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小説・BL|共犯

1

 もう少しで、日付が変わる。昼間は混雑している高架下の国道も、この時間になると車が少なく、たまにすれ違うヘッドライトがやけに眩しく感じられる。
 助手席に座り外を眺めていると、小走りで横断歩道を渡るスーツの男と、手をつないで歩くカップルが見えた。これからどこへ帰るのか、これからどこへ向かうのか。
「なに考えてるの」
 ふいに、ハンドルを握る高瀬(たかせ)が声をかけてきた。上矢(かみや)は視線を外に向けたまま、小さく「なにも」とだけ答える。
 信号が青に変わり、二人を乗せた車がゆっくりと動き出す。先ほど走っていたスーツの男が、駅の入り口から地下へと下りていくのが見えた。
「高瀬、どこまで行くんだ」
「もう少しだけ」
「そろそろ電車がなくなる」
「……知ってる」

 残業が終わり帰り支度をしていると、まだオフィスに残っていた高瀬から「車で来ているから駅まで送る」と声をかけられた。会社から10分も歩けば駅に着く。はじめは断ろうと思ったが、高瀬の顔を見るとそうもいかなくなった。ひどく、辛そうに見えたせいだ。それから二人で無言のまま地下にある駐車場まで移動し、車に乗り込んだ。
 駐車場を出ると、車は当たり前のように駅とは反対方向に進んだ。運転席を見ると高瀬は相変わらず暗い顔でフロントガラスの向こう側を見つめていた。
「どこに行くんだ」
「少しだけ、付きあってほしい」

 目的地とは逆にハンドルを切った高瀬は「少しだけ」と口にした。あれから1時間以上も走っている。もうすぐ日付が変わり、最終電車が行ってしまう。
 この先のことを考えると暗い気持ちになり、小さなため息が出た。すると「後悔してる?」と高瀬が尋ねた。しかし上矢は返事ができない。こうなってしまう予感は、最初からあったのだ。
 窓ガラスに額をつけ、憂鬱な考えを巡らせていると「上矢は、俺が入社した日のこと覚えてるか」と聞かれた。
「なんだよ、突然」
「俺はよく覚えてる。朝会で挨拶してた時、遅刻した上矢が入ってきただろ。ドアを静かにあけて、こっそり。山門(やまかど)さんに見付からないようにさ」
「……あの人、遅刻に厳しいから」
「あの時はみんな、挨拶してる俺の方を見てたから俺だけが上矢に気づいたんだ。あれは面白かったな――上矢、俺をじっと睨んでさ。“絶対にばらすな”って無言で脅したろ、初対面なのに。変な奴がいるって気になっちゃって、挨拶飛びそうだったよ」高瀬の顔に、少しだけ笑みが浮かんだ。
「悪かったな。でも脅してたわけじゃない。超大手からわざわざウチみたいなのに転職してきた物好きがどんなのか、気になっただけ。目が悪いからよく見てたんだよ、顔を」
「じゃあ、山門さんにバラしてもよかった?」
「ダメに決まってんだろ。あの人が遅刻にうるさいの、よく知ってるだろ」
 無愛想に返すと、ハンドルを握ったまま高瀬がまた少し笑った。
「たしかに。山門さんなら給料も下げかねない。いい弱みを握ったな」
「おい、今さらチクるなよ。この間のボーナスだって減ってたんだし。お前とちがって、俺は――」
 言いかけて、言葉を呑んだ。見ると、高瀬の顔からは先程まで浮かんでいた笑みが消え、硬い表情で前方を見つめている。
 その後、車内は再びしんと静まりかえった。
 オフィス街からただまっすぐに国道をひた走ってきた車は、いつの間にか繁華街を通り過ぎ、さみしげな場所にいた。人影もほとんどない。行く手の左側には暗闇が広がっており、海沿いを走っているらしいことがなんとなくわかる。
 上矢はそこに広がっているであろう海をぼんやりと眺めながら、高瀬とはじめて言葉を交わした時のことを思い出していた。あれは、高瀬がやって来た翌週のことだ。

