見出し画像

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」概観レポート - 「交錯するTenetの止揚、ネオンジェネシスによる居場所の再認知」

シン・エヴァンゲリオン劇場版 -概観レポート-

 はじめまして、東京で大学生をしているヨコヤマというものです。自称「映画/建築/音楽ヲタク」を名乗っていて、絶賛ヲタ活中であります。アートもちょっとばかしかじっています。
 そんなぼくの初めての noteです。ヲタクのスタンダードナンバー「シン・エヴァンゲリオン」に関する記事からスタートです。宮崎駿監督作品「君たちはどう生きるか」を鑑賞した今だからこそ語れるものがあります。

--------------------キリトリ--------------------
 「シン・エヴァンゲリオン劇場版」

 2021年公開の庵野秀明氏の集大成と言える映画。宮崎駿氏を刺激するほどの力を持っている作品。繰り返し視聴することで理解度が高まるだけではなく、作品の深みに近づくことができる。この作品に対応する作品が「君たちはどう生きるか」になっており、こちらはシン・宮崎駿による1作目と言っても良いだろう(※個人的見解)。

 この映画は旧劇から新劇まで含めた全エヴァンゲリオン(ヱヴァンゲリヲン)の解答になっている。この世界に対して庵野秀明氏がどのような世界観を持っているのかが描かれていると言っても過言ではない。同じ見方で「君たちはどう生きるか」をみるとおもしろい。こちらはスタジオジブリの世界観である。
 さて、この映画にはいくつもの語り口があるが一つ一つ見ていこう。以下の論の題は「交錯するTenetの止揚、ネオンジェネシスによる居場所の再認知」である。

※※この記事は少なくとも2回程度本作品をご覧になった上で、大まかな設定やストーリー進行、作品内の要素を把握している方向けになっております。ぜひ「シン・エヴァンゲリオン劇場版」をご視聴になってからご覧ください。※※


作品に関して - 前提条件

 まず前提条件の共有だが、庵野秀明作品は総じて説明が足りなすぎる。新劇の前提となる設定はYoutubeの考察動画、3rdインパクトの状況についてはDVD媒体の特典映像で補完する必要がある。また、筆者は精神障害を患ってるのだがその視点から見るとシンジやゲンドウ、アスカなどは精神障害を患っているのがわかる。しかし投薬治療なしで困難を乗り越えていくやや力技なストーリー進行をしている。

シンジによるメタ認知 - 本論1

 本題の1項目目として挙げるのは、碇シンジの心の中で起こったメタ認知である。これが本作品の骨子の一つと言えるだろう。個人的な話になるが私自身が最近同じような経験をしたことから深く共感している部分だ。
 前作Qにてシンジは自身がニアサードインパクトのトリガーでありその後のサードインパクトの原因になっていることを知り、絶望し自己嫌悪に陥る。そんな中リリスに刺さっているロンギヌスとカシウスを抜けば世界を書き換えられると言う希望から、カヲルやアスカ/マリの静止を振り切り槍を抜いてしまう。それによってサードインパクトの続きが始まる。それを止めるためにカヲルは自決し、シンジは自分の父親がわりの大事な人物を失うことになる。それを契機としてシンジは激しい抑うつ状態/無気力状態となる。
 シンジの深い心の傷を癒したのが第3村での旧友や綾波タイプNo.6(黒綾波)、アスカとの交流である。自分の起こしたニアサーやその後のサードインパクトは確かに人々に傷跡を残したが、14年を経て人々はその苦境を人生に昇華し各々の幸せを見つけ、前向きに生きている。それに加えて黒綾波は、自尊心を失い殻に閉じ籠もっていたシンジの心を融解していく。シンジに対する周りの人々の純粋な好意に気づかせてくれたのだ。人から愛されることに気づいたことでシンジの居場所が見つかり、ようやくシンジは自身をメタ認知し困難な状況を止揚することができた。
 (ここからは私自身の話だが、シンジと同じように辛い体験をし自分の殻に閉じこもっていた時期があった。そんな状況から回復したのは2つの要因がある。一つは生きる苦しみを上回る苦しみの体験とそれからの解放、もう一つはシンジと同じく他人からの純粋な好意に触れたことだ。私はこれらによって自分の居場所を再認知することができた。シンジの復活劇をトレースするように、また本作自体に救われたことは言うまでもない。)
 加えてマイナス宇宙内で初号機と13号機が対峙するシーンに関してだ。このシーンの意味はシンジのもう一段階のメタ化を表している。ネブカドネザルの鍵を使い人のことわりを捨て神の次元に達したゲンドウは、マイナス宇宙が精神世界であることを最初から認識していた。しかし「リリンもどき」であるシンジはそのことを知らず、現実世界と同様に物理的解決を図ろうとする。しかしこのシーンではゲンドウとシンジの親子の会話によって、シンジはゴルゴダオブジェクト内(マイナス宇宙)のルールを知り、さらなるメタ認知をすることで本当は自分が父親であるゲンドウと対話したいのだと言うことに気がつくことになる。これはこの作品のテーマである「親子」に関して親子水入らず、と言う重要なシーンになっている。

