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『羅生門』芥川龍之介 「人間の本質を知れる」

このnoteは、本の内容をまだその本を読んでない人に対してカッコよく語っている設定で書いています。なのでこの文章のままあなたも、お友達、後輩、恋人に語れます。 ぜひ文学をダシにしてカッコよく生きてください。

『羅生門』芥川龍之介

【芥川龍之介を語る上でのポイント】

①『芥川』と呼ぶ

②芥川賞と直木賞の違いを語る

③完璧な文章だと賞賛する

の3点です。

①に関して、どの分野でも通の人は名称を省略して呼びます。文学でもしかり。「芥川」と呼び捨てで語ることで、文学青年感1割り増しです。

②に関しては、芥川賞は純文学、直木賞は大衆文学に贈られる賞です。それ以上は僕もよくわかりません。調べてください。

③に関しては、芥川はその性格上完璧を求めるが故に短編が多いです。僕個人短くて凝ってる文章が好きなので、まさに芥川の文章は僕の理想です。

○以下会話

■やっぱり有名な小説は面白い

 「芥川龍之介の作品の中で一番好きな小説か。そうだな、そしたら王道の『羅生門』かな。高校の現代文の教科書に載ってるから、日本人のほとんどが知ってる小説だよね。僕の高校では、一年生の一番初めの授業で『羅生門』をやったから、まだ仲良くなりきってない生徒の緊張感と、高校生活へのワクワク感込みで、妙に覚えてるんだよね。

オリラジのあっちゃんがYoutubeで取り上げてて、そのあらすじ紹介が上手で面白いから観てみて。

この動画を観ればあらすじはわかるけど、一応僕も紹介するね。

舞台は、平安時代末期。当時の京都は飢饉とか竜巻のせいで荒れ果てていたんだ。ある日の夕方、壊れた羅生門の下で、若い下人が雨宿りをしていたんだ。下人は、家の雑用をする奴隷のことね。その下人は数日前に、仕えていた主人から解雇されていたんだよ。生きる術がない下人は、盗人になるしかないと思いつめていたけど、どうしても盗人になる勇気が出なかったんだ。そんな時、羅生門の2階に人の気配を感じたんだよ。

2階に行ってみると床にたくさんの死体が放置されてるんだ。そしてその中で猿みたいな老婆が、若い女の遺体の髪の毛を抜いていたんだよ。下人は、直感的に老婆の行為に怒りを覚えて、老婆を押さえつけたんだ。すると老婆は「抜いた髪でカツラを作って売ろうとしていた」と説明するんだよ。そして「抜いた髪でカツラを作ることは悪いことだが、生きるためには仕方がない。今髪を抜いたこの女も、生前に蛇の干物を干魚だと偽って売っていた。それは、生きるために仕方が無く行った悪だ。だから私が髪を抜いても、この女は許すだろう。」と言うんだ。

下人は当初、髪を抜く老婆に対して正義心から怒っていたけど、老婆の言葉を聞いて盗人になる勇気が生まれるんだよ。そして老婆の着物を急にはぎ取って「これも俺が生きるための悪だ」と言って、闇の中へ消えていくんだ。そして最後は、

下人の行方は、誰も知らない。

と結んで終わり。どう、思い出した?最後の文がカッコ良いよね。芥川はこの小説を東大在学中の23歳の時に書いてるんだよ。天才だよね。

■「生の肯定」がテーマなのでは

あっちゃんは、『羅生門』のテーマを「人間の醜さと闇」だと説明してるよね。確かに芥川の作品全体をみると「醜さと闇」を扱ってるのが多いけど、『羅生門』に関しては、そこまで「醜さと闇」が全面に出てるとは思わないんだ。どう思う?僕としては『羅生門』からは「生の肯定」みたいな割と明るい印象を受けたんだよね。あくまで僕個人の解釈だけど、①冒頭の文章②時代設定からその理由を説明するね。

■①冒頭の文章:「待っていた」という描写

冒頭はこんな文章で始まるんだ。

ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。

すごいわかりやすい描写だよね。夕方に、下人が、羅生門の下で、雨が止むのを、待っていた。ここで注目して欲しいのが、「雨やみを待っていた。」という部分。下人は、夕方に羅生門の下で、雨が止むのを「待っていた」んだ。待っていたということは、雨が止んだ後何かをしようとしていたってことだよね。

下人はこの時、主人から解雇されて一文無しで途方に暮れている状態で、生きるか死ぬかの瀬戸際にいたんだ。でも、「待っていた」ってことはこの先も生きようと思ってたということなんだ。

