『心霊授業』
毎週金曜日の五時限目は学校の外から講師を招いての特別授業だ。中でも僕は第三週の講師である藤原神楽先生が大好きだった。
はっきり言って彼女は僕のタイプそのものだ。歳も僕らとあまり変わらないんじゃないかと思う。それくらい若く見えた。
他の週はおじいちゃんとか、おばあちゃんみたいな人だったので、僕は尚更この日の授業を楽しみにしていた。
それに彼女が教室に入るといつもすごくいい香りがした。なんというか花のような匂いがして、いつかどんな香水を使っているのか聞いてみたいと思っていた。
クラスの女子も僕と同じような事を考えていたらしく、前に神楽先生に聞いたことがあるようだけれど、どうやら教えてはもらえなかったらしい。
午後1時20分、開け放たれた教室の扉から濃紺のワンピースを着た神楽先生がやって来た。ゆったりとしたシルエットのワンピースが窓からの風で先生の肢体に一瞬ぴたりと張り付き、僕をどきりとさせた。
「はーい、お待たせ。授業を始めるわよ」
先生はにこやかにそう言うと、いつものように日直に指示を出した。
「グラスはちゃんと新品だよね? よしよし。じゃあミネラルウォーターを縁ぎりぎりまで入れて。そう、んじゃあ、お塩を──」
そこで日直の高橋が「先生!」と叫んだ。
なあに? と神楽先生は優しく高橋に微笑んだ。僕は内心なんだか悔しい想いをしながら、とりあえず二人のやり取りを見守ることにした。
「あのう、塩が切れてます」
高橋がそう言うと「仕様がないわね」と先生は怒りもせずにもう一人の日直である杉崎さんに「職員室で貰って来てくれるかな?」と再び指示した。
「それじゃあ、高橋くんは杉崎さんが帰ってくる前に窓を閉めて、お線香に火をつけてくれるかな?」
高橋は「はい!」とやけにいい返事をしてから、まず蝋燭に火を灯し、その火を使って線香に火をつけた。数は三本。それは、過去、現在、そして未来を現しているのだと前の授業で習った。
職員室から塩を持ち帰った杉崎さんは手際よく水が一杯に入ったグラスを教室の四隅に置くと、それぞれのグラスに表面張力ぎりぎりまで塩を入れて回った。
「準備も整ったことだし、授業を始めるね。今日はテキストファイルの第35項の甲からね」
神楽先生がそう言うと、皆一斉に学校支給の携帯型端末を開いて画面をスワイプさせた。
「今じゃみんな想像も出来ないでしょうけれど、2000年代初頭、私たちの国の法体系は超常現象を前提としていなかったの」
話を聞いてさっそく男子生徒の一人が質問をした。
「藤原先生、それってつまり、人を呪い殺しても罪に問われなかった、ということですか?」
教室の中が一瞬ざわめいた。
「そういうこと。呪詛、それ自体が不能犯として扱われてたの。術者なり行為者が犯罪の実現、つまり人を呪うことを意図して実行に着手しても、それらの行為から結果の発現は到底不可能だと信じられていたんです」
そうなのだ。当時は霊魂はおろか、見えない存在の多くが科学的に実証されていなかった。分からないものは存在しないかのように、随分と乱暴な物言いをする人たちも少なからず居たというから驚きだ。
「犯罪ばかりではなくて、エンターテイメントの世界でも同じことが言えるわ。1970年代の第一次オカルトブームに始まり、2000年代にはインターネットやSNSの普及によって、より細分化されたジャンルが確立し、人々はそれを楽しみ、時に畏怖していた訳だけれど、霊的倫理観や公序良俗などの観点からすると些か問題があったと言わざるを得ないわ」
でもね、と神楽先生は続けた。
「当時の人たちにコンプライアンス的な問題があったとしても、オカルトだとか、怪談みたいなものを楽しむ心は否定されるべきではない、と私は思うのよ。見えない存在やこの世ならざるもの、またご先祖様を敬う心って、ずっと私たちの心に在るもので、とても大切だって思うからね」
つまり、時が経てば価値観や物の見方も当然変わるけれど、それでも当時の心まで全部ひっくるめて否定はしなくてもいいんじゃないかと、そういう事なのだろうか。
大体、二世代前くらいの人たちの多くが目に見える世界だけを信じて生活していたのが信じられない。僕らはそうじゃない世界にも、日常的に心配りをしているというのに。
人工知能なんかの技術の躍進が、今の僕たちの生活に"見えないものを見る余裕"を与えたとかなんとかいつかニュースでやってたっけ。
「それでは、質問とかないですか?」
神楽先生の声で僕はふと我に返った。
しまった。途中から変な妄想をしていて授業をちゃんと聞いていなかった。
幾人かが質問をし、先生がそれに答える時間が10分程続いた。そして、僕も意を決して手を挙げた。特に質問を用意していた訳では無かったけれど──。
「神楽先生ー!」
「あっ、ごめん。今日はここまでね。だってほら──」
そう言って神楽先生は教壇の上の一際太い一本の線香を指差した。それは授業が始まる少し前から火がつけられていた特別な線香。その線香が今にも燃え尽きようとしていた。
神楽先生は「みんなー、また次回の授業で会いましょーねー」と言って、僕だけに見えるように赤い舌をぺろっと出し、光の粒となってその場から姿を消した。
「ったくもう、いくら古典落語が好きだからって、毎回こうやって突然帰るの止めてくれませんかね」
そう僕は虚空に向かって呟いた。
授業が終わり、グラスを片付けていた杉崎さんが言った。
「やっぱり神楽先生の授業って人気なんだね。ほらグラス4つのうち、3つのお水ほとんど無くなってるよ」
クラスメイトの他にも今日は随分と受講者が多かったようだ。そう思いながら、僕は神楽先生の残り香を胸一杯に吸い込むのだった。
ちなみに言っておくと、お線香は派手な香りのしない自然香のものを使っている。なかには強い香りが苦手な霊もいるからね。
これは案外大切な事だから、みんなも覚えておくといい。
〈了〉
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