見出し画像

学校を変える研修、学校が変わる研修

先日、私たちが教職大学院で行なっている「対話型模擬授業検討会(通称、対話検)」を校内研修として取り組もうとしている私立の中高一貫校の校内研修のお手伝いをさせていただいた。

この学校の先生方には、今年の1月に教職大学院の授業の一環として行った「対話検の交流会」に来ていただいたり、数回、有志の皆さんと一緒に「お試し対話検」を行ったりしていたが、いわゆる「全員参加型の研修」として行ったのは今回が初めてだった。

今回は、この研修を考えるまでの道のりと研修を実行していたときの道のりについて、振り返っていこうと思う。

学校関係者はもちろんのこと、「チーム」「研修」について考えることのある学校外の方々にとっても、何か感じるものや気づきがあれば幸いだ。


研修を考えるまでの道のり

たった一回の研修で何ができるのだろうか。

正直、こんな思いを抱えながら、当日の研修の具体的な内容と方法を研修担当の先生と一緒に考えていた。

この思いの背景としては、私の「研修」「学校組織」に対する捉え方が影響しているように思う。

私は、あくまで「学校を変える」研修をしたいとは思っていないし、外部の人が「学校を変える」ことはできないと思っている。(ここでは敢えて「言い切る」形を選ぶ。)

確かに、行政や「カリスマ」と呼ばれる管理職や研究主任の超強力なトップダウンで、制度や仕組みなどのハード面のシステムは変えることはできるのかもしれない。しかし、それだけで本質的に「学校が変わる」とは思えないのが本音である。

(もちろん、学校や地域の危機的な状況や緊急を要する際には、「トップダウン」という手段が必要になることもあるとは思う。)

なぜなら、そもそも当事者である現場の先生方が「変わりたい」と思わないと変われない(変わる必要がない)、「学校を変える」のは外部講師ではなく、あくまで主人公である現場の先生方であると考えているからである。

ハード面だけではなく、ソフト面が変わらないと組織全体は変わらないと考えている。)

だからこそ、今回の研修に際して、研修を外部からサポートする立場になった「私のあり方」を考えさせられた。

学校の「外」の私が学校の「内」で行われる研修に入る、そのことが持つ意味や意義とは何だろうか。

(もちろん、今回は教職大学院で行っている「対話検」の紹介というミッションがあるが、そのことが持つ意味や意義とはなんだろうか…。)

仮に、継続的に研修に携わったり、日々の教育活動に携わったりする形での「外部講師」であれば、「内」も「外」もだんだんとシームレスになっていくこともあるだろう。ただし、私たち院生にとっては、今回は一回きりの勝負という条件付きであった。

ある意味、「皆さん頑張っていますね!!」と自らの権威性(肩書き)を使って、現場の先生方をエンゲージしたり(勇気づけ・励まし)、「昨今の教育界で話題の〇〇とは…」のような演題で「それっぽい」ことを言うことは容易いような気がする。(気がする。。。)

(過激なことを言ってしまっている気もするので、無知の若造の戯言と捉えてくださいませ。笑)

※この記事に関する発言や考えは所属先を代表するものではありません。「私の感想」です。

また、教育関連書籍にも、「学校を変えた校長」「学校を改革した〇〇」などの言葉をやたら多く見かける。

それらが指している「学校を変える」の主語は一体どこまでの人を指しているのだろうか、どんなことを願って、どんな姿を目指して、「学校を変える」のだろうか、そんなことを考えていた。

何のために変わりたいのか?
何のために変わらなければならないのか?

これらの問いをその学校独自の文脈で語り合うことが「学校を変える」「学校が変わる」ためのスタートラインなのではないだろうか。


何を伝えたいか、何を伝えないか。

打ち合わせを経て、当日は以下のような流れで行うこととなった。冒頭に「対話検とは何か?」を簡単に説明し、その後、実際に対話検を体験し、その対話検について対話検方式で振り返るという流れである。

当日のスケジュール。ここには記載していないが、最後に他の対話検グループとの交流も15分程度行った。


今回の研修では、各グループ9名ずつに分かれ、各グループに院生が2人ずつ入った。各グループに2人程度は「対話検」を体験したことがある先生方がいらっしゃったが、グループの半数以上の方は「対話検」を耳にするのも、体験するのも初めてという方々であった。