2

『田中さんって、どっち?』
 定例会議中、同僚の長くて退屈な進捗報告を聞いている時、そう書かれたメモ紙を渡された。他の人間にはわからないように、こっそりと回ってきたそのメモを書いたのは、たまたま右隣に座っていた高瀬だ。盗み見ると、涼しい顔のまま前方を見ている。上矢は小さく咳払いしてから、高瀬にだけわかるように、ホワイトボードの前に立つ二人の男のうち左側の人物を指す。すると高瀬は黙ったまま一度ゆっくりと頷いた。
 その後、順番が回ってきた高瀬は前に立ち「先日、田中さんからご提案いただいた――」と、事もなげに切り出した。
 会議が終わるとすぐに「ありがとう、助かったよ」と高瀬が声をかけてきた。顔には笑みが浮かんでいる。「ひとつ貸しだな」と不機嫌に答えると、少し驚いたような顔をしていた。部署が別だったこともあり、簡単な挨拶を交わすだけの間柄だったので、これが高瀬との初めての会話になった。

 なのに、上矢は高瀬が苦手だった。
 高瀬が前にいた会社は、以前、上矢が採用試験を受けて落ちたことのある大手の広告代理店だ。噂によれば引き抜きだという話だが、わざわざこんな二流の会社に来たのだから、どれだけ良い条件を提示されたのか。上矢には想像もつかない。そんな高瀬の存在は、どうにもコンプレックスを刺激するのだ。
 おまけに高瀬は容姿がいい。背丈は見上げるほどで顔立ちも妙に整っている。最初に見たとき、撮影用のモデルが来ているのかと思ったほどだ。事実、高瀬が入社してからは女性社員が浮ついているのがよくわかった。
 そんな男が側にいると、どんな男だって自分がひどくつまらない存在に感じられるに違いない。自分の卑屈さをよく知る上矢は、高瀬を見ているだけで気が滅入ってくるような気がしていた。
 なのに、その日から高瀬は上矢によく話しかけてくるようになった。すぐに「礼がしたい」とランチに誘われ断ったのに、その後も社内で顔を合わせるたびに親しげに話しかけてくる。同じ部署の同僚からは「お前達、仲良いの?」と不思議がられたほどだ。

 それから半年ほどたったある晩。残業していると背後から「まだ帰らないのか」と声をかけられた。高瀬の声だった。オフィスは照明が半分落とされ、気が付くと二人しか残っていないようだ。
「もう帰るとこ」
「そうか。なら飯食って帰らない? まだだろ」
 椅子に座ったまま振り返り、高瀬の顔をじっと見上げる。いつものように貼り付いている笑顔が鬱陶しく感じられ、上矢は眉をひそめる。
「どうして俺を誘う?」
 強い口調で尋ねると、高瀬はとぼけたように肩をすくめ「ほかに誰もいないから」と答えた。その顔を見ているのも断るのも面倒くさく感じられ、ため息をつきながら「1時間だけなら」と応じると、高瀬は嬉しそうに笑っていた。

 二人で近所の居酒屋に入ると、むっとした暑さと酔っ払い達のわめき声が襲ってきた。金曜日の夜である。終電までまだ時間があることもあり店内は混み合っていた。タイミング良く席を立った客と入れ替わりでカウンター席に座る。
 狭い店内に客がぎっしりと詰め込まれているせいで、座ると高瀬との距離が思いのほか近い。少し動くだけで肩が触れ、シャツごしに感じる肉体の存在に上矢は落ち着かない気分になる。
「上矢と飲むの、はじめてだな」
「忘年会で飲んだろ」
「じゃなくて、二人でさ」
 高瀬からは何度か誘われていたのだが、その度に断っていたので、こうして二人きりになるのははじめてのことだった。
「どうして今日は来てくれたの?」
「断るのが面倒だった」
「……上矢らしいな」そう言って、高瀬は笑う。なにが楽しいのか、上矢にはさっぱりわからない。
 注文したビールがやって来て、形ばかりの乾杯をする。冷凍庫で冷やされた霜だらけのジョッキに口をつけ、冷たいビールを一気に喉に流し込むとやけに旨く感じられた。
 空腹を満たすため、お通しで出された小エビの乗った小さな芋をつまんでいると、高瀬が「なにを頼む? この店は刺身が美味い」と声をかけてきた。気をつかっているのだろう。気配り一つににじみ出る高瀬の人柄のよさが、上矢をまた憂鬱にさせる。

