精神疾患と遺伝(4)私の血脈(父親)
私の生い立ちについては3回にわたり、noteに書き綴ってきましたが、凡そ私がどのような人物か、その経歴だけ見れば皆様フレームが見えてくるのではないかなと思います。「堪え性の無い人間」「どこか頭のネジが飛んでいる奴」「14社も経験しているなんてタフな奴」などなど。
では、そんな私を形成してきた私の血脈についてご紹介していきたいと思います。
私の父は、太平洋戦争の始まる2年前に、近畿地方の地主の次男として生まれました。学業はとても優秀でしたが、田舎でしたので地元の高校に進学したのですが、そこでは今でいう偏差値で40台ほどの学校でした。当然秀才だった父はそんな学校での授業では物足りなく、県庁所在地にある名門校に編入したがったのですが、一人暮らしを許して貰えず、なら親戚の家から通うならと、芦屋に住む親戚に、近隣に優秀な高校は無いかと相談したそうです。すると親戚は「ある事はあるけど、あなたではとてもではないけど無理な学校よ」と一蹴されたそうです。その学校とは、灘高校でした。
灘校といえば、今でも日本一と言っても過言ではない名門進学校ですが、70年前でも関西地区では有名な学校だったそうで、さらに言えば今のように高校受験組がおらず、中高一貫だったそうで、そんな事もあり、親戚には無理だと言われた父でしたが、単身神戸に行き、灘校の校長と面談したそうです。当時の校長は清水実という人で、父の熱心さに、突然乗り込んできた田舎の少年に、その時の中間試験の問題を解かせたそうです。唐突に突き付けられた難問に、さすがの田舎の秀才も骨を折ったみたいでしたが、清水校長から後日、編入学の許可通知が届いたそうです。父は、両親と兄に、生前財産分与をして欲しいと頼み込み、いくら親戚の家に居候するとはいえ、それなりに生活費は必要ですし、何より私立学校なので学費もかかる訳で、いくら地主の息子とは言え、戦後の農地改革でかなりの資産を失った実家も決して裕福では無かったため、かなり無理なお願いをしたみたいでした。
晴れて、灘校生となった父でしたが、父からはどんな学生生活だったかを語る事はありませんでしたが、聞いたことも無い田舎の高校から編入など前代未聞の事で、恐らくは孤立していたのだと思ます。後年、灘校時代のクラスリストを見る事がありましたが、父を含め2名だけが灘中以外の出身で、後は全員中学から灘の生徒でした。ちなみにもう1名の出身中学は開成中学でした。
また、田舎の秀才、井の中の蛙大海を知らずで、近畿圏の天才秀才が集う灘校の中で、恐らく成績は最下位だったのかも知れません。父から聞かされた高校時代の事では、体育祭で大けがをして入院し、清水校長が見舞に来た際に、「大事な時期にこれでは現役で大学に行くのは難しいだろう。私が推薦状を書くから君の地元の大学の教育学部でも目指しなさい」と言われたそうです。もちろん真実か否かはわかりません。
灘校を卒業後、父は早稲田大学の政治経済学部政治学科に進学しました。しかし、これも後年父の日記を盗み見た時に知ったのですが、父は早稲田の政経の第二政治経済学部、いわゆる夜間部でした。日記には幾度となく「目指せ一政!」と書かれておりました。その後父は大学を中退するのですが、若い頃の私には父の姿が五木寛之の「青春の門」の主人公に被って見えてしまい、憧憬の眼差しで父の青春時代を夢想していました。
大学中退後の父の足跡は正直わかりません。新聞記者をしていた時期もあったみたいでしたが、恐らく職を転々としていたのでしょう。一時期は実家に戻りニート生活を送っていたけど、生前贈与したのだから、もうお前を養う事は出来ないと、兄である伯父に説教されたのかもしれません。私が生まれた頃には、宝石商でしたが、実際は宝石の研磨職人として生計をたてていました。
父は、とにかく天上天下唯我独尊な人物で、自分が貧乏なのは世の中が悪い、政治が悪いと常に愚痴っていました。批判する事に関してはいっぱしの批評家気取りな面もありました。自宅での在宅勤務の仕事なので、引きこもりの性質も持ち合わせていたのでしょう。自分は悪くない、誰々が悪いのだと、常に自分を正当化する事に必死な人でした。
子供の私や弟には、とにかく鉄拳制裁と、正座されられ小一時間説教を喰らっていました。弱い者にはとにかく強気で、力で屈服させる人でした。
やがて私が高校を中退する事を伝え、その原因が同級生からのいじめだと言うと、「ふざけるな、俺がそいつらを叩きのめしてやる」などと威勢の良い事を言いましたが、本気でそんな事をできるような人物ではなく、とにかく口だけの人間でした。その頃、父の仕事は本当に激減し、実家のマンションの家賃にも事欠く状況に陥ったのですが、それでも父は他に仕事を探して生計を立てるような事をせず、結局母親が働きに出て朝から晩まで働き、何とか私の大学入学のお金を出してくれるまでに至りました。後年母親から聞いた話では、父は50歳を過ぎても、実家の祖母に金を無心していたとの事で、生前贈与が聞いて呆れると。そして私が社会人になってから、社会の厳しさを知るごとに、いかに父がダメ人間の典型モデルだと化けの皮が剥がれた父は本当に情けない姿でした。
今は80代半ばになった父ですが、相変わらず宝石研磨の仕事をしており、さほどの稼ぎにはなっていないみたいですが、老人の趣味みたいな感覚だと母親から聞いています。そう、父は現役時代も趣味のような感覚で仕事をしていたのではなかろかと思いました。
頭が良すぎるがゆえに、正業に就く事を潔しとせず、鶏口となるも牛後となるなかれという格言を都合よく解釈し、個人事業主として働くしかできなかった、宮仕えする為に必要なコミュニケーション能力が欠落していたのだと思いますが、私もかつての父と同い歳になり、そんなダメな人間であった父ですが、今となっては仕方なかった、父も精神がどこかイカれていたんだろうと、少しだけわかるようになりました。
次回は、そんな父を育てた祖父についてnoteしようと思います。
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