ゲンドウの救済 - 本論2

 また碇ゲンドウが救済されることも重要な点だ。この物語の構成において父子の関係性が中心的なものになっている。ゲンドウはシンジとは異なり、自分の唯一絶対の居場所として碇ユイがいた。しかしエヴァ初号機の実験中の事故によってユイは初号機に取り込まれ消えてしまった。それからのゲンドウは、ユイと言う自分の唯一の居場所に帰るため、「目的遂行に対し、躊躇のない」冷徹なマシンとなった。
 そんなゲンドウに唯一残ってる人間性は、碇シンジである。ゲンドウはシンジのことをただの目的遂行の道具として割りきれない部分があった。
 ゴルゴダオブジェクト内、マイナス宇宙にてゲンドウとシンジが真正面に対峙することによってことの全容が明らかになる。ASD(自閉症スペクトラム)傾向のあるゲンドウは幼い時から居場所のなさを感じており、そんな折ユイと出会ったのだ。ユイが特別であるとともに、ユイとの間にできたシンジはやはりゲンドウにとって特別な存在であったのだ。そして困難を乗り越え1次元上の精神状態に達したシンジの成長を目の当たりにし驚愕する。それとともに、シンジの中にユイを見出すことで真にゲンドウが救われることとなる。
 そんなゲンドウの愛情は実はカヲルとしてきちんとシンジに注がれていた(渚カヲルはアダムの精神とゲンドウの肉体によって構成されている)。しかしそれは決してゲンドウから直接シンジになされることはなかった。筆者が思うに、父子の関係とはそのようなものなのではないだろうか。父は子に対して生き様で語る、表面的に愛情を注ぐ必要はないし、仮に注がれたとしてそれは父の独りよがりなのだ(カヲルの救済シーンにて「ぼくは君の幸せを誤解していた」とあるように、カヲルは自分の願いをシンジの幸せとして投影していたことがわかる)。子は父に見守られながら自立して成長することができる。

作品の位置づけ - 本論3

 次にこの作品の位置づけである。一言で言うと、この作品は庵野秀明氏の私小説であり同時に高級なSFアート作品である。聖書をバックグラウンドに、白き月と黒き月を起点とした世界の創世を発端として、アダムから生まれた使徒とリリスから生まれた地球上の生物種のあり方を描くことで、「生きるとはどう言うことなのか」を問いかける作品になっている。庵野秀明氏による「君たちはどう生きるか」であると筆者はみなしている。

 また音楽的側面で見てみることでシリーズの中での本作の立ち位置がわかる。特に旧劇と新劇のラストシーン付近の人類の補完に関してだ。旧劇の「Komm, susser Tod」に対応するのが、新劇の「Voyager〜日付のない墓標」である。共通点はともに世界の存在が1次元上に上がることと鷺巣詩郎プロデュースであること。旧劇と新劇とで圧倒的に異なるのは、旧劇ではオリジナル曲であったことに対して、新劇では原曲が松任谷由実の過去作品であり、歌い手が林原めぐみであることだ。
 ここに庵野秀明の今作に対する姿勢が表れている。旧劇の結末ように、世界が全てまっさらになった場所でアスカとシンジが「アダムとイヴ」として新しい世界を創世していくこととは異なる。新劇の結末はエヴァシリーズ全ての解答としてのものである。
 辛くて楽しく、醜くも美しいこの世界の仕組みに関して、一旦全て受け止めた上で全ての大切な人のために世界の前提条件から覆す。そうするために大切な人々が幸せに生きることができる世界をシンジ自身が望む。その上でその創世を実行しようとするが、実は自分(初号機)の中に残置されていたシンジの母であるユイと、シンジによって救済されたゲンドウによってネオンジェネシスが果たさる。結果シンジ自身も救済され、自身の大切な人々とともにエヴァのない新しい世界での人生を歩み出すと言うものだ。
 宇部新川でのシーンでは、シンジのいるホームの向かい側にアスカ、レイ、カヲルがいてシンジとは別の道を歩むことがわかる。一方シンジ(庵野秀明氏)はマリ(庵野モヨコ氏、人生の伴侶)と手を取り合って駅から飛び出していくことで、自分自身の人生を生きる希望が感じられる。