 人付き合いが悪く口数も少ない上矢には、社内で気軽に話せる相手がほとんどいない。しかし、それでいいと思っている。仕事上のコミュニケーションなら問題なくとれているし、それ以上の人間関係を職場には望んでいない。一方で、社交的な高瀬は入社からまだ半年ほどなのに上矢以上に会社になじんでいる。別部署にも関わらず、上矢と同じチームの人間とも飲みにいくことがあるそうだ。
 そんな高瀬が、ことさら自分を誘う理由はなんだろう。もしかすると社内で浮いてる孤独な男を救済しているつもりなのかもしれない。上矢にとってはいい迷惑なのだが。
 考えながら黙々とビールを飲んでいると、「食べないのか?」と聞かれた。
「夜はあまり食べない」
「そうか。じゃあ無理に誘って悪かったかな」
 高瀬は少し困ったように笑って見せた。肩が、また触れる。
「……なぁ。高瀬って怒ることあるの?」
「怒る?」
 相変わらず少年のような笑顔を浮かべてオウム返しする高瀬に、上矢は少し苛立ち始めていた。酔いがまわってきたのかもしれない。
「いつも笑ってるだろ、そうやって。ムカつくことないわけ?」
「あるよ、そりゃ」
「なら、どうして怒らない?」
「なにに?」
「俺に」
「なんで」
 質問の意図がまるでわからないという風に目を丸くしている。その恍け顔に、「俺とこうやって飲んでて楽しい? そんなわけないだろ。俺はあんたとまともに話そうともしないし、態度が悪い」とまくし立てると、なぜか高瀬は吹き出した。
「態度が悪いって……上矢、そんなこと気にしてたの?」
 声が、笑いで震えている。
「気にしてたわけじゃない。客観的に考えてそう思っただけだ」
 不機嫌な上矢の様子に、高瀬はコホンとひとつ咳払いをしてから無理矢理、笑みを引っ込めた。
「態度、悪くないよ。いつも通りの上矢だろ。別に気にならない」
「俺があんたなら、キレてると思うけど」
「……そう思うんだったら、もうちょっと愛想良くしてみれば? 俺はどっちでもいいけど」
「なんでそんなことしなきゃならんのだ。面白くもないのにヘラヘラできるか」
「ほら、笑ってみろよ。営業スマイル、得意だろ」
「仕事じゃあるまいし……」
「いいから、ほら」
 促されて無理に笑顔をつくってみると、今度はアハハと大きな声で笑われた。自分でもこの顔はいただけないな、と思う。頬がひきつり、口は硬直、うまく笑えてない。
「あ~……変な顔」
「あんたがさせたんだろ」
「いやいや……ごめん。だけど上矢、そんなんでよく営業の仕事できるなぁ」
「あんたといるより客といた方が楽だからな」
「そんなこと言うなって。俺と飲んでるときくらい、肩の力、抜いてほしな」
「別に……いつも力んでるってわけじゃない」
 会話を断ち切るようにビールを呷ると、頭がフラついた。やはり今日は少し酔いが早いようだ。
「やっぱり変な奴だな、上矢って」
「あんたの方がよっぽどおかしいよ。俺といたって時間の無駄だろ」
「そんなことない。上矢と飲みたかったんだ」
「なんで」
「なんでって……話してみたかったんだよ、いろいろと。同じ会社にいるのに、今までろくに話したことなかったろ。上矢のこともっと知りたかったし――」
「よし、そうか。いいぞ、わかった。なんでも聞いてくれ」
「え、突然」
「俺のなにが知りたい」と再びまくし立てると、高瀬は目を丸くして「……そういう会話の誘導の仕方ははじめてだな」と驚いた。
 しばらくの間、うーんと唸りながら高瀬が考えこむ仕草を見せた後、「じゃあ、上矢は俺のこと嫌い?」と意外な質問を投げかけてきた。今度は、聞かれた上矢が驚く番である。高瀬の顔はいたって真剣だ。
「なんだそれ、ピュアピュアか。高瀬は中学生なのか?」
「中学生ってこんな会話するかな」
「いや、しないな。中学生でもしない」
 ぶるぶると首を横に振って、大袈裟に否定する。
「なんでも聞いていいんだろ? 教えてくれよ。上矢、会社で俺を避けてるだろ。嫌われてるのかなってずっと気になってたんだ」
 その言葉に、喉の奥で「あぁ」と声が漏れる。やっぱりばれていたかという気持ちと、はたして自分は本当に高瀬のことが嫌いなのだろうか、という疑問が同時に頭に浮かんできた。
 しかし急かすように大きな瞳でのぞき込まれ「……羨ましいんだよ、きっと」と、自分でも驚くような言葉が出てきた。酒の勢いもあったのかもしれない。
「羨ましいって、俺のことが?」
「そうだよ、たぶんね」
 自分の中でまだ形作られていなかった感情が、ゆっくりと言葉になっていく。
「……あんたみたいに器用に生きられたら……楽だろうなって」
「器用? 俺が?」
「……あんたを見てると、自分が揺らぎそうになるんだ。どうしてかな……きっと、俺とは正反対だからだ。だから、あんたがいい奴で仕事のできる奴であればあるほど、俺はどんどん惨めな気持ちになってくる」
 吐き捨てるようにそう言ってから、残っていたビールをぐいっと一気に飲み干し、大きなため息をついた。
「少し疲れてるみたいだ。悪いな、今日は先に帰る」そう言い捨てにして席を立とうとすると、高瀬に腕を掴まれ止められた。手には痛いほど力が込められている。
 驚いて見ると、高瀬は何か言いたげな顔で上矢を見返していたが、やがて振り切るように目を伏せ「俺も帰るよ」と小さな声で呟いた。

