『虎魚』
「あら、今朝は早いのね」
「今朝は仕事が少なくて。まあ、といっても魚屋は朝が勝負なんで」
「ごくろうさまだこと」
店の若い女将である。
知り合いの板前が所帯を持って、居抜きで新しく小料理屋を始めたのは、今から半年くらい前のことである。
水洗いした魚と鮪などの太物、栄螺や浅利、それに若布の入った発泡スチロールを幾つか調理場入り口の所定の場所に置き、明日の予約状況が書かれたホワイトボードをそれとなく確認していると、今度は大将が浮かない顔をしてやって来た。
「なあ、あれ、何に見えるよ?」
「さあ、私にはよく──判りませんけど」
「そう? 魚っていうか──女の顔に見えないか? 俺にはコンクリの壁の染みが、どうにも女の顔に見えて仕方ないんだ」
大将は駐車場のコンクリート壁を指し示している。
「魚なら、虎魚や鮋といった根魚に見えなくもないですが、女の顔にはどうも。すみません。やっぱりよく判りませんね。ただ──」
「ただ?」
「ほら、点が三つあると、人の顔に見えるとか言うじゃないですか? 脳味噌がそう認識するように出来てるだとか。きっとそういう類いのもの、じゃないですかね?」
実際は小さな点などではない。そこには確かに二つの目と大きく口を開いた何かの顔があった。
しかし、大将は「そうだよな」と少し安心した表情を見せた。
「それじゃまた、お伺いします」
それだけ言って私が店を後にしようとしていると、再び女将がやって来た。
「今日は、虎魚は入んなかった?」
また、虎魚──。
「すみません。今朝は入荷なし、ですね」
「あら、残念。最近、お客さんによく聞かれるのよ。でもあたし、あの魚、大嫌い。美味しいのは分かるのよ。身は上品な白身だし、味だってしっかりしてるし、肝だってそりゃあ──」
女将の話はその後、見た目がどうも気に食わないだとか、背鰭の毒にやられて、そりゃあ酷く痛んだとか、いつしか愚痴になっていた。
「ほんと、いろいろとすみません。また入ったら、その時は是非」
魚屋とは可笑しなもので、こういった場合、魚の代わりに謝ることがよくある。
「そうするわ。じゃ、またお願いね」
「はい、女将さん」
虎魚もそうだが、今日は魚の入荷が全般に少ないのだ。代わりに薦められるような良い魚も積んできてはいない。
得意先の要りそうな魚には予め目星を付けているから、余程変わったものでなければ何とかなる。が、何時でも魚があると勘違いしている客もそれなりに多く居るから困る。
別に、女将がそうだと言っている訳では、勿論ない。
昨日今日のように雨は降っていないが風が強い、という日は魚の入りが少ない。雨よりも風のせいで船が出せないというのを知らない人間は案外多いのである。要は波が高く、海は荒れるのである。
そういえば、大将がここの土地に来るずっと前、この同じ建物で店を一人切り盛りしていた女が突然居なくなったのも、こんな風の強い、海の荒れた日だった。
大将はよその人間だからそんなことを知る由もない。ないのだが、風の強い日にこの店を訪れると、大将は必ずといっていいほど同じことを訊いてくるのである。
「壁に女の顔が──」
その度に、私は同じことを言う。
「気のせいですよ──」
実のところ、私は、あのコンクリートの壁に浮かぶ魚、いや、女を知っている。
お世辞にも美人ではなかったが、それは心根の美しい人であった。それにひきかえ、今の女将はすらりとして、見た目も綺麗だと評判なのだが、その腹の色といったら──。
夜な夜な妖しく光る虫だの烏賊だのを鱈腹食べたところで、決してその光を外に漏らさない魚の黒黒とした腹の色と同じなのではないかと思う。私の知る限り、昔から女将はそういう女なのである。
大将は純朴な人だから、敢えて私は自分の主観的な感想などを告げたりはしないし、知らなくて済むのなら、知らない方が善いこともあるだろう、と思っている。寧ろ、そのくらいの相手の方が大将にはお似合いなのかもしれない。
女将の腹の色は兎も角、だから私は毎回、魚のことしか分からない、気のせいだ、などと大将に同じ話を聞かせているのである。
だが、私の知るところでは、壁の女は今も尚、行方知れずなのである。
女が自分の店だったものの行く末を心配しているのかと考えたこともあったが、最近、大将が女の別れた旦那によく似てきているような気がしないでもない。
とはいえ、こんな海沿いの小料理屋の壁などではなく、もっと山の奥にでも行けば、山の男たちにたいそう気に入られるのではないだろうか、そう私は今も消えた女の身を案じている。
ただし、虎魚を好んだ娘神よりも、壁の女の方が美しかった場合を想像すると、少しばかり恐ろしくなるのである。
〈了〉
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