『傘を持たない女』
わたしは傘を持ち歩かない。
私物として持ってすらいない。
雨に濡れること自体が嫌いではないし、寧ろ好いている。それでいて、ずぶ濡れになるような空模様には出掛けないと決めているのだから、傘など必要ではなかった。
天候の心配や運ぶ手間、晴日のその所在なさ。傘と云うよりそういった傘に纏わる諸々が好きではないのだ。
しかし、今日は少し違った。
待ち合わせ場所の食料品や雑貨を中心に扱う小型スーパーマーケットへ向かう途中に降りだした、その粒の大きさと量が予想を上回ったのだ。
ここを指定したのはわたし自身だし、雨に降られることも想定内ではあったから特に腹を立てることはない。
ただ──些か以上に湿っただけである。
「すっかり濡れてしまっているな──」
そう言いつつ店から出てきた男の手にはプラスチックの容器に入った飲み物が二つ握られていた。
「どっちにする? 俺はどちらでもいいが」と、わたしはカフェオレとエスプレッソラテと云う、素人には何ともいえない二択を迫られた。
確かにそのような飲み物を所望したことは認めるが、この午前の早いうちから仕事終わりのような髭面をした男がまさか、よりによって、カップ上部のフィルムにストローを突き刺すタイプの商品を買ってくるとは──がぶ飲みタイプか、そうでなくても普通にペットボトルを買ってくるものとばかり思っていた。
男はわたしのような年頃の女はこれらを好んで飲んでいるのだろ、と云わんばかりの顔をしている。
「ありがとう──ございます」
そうは言ったものの、わたしは中身ではなくこの手の容器そのものが総じて苦手なのだ。カップの側面からストローを押し出すなり、剥ぎ取る動作もそうなのだが、何より上から突き刺すのがいけない。
そこから殺意とまでは云わなくとも、忘れかけた生物としての残虐性が仄かに立ち昇る──ような気がする。
同じ家に暮らしていたのは僅か数年。この男がわたしのこだわりなどを知るはずもないのだ。
思いきって、勢いをつけて、刺す。
瞬間、纏わりつく罪悪感。
人に殺意を抱いたことは有難いことに今のところ無いし、どうして、と訊かれてもそうなのだから仕様がない。
皆はそうでないのかしら──。
「それじゃあ、行こうか」と言った男の後に続き車に乗り込んだ。湿気を帯びた肌に車内の空気が冷たすぎる。
「まだ、煙草、吸ってらっしゃるのね」
わたしはカフェオレに口をつけずそのままドリンクホルダーに差し込み、同時に自らを抱きしめた。
「薫さんがわざわざ会いに来たのは──」つまり、其れは何も語らなかった──と云うことなのでしょ? とわたしは尋いた。
薫とは、三条薫。
わたしの兄である。
歳はかなり離れているが、紛れもない実の兄だ。わたしは物心ついた時分から"薫さん"と呼んでいる。
兄さんだとか兄様などと呼ぶこともあるが、それは皮肉を伴った場合に限られていた。しかし、薫さんはそれを皮肉とは受け取らず、どちらかと云えばそう呼ばれることを望んでいる節がある。
加えて、仕事はそれなりに出来るのかも知れないが、こと妹であるわたしに関しては常に鈍感で気が利かない男なのだ。
今になって想えば、わたしが兄を薫さんと呼ぶようになったのは周囲からの邪推を避ける為だったのだが、もはやこの呼称は完全に定着していた。なぜ兄妹でこのように歳が離れているかを詮索されるより、恋人同士にでも間違われた方がまだましだったと云う訳だ。
*
「ねえ、冷房を切っていただけませんか?」少しばかり寒いです、と催促して薫さんは漸くわたしが自身の身体に腕を巻いている理由を悟ったようだ。
「これを見てくれ」と、鞄の内から角2の茶封筒を探りあてると助手席のわたしにそれを渡してきた。最近どう? だとか、そういった事柄を薫さんは一切尋かない。
「この雨に濡れた少女にまた、あのような写真を見せるおつもりなのですか?」
「いけないのか?それにもう──」少女という歳でもないだろう、と云わなくてもよいことを薫さんは云った。
「いけないも何も知らない人が見たら、薫さんは変質者か、だだの変態です」
「どちらもそう違いはないだろうに。まあ、悪品も品の内と云うだろ?」
そんな品の話など誰もしていない。
そもそも、車に乗る男女の細かな様子を気に留める者など極々少数派だと思いたいところだが、わたしは兄に対する精一杯の皮肉を諦め写真を見ることにした。
*
検視台に載せられた、女性の遺体。
霊安室にはきっと線香の煙がくゆっていたのだろう。
次の写真を見る。
女性の肌は木目が細かく美しい。わたしと同じくらい、いや、もう少し若いか。
顔が隠されているのは、わたしへの配慮なのか。それでも胸部と腹部は露になっている。大きな傷、切り開かれた痕跡。しかし、いずれも綺麗なものだった。
