ダイエット&ボディビルBL「愛と筋」39【完】
筋肉を称賛する叫びがやまない。
みな喉をからして自分たちに感動を与えてくれた素晴らしい筋肉を褒め称えている。
ロックバンドのライブに勝る熱狂に包まれた表彰式を終えた藤は、ステージを降りたとたん、それまで貼り付けていた晴れやかな笑顔を消した。減量明けでのステージングはかなり辛い。
ステージ裏に戻ると他の選手から群がられたが、疲労困憊のところに寄ってこられても対応する余裕はない。無視して急いで着替え、「ふ、藤さぁぁぁん!」頬を上気させて駆けてきた尚太郎の手を掴んで、鍛え抜かれたカーフの力を発揮し、裏口から会場を出た。
「ふぅ、疲れた。おい、尚太郎、俺を支えろ」
「は、はい」
見るからに疲れきっている藤の腰を、尚太郎はどぎまぎしつつ腕を回して支えた。吐く息が電灯に照らされて白くあがるが、興奮しているからか藤とくっついているからか、寒さは感じない。
「もう真っ暗ですね」
「8時間経ってるからな」
「えっ、そんなに経ってたんですか!?」
「おまえ時計見てなかったのか?」
「そんな余裕なくて……」
「ふふふ、どんだけだよ。……でもな、8時間なんて、大会としては短い方だぞ。クラス別じゃないし、部門も少ない、そもそも参加人数が少ないからな」
「えっ、じゃあ他の大会は何時間かかるんですか?」
「何時間どころか数日かけて行うものもある」
「す、すごいですね」
尚太郎はきらっとした光を感じて、藤のジャケットの隙間を見た。シャツの上から下げた金メダルが誇らしく輝いている。
「ステージの上の藤さん、すっごくかっこよかったです」
「何言ってんだ。いつもかっこいいだろ」
「いや、そうですけど、なんていうか、努力の積み重ねがなにより重要なんだって、教えられた気がして……うまく言えないけど、すっごく感動しました」
軽口で返そうとした藤の耳に、ふと、重低音ボイスがよみがえった。
――いい筋構えになったね。
表彰式のとき、楠木会長はそう言って、藤の肩に手を置いた。
「君の、理想に近づこうとする意気込み、己を貫く信念が、その背中に、胸に、脚に、腕に……身体の隅々までイきわたり、神々しいまでに輝いていたよ」
「楠木さん……」
「ナイスマッスル」
サムズアップした楠木会長は、客席にいる尚太郎をちらりと見た。
「彼、いいよね。ジムで一目見た時から声をかけたくて仕方なかったけど、君がガードしてホームジムに引っ張っていったから、できなかった」
恨みがましい口調に、藤はじとっと睨みを返す。
「だって師匠、気に入った男は拉致して家に連れ込み裸に剥いて隅々までボディチェックするじゃないですか」
「君に居座られてからは、家に連れ込むことはしていないよ。ホテルで済ませている」
「胸張って言うことじゃありません。それでマッチョ恐怖症になって消えてった若い芽がどれだけいると思うんですか。あいつまでそんな目にあわせられてはたまりません」
「ひどい言い草だな。……まぁ、たしかにこれまでの僕は、少々やりすぎなところがあったかもしれない。あのひとにも注意されたから、もうやめるよ」
「そうですね。そうしてください」
藤がうなずくと、楠木会長は苦笑してもう一度尚太郎を横目で見た。
「彼の肉体の発達ぶり、見事だね。君の指導の良さがよくわかる」
「あれは、あいつの素質と努力のたまものです」
「愛のない筋肉は、真の筋肉ではない。君に愛がなければ、僕が認めるほどの筋肉を育むことなどできなかったはずだ。……裏を返せば、僕が君を高みまで導けなかったのは、僕に愛が足りなかったからなのだろう。……すまなかったね」
「いいえ、謝るのは俺のほうです。せっかく指導してくださったのに、俺はあなたに認められたいと焦るあまり、勝手に無茶して自滅して……恩をあだで返してしまった」
「君の無茶を止められなかったのは僕の責任だよ。右手の親指を骨折してるのにデッドリフト200kgして、広背筋が筋断裂しかけてるのに270kg担いでスクワットして、あげくVLCD(ベリーローカロリーダイエット)による栄養失調まで重なって、病院送りになった君を見て、僕も反省したんだ。やる気を妨げるまいとする指導は、指導ではなかった。叱りつけてでも止めるべきだったと。君の指導を降りたのは、僕自身が指導者として未熟だと痛感したからだ。君のせいではない。あだで返されたなんて思っていない。そんなこと思っていたら君をトレーナーとして雇っていない」
「楠木さん……」
藤のうるんだ眼差しにうなずいた楠木会長は、少し気遣わしげに訊ねた。
「……僕が昔追いかけていた夢を、彼……尚太郎くんに追わせるつもりかい?」
