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これからの時代の「指導」とは

用事があって道場へ行くと、後輩が一人で練習をしていた。空手の世界には演武をする「形」と相手と戦いを繰り広げる「組手」という競技がある。一人で練習して強くなれるのは「形」のほうで、その後輩は黙々と形の練習をしていたわけである。

僕も空手をして長いが、どちらかというと組手派。となると、練習にはやはり誰か相手がいなくてはならない。大学時代はまわりに空手をしている人もまずいない環境で、なかなか練習には困ったものだ。経験者や興味のある人を呼んできて練習もしたが、どちらかというと自分の練習ではなく、指導する側が大半であった。

空手は一人じゃ強くなれないんだよな〜。

そんなことを心の中でいつも思っていたが、そんな僕の概念を覆そうとしているのが、その後輩である。

真剣な眼差しに思わず感動したから、隣のコンビニに行って差し入れを買ってきた。スイーツばかりを選んでしまったが、今思い返すとウィダーインゼリーとかスポーツドリンクとか、アスリートが喜びそうなものでもよかったなと。

僕ももっと強くなりたいものである。

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一人で練習するということは、並大抵のことではない。だいたい、一人で誰も見ていない環境であれば、たとえそれが形の練習だとしても手を抜いてしまうものである。

一人であれば、言い訳も考えやすい。「仲間がいないから、しょうがない」
そういってしまえば、まあそれまでなのである。

反対のことをいえば、仲間がいれば強くなれる可能性も大きくなる。切磋琢磨できるし、辛い練習だってみんなで頑張るのと一人で頑張るのでは、元気の出方が全く異なるのだ。そういう意味では、ここ田舎は少子化もあって、なかなか大勢という練習環境を作れないパターンが多いのかもしれない。そんな環境でも、どうみんなで楽しく強くなろうか考えていかねばならない。

これからの時代にあった練習方法を、僕たち指導者の方は考えなくてはならない。

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指導の観点でいうと、現代の子どもたちの性質もだいぶ変わってきている。

まず、指導者がガツンと怒ったり叱ったりする場面がぐんと減ったこともあろうが、なかなかに打たれ弱い子どもが多かったりする。言い換えれば、心優しい子どもたちが多くなった。だから、練習の雰囲気もなんだかゆるゆるというか、引き締まらない場合も多々ある。

また、試合の結果などを第一にしない場合も多い。試合で負けたとしても、まあいいかという気持ちでいられる子どもが増えたのだ。別にスポーツの試合で勝つことが全てではないし、楽しんでできればいいというようなマインドである。まあ僕もどちらかというとそっち側の人間ではあるのだが、いつの間にか同志が増えたように感じる。

こうなると、今までのような単にきつい練習などでは通じなくなってくる。

これが現代である。

ただただきつい練習では、子どもたちは離れていくばかりだ。だから、きつい練習の中にもどこかに「楽しさ」という要素がなければ、これからの時代はなかなかに厳しいのではないかと個人的には思うのだ。

また、付け加えるとすれば子どもたちの「主体性」も大事な要素だ。自分たちで練習をコントロールして、そのコントロールした練習を経て結果を出す。そんなサイクルが回ってくると、彼らの「楽しさ」がいい具合に刺激されて、「試合でも頑張ろう」というようなマインドに繋がってくる。だから、一方的に教えるスポーツの時代は、もうすでに過ぎ去った過去と言っていいだろう。

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とまあ、こんなことを考えている僕も空手の指導者のはしくれではあるが、これを実践となるとなかなか難しいものがある。第一に、他の指導者ともこの考え方を共有しなくては、道場・教室での一貫性に欠けてしまう。一貫性にかけると、一番に不信感を抱くのはいつも子どもの方だ。だから僕としてもとりあえずは何も無駄な動きをしないでおいている段階ではあるのだが、いつかどこかのタイミングで手段を講じたいなとは思っている。

いわれて強くなる時代では、もうないのだ。

学校の先生もそうかもしれないが、これからの時代の「先生・指導者」というのは、おそらく子どもたちのサポーター的な存在になるのだろうと思う。

だから、そんな仕組みができないかなと。

2024.05.30
書きかけの手帖

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