 店を出てから、人通りの少ない裏通りを二人で肩を並べて歩いて行く。切りつけるように吹いてくる風に、上矢は首を縮めコートの襟元を手で押さえた。耳の奥には先ほどまでの喧噪の名残がある。街はとても静かだった。
 駅前までの道のりはわずか5分ほど。それが今はずいぶん遠くに感じられる。交互に踏み出す足も重く、逃げ出してしまいたいのか、ここに留まりたいのか。よくわからない不思議な気分だった。
 ようやく地下鉄の駅が見えてきたころ、高瀬がぽつりと「また誘ってもいいか」と尋ねてきた。
 足を止めると高瀬も歩くのをやめ、振り返った。
「……懲りないな、あんた。このままじゃ後味悪いか?」
「そうじゃない」
「それとも、また一緒に飲んで俺の卑屈な恨み言を聞きたい?」
「……楽しかったよ、俺は。上矢と飲めて」
 どこまで善人ぶる気なんだ、この男は――上矢は、だんだんと腹が立ってきた。
「なぁ、どこがどう楽しかったんだ?」
 怒りにまかせ責めるような口調で言うと、声がわずかに震えているのがわかった。
「俺は、あんたと飲んでる間中、山門と飲んだ方がまだマシだと思ってたよ!」
 自分でも嫌になるような言葉を投げつけている。これは八つ当たりだ。なのに固まったままの高瀬の表情は変わらず、その様子にますます苛立ちが募る。
「なんなんだよ、あんた……もしかして、マゾ? ただの物好き? それとも、俺のこと好きなの?」
 嘲笑交じりに言い立てたその時、高瀬の瞳が無防備に揺らいだのを見た。
 動揺し、左右に小さく揺れる瞳。気づいた上矢は一瞬、言葉を失う。
 それはまるで胸の内に隠していた秘密を言い当てられたかのようで――
「……おやすみ」
 問いには答えず、表情を凍らせたまま別れを告げた高瀬は、立ち尽くす上矢を残し駅に向かって歩き出した。
 上矢の耳には、その足音だけが奇妙に大きく響いた。

3

 翌朝、出社時間ぎりぎりで勢いよくオフィスのドアを開けると、コーヒーの香りが鼻をかすめた。目の前に、カップをもった高瀬がいた。
 上矢に気づいて一瞬、驚いたようだったが、その後、硬い表情を崩さず「おはよう」と挨拶してきた。咄嗟のことに「うん」とだけ返すと、高瀬は俯いてわずかに笑い、自席へと戻っていった。
 昨夜はよく眠れなかった。気が付けば、高瀬のことばかり考えていた。
 帰り際に一瞬だけ見せた、あの表情。あれをどうとらえれば良いのか、何度も考えた。高瀬はもしかすると、自分のことが好きなのかもしれない。確証はないが、あの一瞬の瞳の揺らぎにはそう思わせるだけの説得力があった。
 たしかにあの時、高瀬は動揺していた。高瀬がこれまで自分に向けてきた好意的な感情が同僚としてのものか、それともそれ以上の――性愛を含むものなのか。考えると、背中をぞわりと駆け上ってくるものがある。
 もしも高瀬が、もし自分に心を奪われているとしたら。秘密を一人抱え、蛍のように自らの身をじりじりと焦がしているのだとしたら――
 その愚かな(・・・)妄想は驚くほど愉快で、ある種の快感を伴うものだった。

