『natalis』
そこは『natalis』と云う名の店だった。
カフェほどの解放感はなく、と云って昭和レトロ風の喫茶店と云う訳でもない。
ここに来るのは何度目になるか。私は密かに常連となるべく足しげく通っている。マスターにそう認めてほしいと云う理由なき欲求があった。
街が赤と緑に彩られ、道行く人々の夜を想像してしまいそうなある日、私はいつものように店を訪れた。
私はこの店に郷愁めいたものを感じてならないのだが、記憶の欠片を拾い集めてみてもそんなものは何処にもありはしない。不思議な店だった。
カウンターに座り、浅煎りのコーヒーを注文する。今日はグアテマラ何とかと云うものを頼んだ。私には難しくてメニューの全文が読めない。
程なくして出されたコーヒーに日常の憂さが静かに押し流される。
先ずもって香りがよい。確かにコーヒーの香りには違いないのだが、フルーツや花のそれに近い。そしてすっきりた甘味とほのかな酸味。酸味と云っても「すっぱい」などと雑な表現では形容しがたいものがある。そして舌触りと云う言葉を使いたくなるほどの飲み口。
「お、美味しいです」
「ありがとう」
マスターがにっこりと微笑んだ。
「あと、これもよかったら。サービスです」
そう云って出てきたのは、チョコレートケーキだった。
「ありがとう、マスター。でもどうして?」
「このケーキ、ビュッシュ・ド・ノエルって名前でクリスマスに作られる木を模したケーキなんです」
今日はクリスマス。こんな日に一人でコーヒーを飲む私を気遣ってくれたのだろうか。
「でも、マスター、この店はそういう飾り付けとかしないんですね?」
あるとすれば、カウンターにあるこの小さなポインセチアくらいだが、これは客の誰かが持ってきたものだろう。リボンとカードが添えてある。
「この店『natalis』って云うでしょ。一年中クリスマスみたいな名前だからとくにこの日だからと云って飾り付けとかはしないんですよ」
そうなんですね、とは云ってみたものの、マスターの云ってることが理解できなかった。
でも、その丸太を切ったようなチョコレートケーキは甘く、とても、美味しかった。
私はコーヒーのおかわりをした。
〈了〉
あなたのサポートを心よりお待ちしております。新しい本を買うことができます。よろしくお願いいたします。