冷静に、落ち着いて、切られている──。
「どう思う?」
「薫さんは、もう判っているのでしょ?」
「まあな。ただ確証がほしい。その屍は何も語ってはくれなかった」
そうですか──。
「これはプロの仕業、と云うか"仕事"でしょう。何のプロフェッショナルなのかはさておき、とても綺麗な仕事です」
「内臓の一部が抜き取られている」
「一部とは、恐らくは心臓と肝臓、ですか? 肝臓は全部ではないかも──」
横隔膜は? とわたしが訊くと「それは残っていた」と薫さんは云った。
「内臓を切り取る際にも、他の臓器には傷一つ付けていないでしょう。胃や腸を傷つけでもしたら臭いが移ってしまいますからね」
「と云うことは、やはり──」
「はい、これは食べる為に切り取られています、きっと──」
「それと、もうひとつ──」
「なんだ?」
「眉間に銃創があったりしますか?」
「ある。頭部の状況から空洞現象は起こらなかったようだから、凶器は小火器、なかでも拳銃の類いだろう」
「苦しまずに済んだのなら、よいのですが」
そこまで云って、わたしは窓の外に流れる水滴に目をやった。
「すまなかったな、佐織」
「いいんです。少しでもお役に立てれば。わたしのこの能力はこんなことくらいにしか使えないのですから」
「最後に──」お前でもそうしたか? と薫さんは尋いた。
「ええ。間違いなく──」
勿論それなりの狂った動機と技術と道具が揃った場合にのみだが。
「そうか──」
昼飯でもどうだ、たまには──。と云う、唐突な誘いをわたしは断り代わりに「海が見たいです」と少し我が儘を云った。
「わたしとこんなドライブの真似事をしているんですもの。24時間体制とはいえ、今日は非番なのでしょ?」
「俺はすっかりドライブのつもりだったんだが──」
こんなのをドライブとは云わないし、そんなだから薫さんはいつまで経っても──とは云わずにおいた。
「海までそう遠くはないでしょ?」
「帰りはどうする?」
「駅も近いです。後は歩いて帰ります」
そうか、と薫さんは云い、程なくして海の見える少し高台に車は停まった。
「"閉ざせ"とお前に云っておきながらこれだ。俺を恨むか?」
いいえ。このわたしの異能を認め、許してくださるのはたぶん、薫さんだけです──。
「恨むはずもないでしょう」とわたしは幾分小降りになった車外へ出た。
薫さんはわたしを心配する言葉を一言だけ告げて去って行った。
*
海は思ったより澄んでいた。
顔にあたる雨粒が心地よい。
はふう、と溜め息ともつかない息がこぼれた。
降り始めの雨はよく大気中の塵だか埃だかを含んで汚れていると云うが、今はもう綺麗な水蒸気の塊であると思いたい。もっとも、わたしは無知であるから、調べてみればいろんなものが染み込んでいる可能性はある。
それでも、それはあくまでかつて"汚れていた"のであって"穢れて"などはいない。たまに煙草を吸う薫さんの肺もそうだろう。
一方、わたしはどうだ。
穢れている──。
汚れと云うものの基準や感じ方は、それこそ人それぞれだと想う。
口にするのも憚られるような汚れた液体や個体、別に気体でもいいのだけれど──そんなものを入れた器を人は二度と使いたくはないだろうし、あまつさえ、自分の生活空間に留め置きたくないのではないか。
何故ならそれは、穢れているからだ。
いくら石鹸や洗剤で綺麗に、そして何度も洗おうと決して取れることのない見えない汚れ──それが穢れではないのか。
わたしが雨に打たれるのを好いている理由、それは清浄な雨粒がこの身を禊いでくれることをどこかで期待してのことかもしれない。
わたしは濡れたまま、さほど体を拭きもせず、電車に乗った。乗客たちは、まるでそれを生まれて初めて目にしたように奇異の眼差しを向けてきた。この世の生き物でさえないかのように──。
しかし、そんなものがわたしを苦しめたり、辱しめたりすることはない。わたしの感じる内なる穢れにくらべれはそれはとるに足らない、些末な事象にすぎないのだ。
これから先もわたしが傘を持つことなど、ありはしない──のかもしれない。
電車が駅から出る寸前、ホームの端に赤い傘を持った男を見た。
──薫さん?
何処で用意したのだろう。それに何時からそこにいたのだろう。来るか来ないか判りもしない妹をずっと待っていたとでも云うのか。
気が利なくても、わたしを一番に想い、理解してくれるのは、やはり、あの男だけなのだろう。
いつかあの赤い傘を手渡される日が来たら、一度くらいは持ってやってもいいかもしれない。
もっとも、あの傘がわたしの為に用意されたものだったらの話ではあるのだけれど。
〈第二部につづく〉
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