 席に着き、パソコンを立ち上げている間に目だけを動かし探すと、上司と立ち話している高瀬の姿が見えた。距離が離れているため会話の内容までは聞こえなかったが、ブラインドから漏れる光に照らされた顔がよく見える。目の下には薄く隈ができ、少し疲れているようにも見える。口元から綺麗な歯をのぞかせながら相づちを打っている間中、ずっと笑顔だった。
 やがて上司との会話を終えた高瀬が、こちらを見た。視線に気づいたのか、すっと笑顔を隠し上矢を見つめ返す。
 そのまましばらくの間、視線が絡む。
 目眩がしそうだった。

「昨夜は悪かったな」
 話しかけたのは珍しく上矢の方だった。高瀬は壁に設置されたカップ式の自動販売機の前で、コーヒーが注がれるのを待っている。この休憩場は廊下から内側に奥まった小さなスペースにあり、自動販売機と簡素な合皮のベンチが一つ置いてあるだけで、あまり人目につかない。
「謝るなんてらしくないな」
 高瀬は自動販売機の方を向いたまま返事をする。声の調子はいつもと変わりないが、上矢からは背中しか見えず表情をうかがうことができない。
「いや、だって。いろいろ酷いこと言ったろ」
「酷いことって?」
「……マゾとか」
 ふっと息を吐く音が聞こえ、肩が少し揺れた。どうやら苦笑しているらしい。
 背中を向けたまま「上矢は知りたいの? 俺がどう思ってるのか」と聞かれた。ごくりと唾を飲み込む。知りたい、どうしても。
 液体を最後に絞り出す鈍い機械音が響き、コーヒーが出来上がる。腰を屈めてカップを取り出し、ようやく振り返った高瀬がベンチに座る上矢を見下ろした。
 その表情にいつもの笑顔はない。漂ってきたコーヒーの香りのせいか緊張のせいか、胃がきゅっと縮こまった気がした。
 黙ったまま見つめ返すと高瀬は眉根を寄せた。心の内を探りたくて見下ろす目をのぞき込むが、冷めているようにも熱を帯びているようにも見える。
 唇が少し開き、高瀬が話し出そうとしたかに見えた――その時。バタバタと足音が聞こえ「あ、いたいた」と廊下から見知った顔がひょっこり出てきた。同じチームの斉藤だ。
「お、高瀬もいたのか、ちょーどよかった。上矢、山門さんが呼んでるぞ」斉藤が早口で話しかけてきた。
「今?」
「うん、なる早で来いって。山門さんせっかちだからなぁ。あ、高瀬も一緒にな」
「高瀬も?」
「二人で来いってよ。じゃ、伝えたからな」
 斉藤は来た時と同じように、バタバタと慌ただしく帰って行った。
 山門は上矢が所属する営業2部の部長だ。なぜ1部の高瀬まで呼ばれるのだろう。上矢と高瀬は思わず顔を見合わせた。

