少し開ける。月が見えます。すこしぼやけていますが、明るくて、近くにたなびく雲を照らしています。

五感の自分、科学の自分

 窓に体を預けて月を眺めながら、心の中ではふたりの自分が話し始めます。ひとりは「ああ、きれいだ。夏はこういうところも好きだ。」と、月を五感で味わう私。もう一人は、「月のあの部分が明るいのか。太陽はあっち側だな。」と科学の知識を使って考える私です。
 こんな、科学のことを考える自分は前にはいなかったのです。ただ感じたことを感じたまま、きれいだと思う自分だけがいて、それをごく親しいひとにだけわかってもらえたらいいと思っていました。そのうち理科で天体のことを習ったり、高校で力学にふれたり、大学で学んだりして、いわゆる科学的な知識を知り、価値観の異なる人と論理を通じて議論をするようになりました。それから月というものの科学的な側面に思いをはせる、もう一人の自分ができてきました。

当たり前?

 その間、15年ほど。ふりかえると長い時間をかけて科学の視点、科学の自分ができてきたのだと思います。
 ところが最近、科学の自分が科学的知識を「当たり前」と捉えるようになっているのを感じます。科学と縁遠い人、自分のもっている知識をもたない人、「ああ、きれいだ。」という自分は、その当たり前に疑問をもつかもしれない。月は地球の周りを公転している。なぜそれが正しいといえるのか。どうやって確かめたのか。どのようにしてその発想が出てくるのか…。実際に、科学的な知識を学ぶとき私はいつも疑問だらけになってきました。その感覚を忘れかけている気がするのです。

演習者に伴走する。

 なぜこんなことが気になっているかというと、学部2~3年生の演習授業を担当することになりそうだからです。2~3年生に「この考え方は当たり前」と思って、力学や熱力学のことを話してしまいそうな気がします。しかし、私がわずかでも科学のことを学んでこれたのは、私の目線に立ってくれて、その人自身が問い続けながら、教えてくれた人がいたからだと思うのです。私もそんな風に後輩に接したい。科学の自分よ、わかった気にはなっていないか。演習者の目線で、伴走できているだろうか。自問自答しつつ、やっていこうと思います。

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