尚太郎が自分と似た素質の持ち主だと見抜いたらしい。そして、そんな尚太郎を育てようとした藤の心情も見抜いたのだろう。さすが楠木会長だと思いつつ、藤はなにかを言いかけて口を閉じ、首を振った。
「いいえ、あいつの夢は、あいつだけのものです」
「そうか、……君の夢は?」
「理想を目指すことです。……できれば、あいつと」
回想を終えた藤は、隣にいる尚太郎を見上げた。
尚太郎は、なぜかひどく驚いた顔をしている。その視線を辿ると、きょろきょろと周りを見回している中年男性がいた。
「父さん!?」
尚太郎が叫ぶと、父は「あれっ」と言って、てってってっと効果音が入りそうな動きで駆けてきた。
「尚ちゃん、なんでここにいるの?」
小首をかしげる。その愛らしい仕草を、白い毛糸の帽子とキャメル色のダッフルコートが引き立てている。
「ぼ、僕は、ボディビルの大会に出て……ってそうじゃなくて、なんで父さんがここに!?」
「それは……あ、楠木さーん!」
ぴょんぴょん跳ねて手を振った父は、ぽかんとする息子を放置して、巨岩のような男に飛びついた。
「おお、奈古さん。来てくれたのか」
「はい。楠木さんのマンションで待ってようと思ったんですけど、少しでも早く会いたくて。……迷惑でしたか?」
「いいや嬉しいよ」
「お仕事はもう終わったんですか?」
「ああ今終わったところだ。一緒に帰ろう」
「やったぁ。楠木さん、お腹すいたでしょう? あなたのリクエストに応えて、プロテインシチューを用意してますから、いっぱい食べてくださいね」
「それは楽しみだ。急いで帰らなくては。……食後のデザートは、わかってるね?」
「……もう、楠木さんったら」
「へっ? へぇぇぇっ!?」
頓狂な声を出した息子を、今その存在に気づいたかのように振り向いた父は、ぽっと頰を染めた。
「尚ちゃん、僕、楠木さんのお嫁さんになります」
「なっ、ちょっ、はぁ!?」
「うん、ありがとう。僕、幸せになるね」
「ちょっ、待って、父さん、なんで楠木さん?」
混乱のせいでうまく言葉を繋げられない尚太朗だが、父にはその問いがなんとなくわかったらしい。
「グッズの開発打ち合わせで楠木さんとお会いして、肉体言語を交わして、結婚前提でお付き合いすることになったんだ。えへ。あ、楠木さん、このラブリーエンジェルは僕の息子の尚太郎です」
「やぁ、ラブリーエンジェル尚太郎くん。君のもう一人のお父さんになる楠木進之介だ。マッスルダディと呼んで渾身の力で甘えてくれ」
「え、ええぇぇ……」
「来週のクリスマスに家族で食事をしよう。その席で君の兄さんたちを紹介するよ」
楠木会長は、尚太郎の横でなにか言いたげにしている藤にウインクして、
「僕のラブリーエンジェルな息子とステディな関係にある君も、ぜひ来てくれ」
ダンディな笑顔で力こぶを作ってみせた。その上腕は、ウエストと同じ太さだった。スーツの悲鳴が聞こえるようだ。
そこで藤が口を開いた。
「師匠、いまのあなたなら、ミスターオリンピアの頂上に立てる。どうしてもう一度目指そうとしないのですか……どうして、昔追いかけてた夢だなんて言うんですか?」
「たしかに純粋なバルクだけなら、今の僕は世界のトップだろう。だけどそれだけではミスターオリンピアの頂上には立てない。……僕はもう、現役のときと同じレベルの絞りはできない。パーフェクトでない身体で、あの聖なる舞台を汚したくはないんだ」
「師匠……」
会長はふっと微笑んだ。
「僕の愛弟子と、その彼氏のラブリーエンジェルな息子よ。君たちに、先輩トレーニーとしてアドバイスだ。
……生き急がなくていい。筋肉は何歳になっても鍛えられる。自分が諦めないかぎり、筋肉は応えてくれる。だけど筋肉だけに頼って生きていけるほど人生は甘くない。だから愛で甘さをプラスするんだ。筋と愛がそろって初めて、幸福なマッチョになれるんだよ」
そう言うと、尚太郎の父を軽々とお姫様抱っこして、
「いまの僕の夢は、幸福なマッチョであり続けることだ!」
ははははと高らかに笑いながら、車を停めている地下駐車場入り口へ、ランジスクワットで消えていった。
やはり藤の師匠だと思いながら見送った尚太郎に、藤が気遣わしげに話しかける。
「……おまえの父さん、嫁いでしまってもいいのか? いま追いかければもしかしたら止められるかもしれない……ような気がしない」
「……別にいいです。僕は、父さんが幸せならそれでいい。相手が同性でも……僕だってそうなんだから、反対なんてしません」
「そっか」
「あれ、そういえば楠木会長って筋肉しか愛せない人じゃなかったんですか?」
「それはたぶん俺を振るための嘘だ。あのひとは筋肉をこよなく愛しすぎているが、人を愛せない人間じゃない。単に、俺が好みじゃなかったんだろう」