「どうしてサンコウを1部に渡さなきゃいけないんですかっ!?」と、声を荒げる上矢に驚いたのか、山門は禿げ上がった頭を右手でツルリと撫でた。困っているときの山門のクセである。
「まぁそんなに怒るなよ。社の方針が変わってな。大型案件は1部に集中させて、2部は新規開拓に専念させるってわけで――」
「納得できません!」
「と言われてもなぁ……もう決まったことだし」独り言のように呟いてから、山門はもう一度頭をツルリと撫でた。
 サンコウホームは、東北を中心に展開する住宅メーカーだ。東北、中でも本社を置く宮城での建築数は大手メーカーを抑え第一位の実績をもつ。社にとっては大型のクライアントで、三年前、上矢が初受注してからの取引先である。上矢にとっては初めて契約をとった大口の取引先であり、思い入れもある。そのサンコウホームの案件を、今後すべて営業1部で取り扱うというのが山門の話だった。後任は高瀬である。
「どうしてもと言うなら、俺は――」辞める、という言葉が喉元まで出かかったが、ぐっと飲み込んだ。
「僕も賛成しかねます。サンコウホームは上矢がとってきた案件です」高瀬が割って入ってきた。
「これまで築いてきた信頼関係を簡単に手放すのはよくないのではないでしょうか。サンコウはこのまま上矢が担当するべきです」
「だから、高瀬君に後任を頼みたいんだよ。君なら上手くやってくれるだろ?」
「しかし――」
「まぁそんなわけで、上矢。来週、高瀬君を連れてサンコウさんに引き継ぎの挨拶に行ってくれ。頼んだよ」と言うと、山門は逃げるように席を立った。上矢は何も言わずにじっと山門がいた席を見つめている。
「……上矢」
 慰めようとしたのか。肩に触れてきた高瀬の手を鬱陶しげに払いのけ、上矢は自席に戻った。

4

 仙台へ向かう新幹線は平日の昼間ということもあり、混んでいなかった。上矢は窓際の指定席に座り、外を眺めている。隣の席では高瀬がビジネス雑誌を読んでいるようで、たまにページをめくる小さな音が聞こえてきた。
 先週から、高瀬とはほとんど口をきいていない。同じ社内にいるのに、出張のための事務的な会話すら社内用チャットですませていた。自分でも子供っぽいとは思うが、面と向かって話すと余計なことまで言ってしまいそうで怖かったのだ。
 通り過ぎていく景色を眺めていると、やがてトンネルに入り車窓の向こうがブラックアウトした。耳の奥が気圧の変化でツンとする。
 ふいに、ガラスに反射する高瀬の横顔が目に入った。長い睫の隙間から覗く瞳がゆっくりと動きながら、手元にある雑誌を見ている。その顔から目が離せなかった。
 本当はわかっていた。高瀬に執着しているのは上矢の方だ。自分には手に入れることのできない、たくさんの美しいものを持つこの男を見ていると自分の現実に打ちのめされる。見ていたくない、近寄りたくもない、なのにどうしても目が離せない。それがわかっているから、あまり近づきたくなかった。
「上矢は知りたいの? 俺がどう思ってるのか」高瀬はあの時、そう言った。あの後、なにを言うつもりだったのか。
 知りたい。いや、知ってどうする。
 ガラスに映り込む幻のような男の姿を、敵を見るような恋人を見るような、不思議な気持ちで眺めていると、顔を上げた高瀬がこちらを見た。上矢はその視線を断ち切るように、ゆっくりと目を閉じる。

 サンコウホームの引き継ぎは、夜にまで及んだ。「せっかく仙台まで来てくれたから」とクライアントが気を遣って会食の席を設けてくれたのだ。割烹料理店で仙台牛を使った料理が地酒とともに振る舞われたが、正直、あまり味わう気にもなれず、曖昧な笑みを浮かべもそもそと口に運ぶだけだった。一方の高瀬はすぐに担当者と意気投合したようで、差しつ差されつ話が弾んでいる。その姿を蚊帳の外から眺めていると、三年かけて築いたものが瞬時に奪われていくような気持ちになった。
 その日の晩は、仙台のビジネスホテルに部屋をとっていた。ホテルに到着したのは23時をわずかに過ぎた頃である。
 チェックインする際に高瀬が「シングル2部屋に変えてもらおうか」と尋ねてきたが、「わざわざ追加料金を払ってまで一人部屋にする必要ない」と断った。本当の理由は別にある。今晩、確かめたいことがある。

 7階でエレベーターを下りてから、長い廊下を歩いた一番奥の部屋に二人で入る。8畳ほどの部屋の中央にはベッドが2つあり、壁沿いにテーブルと小さめのテレビが置かれている。二人分の荷物を広げるととたんに窮屈になったが、照明が薄暗いせいか、それほど狭さは気にならなかった。
 高瀬に断って先にシャワーをすませ、一息つく間もなくベッドに潜り込む。今日は疲れた。酒で鈍っている頭のまま意識を失ってしまいたいような気もする。しかし目を閉じても、眠る気にはなれない。部屋は高瀬が使うシャワーの水音に包まれている。