ネオンジェネシス - 本論4

 続いて本作品のネオンジェネシスに関してだ。「君たちはどう生きるか」と比較して見ると、よりはっきり庵野秀明氏の意図が見えてくる(宮崎作品に関する記述は「君たちはどう生きるか」のレビューにて行う予定)。本作品の中で碇シンジ(庵野秀明氏)は、ネオンジェネシス前の世界に関して、前提となるアダムとリリスによる世界の仕組みに全ての原因を見出し、それを覆すことで人々の幸せを実現させると言う解に辿り着いた。
 これは宮崎駿氏の世界観と比較すると、ねじれの位置にある(同じ軸上で語ることはできない、「君たちはどう生きるか」は弁証法的である一方再起的結末であり、ジンテーゼの見出し方に違いがある)と言えるだろう。本作の結論は、ネオンジェネシス前の世界を否定することなく受け止めた上で、新たな世界へ進むと言うものである。単純な弁証法とは異なり、どちらかというと並行移動的だ。

クローン人間 - 補足

 補足として本作におけるクローン人間について述べる。主なクローン人間は式波シリーズの式波・アスカ・ラングレイ、綾波シリーズの綾波レイである。ここに渚カヲルも加えておこう。彼らはネオンジェネシス以前の世界において居場所を確立できずにいた。あくまでゼーレの人類補完計画の歯車の一つに過ぎなかった。
 しかし彼らもまたシンジにとって大切な人々なのである。クローンか否かはシンジにとって問題ではなく、一人の人間としてその幸せを願うに値する存在なのだ。最終的にネオンジェネシスの末、彼らもまた居場所を得る(再認知する)こととなる。純粋な人間とは魂の場所が違うとしながらも、クローン人間もまたリリスの子でありまたはリリスと無関係に人間に等しい一つの存在なのである。

交錯するTenetの止揚 - 総括

 総括として一言述べると、本作品は一言では語り尽くすことのできない、様々なわからなさや矛盾を孕んだ複雑だが深みのある作品であると言うことだ。しかしそのような入り組んだ様相のジンテーゼの一つとして、このような解を導くことができたのは、スタジオカラーの忍耐力と庵野秀明氏の天才的構築力によるものである。
 本作では大きな二項対立として碇ゲンドウのNERVと葛城ミサトのWILLEがある。最終的にシンジはこの2者の枠組みから飛び出し、1次元上のネオンジェネシスと言う解を導いた。自分にとって大切な人々や自分自身の居場所自体を、自分自身の力で作り出した(再認知させた)のだ。「神に屈した補完計画の絶望のリセット」でもなく、「希望のコンティニュー」や「人類の知恵と意思を信じ」るわけでもない。これは全てのエヴァンゲリオンの結末として最も納得のできる答えの一つではないだろうか。

 以上のように本作はエヴァンゲリオンシリーズの集大成であるとともに、庵野秀明監督作品の集大成である。その全容は集大成に相応しい、高次元の解を導くことで見事なストーリーの回収がなされている。本作は高級なSF作品であるとともに高度な論理を内包する至高のアート作品の一つであると言えよう。

(※現状、ここで葛木ミサト、赤木リツコ、加持リョウジ、ゼーレに関する記述は省略している。本作のメインストリームはあくまでシンジとゲンドウ、ユイを取り巻く関係性であり、以上前文4項目に関しては旧劇にて詳細な描写がなされている。しかし加筆する可能性あり。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?