例えばここが「ある日の暮方の事である。雨が降る中、一人の下人が羅生門の下でしゃがんでいた。」だったら、だいぶ印象が変わるでしょ。下人のこの先の行動は何も決まってなさそうだよね。「待っていた」よりも悲壮感が強くて、もしかしたらこのまま死んでしまうのかなって思うよね。

ここで下人の行動を整理すると、盗人になろうとしたくせに、死人の髪を抜く老婆を発見すると正義感を振りかざしてやめさせ、そして老婆の「悪い奴には悪さをして良い」理論を聞くと、自分も老婆に悪さをした、という流れだよね。

下人は主人から解雇され途方に暮れてる状態だから、生きるか死ぬかの究極の選択をする状況だと一瞬思えるんだけれど、

「盗人になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいた

とあるように、「生きるか死ぬか」ではなくて「盗人になるかならないか」の選択をしているんだ。なぜなら「待ってい」るから。

つまりフランクに言うと、今の下人は、首吊りロープをくくって、首をかけるかどうか迷っているのではなくて、タウンワークを持ってどの職業につくか迷っている状態なんだ。ここに「醜さや闇」は感じないよね。

■待っている状態にすがりたい下人

でも下人は、「盗人」という職業・生き方を積極的にやりたい訳ではないから、雨を「待ってい」るけれど、「止んで欲しい」とは思ってなかったんじゃないかな。おそらく「止まなきゃ良いのに」という気持ちの方が強かったと思うんだ。

下人は今、主人に解雇されてもはや「下人」ではないよね。つまり下人は何者でもない「ただの人」なんだ。だけど、雨が止むのを待っている時だけ、「待っている」人になれるんだ。
雨が降り続けてくれれば「待っている」人になれる。雨が止んでしまったら、何者でもない自分は、生きるために何かしなければならない。何かといっても選択肢は盗人しかない。雨が止んだら盗人にならなくてはいけない。っていう状態だよね。
下人は、雨がこのまま降り続いていつまでも「待っている」自分でいれたら良いのにって思ってたんじゃないかな。

電車に乗ってボーッとして「このまま会社(目的地)につかなきゃ良いのにな」って思ったりする感覚と同じだよね。太宰治の『待つ』を連想させられる。

■②時代設定:戦争してる時に秩序はあるの?

次に下人は、羅生門の上で、死体の髪を抜く老婆を見つけるよね。老婆の「この女は悪いやつだから、これくらいされても良い」という論理を聞いて、下人は盗人になる覚悟ができて老婆の着物をはぎ取るんだ。

この一連の行為から、「生きるために自分を正当化させて人を貶める。これはまさにエゴイズムを描いた文学だ。醜さと闇なのだ。」って言われても、何かずれてる気がしちゃうんだよね。

だって「死んだ人の髪の毛を抜く」行為も「老婆の着物をはぎ取る」行為もそこまで悪いとは思えないんだよね。もちろん令和の現代に、死んでる人に傷つけたり身につけてる物を盗んだら、倫理的にはもちろん悪いし、そもそも犯罪行為だよね。でも『羅生門』が舞台にしてる、荒れ果てた平安末期にはどうなんだろう。例えば太平洋戦争中、冬の寒さを逃れるために戦死した人の服を身に着けたりすることは、多少許容されたと思うんだ。何しろ平安時代に、まず下人という奴隷の存在が許されている時代に、死体がゴロゴロと放置されている無秩序な状態で、そのうちの一つの死体の髪を抜く行為が絶対的な悪だとは思えないんだよね。

生きる術がない途方に暮れた荒廃した世界で、死んだ人の物を取るのはそんなに「エゴイズム」なのかな。確かに褒められた行為ではないけど、「人間の醜さ・闇」というより「人間の生の肯定」という印象を受けたんだよね。まあテストで書いたらバツなんだろうけどね。

■「下人の行方は、誰も知らない。」

最後の「下人の行方は、誰も知らない。」という文章には、二つの意味があると思うんだ。一つは、下人がこれからどんな風に生きていったのか、はたまた死んだのかは、誰にもわからない、という意味。物語に含みを持たせて読者に推測させる効果があるよね。

そしてもう一つは、そもそも「下人」ではなくなった、という意味。つまり「下人」という肩書を持った人間は、老婆から着物を剥ぎ取った瞬間から「盗人」になっていたという意味。下人は老婆から着物を剥ぎ取って、きっとその時には雨も止んで、外に出た時には「下人」ではなくて「盗人」として新たな人生を歩み始めたんだ。だから「下人」の行方は誰も知らない(なぜなら下人じゃなくなっているから)っていう意味かもしれない。屁理屈みたいだけどね。

この解釈があってるかどうかは別として、短い小説なのに色々考えることができる『羅生門』はやっぱり面白いよね。久しぶりに読み返してみると、新たな発見があると思うから、是非読んでみて。」

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