 自分はなにを待っているのか、そしてなにをしなければいけないのか。布団の中で上矢は考える。
 今はとにかく、自分が抱える高瀬への複雑な感情にけりをつけたかった。それが嫉妬なのか憎悪なのか恋情なのか。もう自分ではよくわからなくなっている。ただ、今の上矢の心の大部分が、高瀬への想いで占められていることだけは確かだった。だからどうしても、高瀬の気持ちが知りたい。そして――

 やがて音が止み、高瀬がシャワールームから出てきた。
 目を閉じたまま、耳で動きを探る。衣擦れの音が近づいてきた。すぐ近くに高瀬の気配を感じる。立ち尽くしたままでいるのか、しばらくの間、動く気配がない。なにをしているのかと焦れて、目を開けようかと考えていたとき、柔らかく頬に触れるものがあった。
 耳許で小さく「上矢」と囁かれ、そっと目を開く。高瀬の顔がすぐそばにあった。濡れた髪からしずくが落ち、上矢の頬を流れていく。
 横を向いたまま、身体を動かすことができなかった。高瀬は上矢のベッドに半身を乗り出し、覆い被さるようにして耳許に唇を寄せている。
「ずるいな、上矢は」と言われ、心臓が踊るように鳴った。
「高瀬――」乾ききった喉から掠れ声をようやく絞りだしたその時、唇を奪われた。
 強引に顎を掴まれ、触れた唇の間から舌を差し込まれる。声も出せぬまま、何度も深い口づけが繰り返される。唇を吸われ、舌が絡み、口内が蹂躙されていく感触に熱いものがこみ上げてくるのを自覚した。
「高瀬――高瀬っ!」唇が一瞬、離れた隙に声を上げる。今度はしっかりと高瀬の方に向き直り、意を決して口を開く。
「高瀬……俺――」
 自分でもおかしくなるくらい、声が震えていた。
「結婚、してるんだ」
 いま言わないと手後れになる、そう思った。なのに――
「知ってる」
と表情を変えずに答えた高瀬に、驚きで顔が歪んだ。その隙を突くように、再び唇が重ねられた。

5

 人気のない道をただひたすらに進んでいた車が、ようやくスピードを落として道路脇に寄った。すぐそばには埠頭があるようで、大型のコンテナがブロックのように詰まれている。
 ここは、自分の家からどのくらい離れているのだろう。上矢はコンテナを眺めながら、左手の薬指に触れてみる。手が荒れやすいせいで、よっぽどの時でない限り結婚指輪はつけない。指輪は今、妻が待つ家で眠っている。
 車を停めた高瀬が「なに考えてたの」と聞いてきたので、「あの夜のこと」と素直に答えた。
「……終電、なくなったな」
 言われて時計を確認すると、とっくに0時を過ぎていた。
「近くまで送ってくれよ」
「送らない」
「帰れないよ」
「帰るなよ」
 視線を合わせないまま、会話が続く。
「俺が電話しようか、上矢の家に」
「なんで――」
「俺と飲んでることにすればいい、朝まで」
「……嘘はつきたくない」
「じゃあ、あの日のことは? 言わなきゃ嘘にはならない?」
 責められているのだ、と思う。当然だ、全て自分が悪い。妻のいる身でありながら、高瀬に惹かれ、受け入れてしまった自分が。
 額に手を当て、遠くに流れていくヘッドライトを見送る。あの光の数々は、これからどこへ帰るのか。それともどこかへ向かうのか。
「帰らないと……」
 喉奥から辛さがこみ上げ、泣き出してしまいそうだった。
「もう帰れないよ」
「無理だ……」
「無理じゃない」
「帰らないと……」
 シートの上に放り出していた右手の甲の上に、高瀬の手が重ねられた。
「全部、俺のせいにすればいい」
 その熱がじわりと上矢にも伝わり、身体の芯に疼きを呼ぶ。もうとっくに手後れになっていたのだと、今更になって気がついた。
 上矢は右手を返し、置かれていた高瀬の手を握り返す。掌から、指の腹から、熱が一層激しく上矢を侵食していく。

 そのまま長い間、二人は沈黙を続けた。
 その間、上矢はただ高瀬の手を強く握り返すことしかできずにいた。


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