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「普通のレベル」ってどのへん? - 『今夜もウェブで会おう』 (第八通目)

📧梶→将軍川

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最近調子どう?

どうも、わたしは「普通」がどんなものなのか、わかってきたんじゃないかと思う。普通っていうのは、自然に周りの人と一緒に居られる状態。「これが普通」って言う線引きはないんだ。

20代前半、1000文字書くのに3日徹夜したこともあったし、身の回りに自分と同じことで悩んでいる人がいなくて、「どこから手をつけていいのかわからない」状態だった。まあ、当時はフルタイムで働きながら、原稿を書いていたけれど、書く仕事一本でフリーランスになるには、ちょっと危なっかしい感じだった。

でも、時を経て「普通に仕事ができる人」っていうのは、能力の水準が高いわけじゃなく、チームの中で自分の役割ができている、という部分にポイントがあるんだと気がついた。それは、一人暮らしを始めて、自分のペースでのんびり暮らしていた時に、だんだんわかってきたことだった。

チームって、こう。

仕事をやり遂げる能力があるスタッフがいて、優先順位を理解しているリーダーがいる。自分は、その中の1人になって役割を果たす。それだけのこと。クォリティを上げることは、仕事ができるようになることと直結しない。仕事ができた時って言うのは、チームの一員として力を合わせてプロジェクトを動かせた時。個人の才能や切れ味は、あくまで、役割を演じるための道具みたいなものなんだ。

そう思ってから、「普通」を追い求める旅は終わった。つまり、チームの水準に達していれば、それで十分なんだ。しっかり幸せに生活できるようにバランスをとりながら、チームの中で役割を果たす。他人と仕事をするって、一般的にはそういうことなんだね(宮崎駿だって、プロデューサーやスタッフがいなかったら、今と同じものは作れないはず)。

まあ、フリーっていうポジションは、合ってると思う。以前より「まあ大丈夫でしょ」と思うことが増えた。飛行機だって、上昇をしているときは目標の高度を設定したり、他の機の位置を確認したりするけれど、同じ高度で水平に進み続ける段階では、「高度をどうしよう」なんて迷わない。まっすぐに進んでいける。そういう感じになった。

これが、「普通」について出したわたしの結論かな。

他人とクォリティを比較するんじゃなく、自分が働いている場所にとって、いいものを出す。それが「普通に仕事をする」方法だね。



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📧将軍川→梶

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なるほど、仕事における「普通」かぁ。

今になって会社にいた頃を振り返ると、ウチは「すごいんだけど使えない奴」扱いなことが多かったかな。当時は自覚がなかったけどね。
どうやったって、良くも悪くも「普通」の基準からはみ出してしまう。チームの皆ができるタスクがうまくこなせない代わりに、自分にしかできないタスクをよく任されていた。
これまで数少ないうまくいった仕事の関係は、自分のこのはみ出しっぷりをうまく扱ってくれていたところだと思う。

唯一円満退社できた会社の元上司が、当時の面談で「最初は将軍川さんにどの仕事を任せていいかわからなくて正直“使えない”って思った。でも、今では将軍川さんにしかできないことをしてくれているおかげで、すごく助かっている」っていっていたっけ。
捨てる神が「馬鹿と鋏は使いよう」だとひらめき、拾う神にクラスチェンジした美談だよね。

さておき、成果物のクオリティにおける「普通」でいえば、ウチは昔からずっと守り続けている基準がある。
自分が出せる最高のものを出すのが、自分が作り出すものに投資・消費する人たちにとっての誠意であり「普通」。
どうしても手を抜かなければいけない場合も「最低」基準を満たしているべきで、それは成果物を目標や競合のそれと並べた時に“追い越せるレベル”あるいは“引けをとらないレベル“。その「最低」に満たないものは全部「スピード重視」「低クオリティ」あるいは「やる気無し」。
けど最近、そんなウチのクオリティに対する「普通」までもが、普通ではないかもしれないことに気付いてしまった。

昨年末、一緒に月一のワークショップを開いてる相方と喧嘩した。

ウチは、ワークショップをより良いものにするため、より参加者を増やすため、競合のクオリティを追い越すため、自分の時間を惜しまず注ぎ込んで頑張っていた。
そんなある日、相方から「ワークショップの作業に時間をとられて自分の作品が作れない。自分は教室の先生なんかになりたかったんじゃない、アーティストなんだ」というメッセージが来た。
それを読んだ時、足元がガラガラ崩れて、頭がフラフラする感覚がした。
「今自分がやっていることは、必要最低限のこと。それをやめろなんていうのは中途半端だ。そんな気持ちで取り組んだら良いものは作れないし、ビジネスはうまくいかない。初動の作業の多さは当たり前。それに音をあげているくらいなら全部やめてしまえ。そうすれば希望通り自分の時間が作れる。」
みたいな内容を、多分これよりキツめの言葉を選んでいた返事を書いた気がする。
そこまで感情的になったのは、相方がウチ基準内の「やる気無し」だったこと、そして、自分の努力を喜んでもらうどころか責められているということが、ただただ悲しかっただけかもしれない。

その後、冷静になってから腹を割って話してみると、相方の「普通」と、ウチの「普通」が違っただけだったみたいだった。
相方は、収入を半々にしているからこそ、作業量もフェアであるべきだと考えていた。もともとカジュアルにワークショップを開きたかっただけなのに、“働きすぎ”のウチと釣り合いをとるために貴重なパートのオフ日を全てワークショップに注ぎ込むハメになってしまったらしい。そのせいで、本業であるはずのアートに時間を割けないことが、フラストレーションになってしまったということだった。

梶さんも知ってると思うけど、別件でこれと全く同じようなことが先月もあったでしょ。
一度あることは二度ある。二度あることは三度ある。次からはなにかを始める前に、できるだけ相手と自分の「普通」を擦り合わせるべきだなって学んだ。実際、「普通」って概念ほど、曖昧で私的なものはないからね。

それじゃあ、またね

将軍川



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🍬おまけ

アイコン_将軍川

ハンガリーはロックダウンになってもお散歩やスポーツはOK。ブダペストの道々がほぼ無人になる時期に滞在できて、ある意味ラッキーだっなと思う将軍川。

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(Photos by 将軍川)


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