「……筋肉をこよなく愛してる人が、なんでマッチョじゃない父さんを好きになったんでしょうか」
「は? おまえの父さん、かなり質のいい筋肉を持ってるじゃないか」
「え? いや、どこがですか。あんな細いのに」
「たしかに細いが、ただ細いんじゃなくて、ものすごく引き締まってるんだ。筋肉は着痩せするからな。おそらく昔はかなり逞しかったんだろう。重量のある肉体を支えられる素晴らしいアウトラインを持っている。おまえの骨格は父親ゆずりだろうな」
「えええ……というか、なんでダッフルコートの上からそんなことがわかるんですか」
「俺は、分厚い脂肪をまとっていたおまえの骨格や筋質だけでなく将来得られるであろう筋量まで見抜いた慧眼の持ち主だぞ。あれしきの布地、俺の筋肉センサーの前では障害にならない」
「……すごいですね」
「ふふん、まぁな。……まぁ、師匠のあの様子じゃ、筋肉はあんまり関係なさそうだけどな。ああいう柔和で可愛い感じが好みだったんだろう。智典の嫁の吉田さんも、体型は違うけど似たような雰囲気だし。親子だけあって好みが同じなんだろうな」
藤に寄りかかられ、尚太郎は思い出したように彼の腰をまた支えた。ゆっくり歩き出しながら、ぼうっと空を見上げる。
都会の空では、あまり星は見えない。でも、見えなくてもそこにはたくさんの星がある。人知れず頑張って光ってる。……それは、この地上でも、同じなのかもしれない。
目線を戻してふと横を見ると、星のように瞬く藤の瞳があった。
「尚太郎、食うぞ」
「へっ?」
「へっ? じゃねぇよ。減量明けの3週間は、栄養を取り込みやすい期間なんだよ。がっつり食って筋肉でかくするぞ」
「は、はい」
「そんで来年は、今回の優勝賞金使って海外遠征だ。オリンピアにも出る」
「オリンピア……じゃあ、ボディビルに?」
「いや、目指すのはオリンピアのフィジークだ。……でも、いずれはクラシックフィジークへ、そしてボディビルへと進みたい。……俺はもう、自分で自分の可能性を狭めない。一度翼が折れたくらいで諦めない。追い求めたい夢があるなら、折れた翼を鍛え直して、また飛べばいいんだ。……自分が諦めないかぎり、筋肉は応えてくれる。そう信じるって決めたんだ」
男らしく宣言する藤に、尚太郎の心筋は震えた。
果てしなく上を目指し続けるこのひとと、肩を並べられる男になりたい。
「……僕も、つきあいますよ。徹底的なバルクアップで、もっとかっこいい身体を作って、世界に挑みます」
「尚太郎……」
藤は大きく目を見開いて、くしゃっと笑った。
「俺たちも、幸福なマッチョになれそうだな」
「そうですね」
「よっし、じゃあ飯食いに行くか! この近くにKフィットネス直営のレストランがあるから、そこ行こうぜ。メニューは全て高タンパク低脂質だし、マッチョなら29%オフにしてくれるし」
「はい! よぉし、食べるぞ!」
「余力は残しとけよ。そのあとで俺を食べなきゃいけねぇんだから」
「!」
「おい、よろけるな。まっすぐ歩け」
「だって……藤さんが、変なこと言うから……」
「変じゃねぇだろ。付き合ってんだから」
「つっ、」
「突き合ってもいいけど」
「えっ、なんか、今、危険な変換しませんでした?」
あははと笑う藤を片腕で支えて、もう一方の手に持ったバッグで股間を隠し、尚太郎は変な汗をかきながら小股でひょこひょこ歩く。
そんな滑稽な動きですら、彼の大腿部は美しく盛り上がる。ジーンズに包まれても明瞭なフォルムを、藤はうっとりと見下ろして、彼の肩口に頰をこすりつける。
理想のまばゆい輝きに、自分は強く惹きつけられる。けれど、そこへ至る道はとても険しくて、耐えきれず膝を屈してしまった。
もう一度立ち上がれはしたけれど、進むことはためらわれ、その場足踏みを続けていた。
歩き出せたのは、こいつがいたからだ。
弱さを抱えながらも愚直なほどまっすぐ頑張るこいつの姿に、勇気をもらった。こいつは、こいつ自身だけじゃなく、この心も変えてくれた。
こいつとなら、理想への辛い道程も、きっと耐えられる。……もし、辿り着けなくても、こいつと共に歩いた軌跡は、自分の中できらきら輝くだろう。それは、理想より尊い光かもしれない。
心から幸福そうに微笑む藤を見て、尚太郎も口角をゆるめた。そのおかげか股間の強張りもゆるんだ。ほっとして歩調を戻し、ほぼ全体重を傾けてくる藤を抱く腕に力を込める。
聞こえないほど小さくささやいた言葉は、白い息とともに天高く舞い上がった。
【終】
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