私個人としては、冒頭10分程度で行う「対話研とは何か?」の話において、どんなことを伝えようか、どんなことは伝えないでおくべきかを考えていた。

とにかく、「黒船」にならない。

そのことを一番に意識して、①なるべく新しい言葉は使わないこと、②図や実際の取り組みの様子の写真を交えて説明することを心がけた。

(以前に使ったスライドの「使い回し」も選択肢としてあったが、得意の「こだわり症」が出てしまい、1から作ってしまった…。笑)

何よりも、何かを劇的に変えるような特効薬ではない、何から何まで新しい方法ではなく、今までにやってきたこと(学習者の視点に立って授業を考えること)に通ずることは意識的に強調した。

(「若造どもが何を言っているんだ」雰囲気を作り出さないためにも…。)

また、あれこれ説明するよりも、「まずやってみよう」という気持ちもあったが、何も説明せずに行うと、「〜した方が良かった」と方法論に偏る従来型の授業検討会のパワーに負けてしまう。そんなことも過去の外部の方を交えた対話検の経験から学んでいた。

だからこそ、「これだけは…」をいかに精選できるかにこだわることにした。

「対話検とは?」の説明の様子。円になって話す「あの感じ」を事前に伝えたい、感じてほしいと思い、対話検の「あの感じ」で「対話検とは?」について話すことにした。


そして、外部で対話検を行った際には、「これって教科の専門性(指導法)は深まるのですか?」と質問されることが多いので、それぞれが目指しているものの違いを事前に示すことにした。(両者はニコイチではない、どちらも大切であるという立場を取った。)

当日のスライド(一部)


もちろん、対話検に関して言いたいこと、話したいことはたくさんあったのだが、今回の研修では「学習者視点になる」ことを伝えてほしいというのが研修の目的だったので、そこに焦点を当ててスライドを作成することにした。

当日のスライド(一部)

何を伝えたいか考えた際に、それこそ「こうすれば上手く行く」という対話検に対する方法論的な話を入れそうになったが、「I messageで語ってくださいね」「純粋に授業を楽しんでくださいね」とだけ伝え、私たちが教職大学院で培ってきた対話のスキルを信じて、あまり多くの情報を詰め込まないようにした。


研修を実行した時の道のり

対話検を終えた一番の感想は、「あれ?意外とうまく行っちゃった。」という感想だ。(「意外と」は失礼かもしれないが…。)

正直、教職大学院で「対話検」を何度もしてきた中で、継続していくうちにだんだんと良くなってきた感覚があったので、対話検を知らない人が半数以上いる中で正直ここまで「良い感じ」にできるとは思わなかった。

「深まり」があったかどうかに関しては微妙ではあったが、「学習者視点になる」「フラットに対話する」という対話検の良さは十分に発揮できていたように思う。

(一緒にペアを組んだ相方とは、「結局、交通整理を行うことになるかもしれないから、準備はしておこう。」と話していたのだが、それも杞憂に終わってしまった。)

当日のグラフィック

結果ありきの議論になってしまうかもしれないが、「うまくいった」要因として以下の3点が考えられる。


肩書きや経験を一旦傍に置いて対話する

一点目は、いわゆる「ベテラン」と呼ばれる経験が豊かな人の発言や振る舞いである。

多くの場合、ベテランの人の発言は「ご意見番」として捉えられがちである。若手が何かを言ったとしても、肩書きや経験によってその話のピリオドが打たれてしまう感覚である。(若手は「そうですね。勉強になります。」とだけ形式的に答えていく感じ。)

今回の検討会では、開始冒頭に「いやー。私、いつも生徒に『3分でやってね。』とか簡単に言っちゃうけど、生徒って大変なんだね。」とあるベテランと思われる先生がポロッと発言した。

そのことで、あの場に肩書き経験がポロッと無くなった気がした。(その後も、横にいらっしゃったベテランと思われるもう1人の先生が「ほんと。久しぶりに先生に指名されないか緊張しちゃった。」と続いていたのも素敵だった。)

よくある「生徒にとっては〜した方が良いと思いました。」と学習者になっているふり視点の発言に対する私の必殺技の「え、〇〇さん(あなた)はどう思ったん?」という切り返しをせずに済んでしまった。


「話す」ためにまずは「聴く」

二点目は、授業者の振る舞い方である。

この授業者の先生は、以前にも何度か対話検に参加してくださっていたこともあって、授業者としての振る舞い方が対話検の意図を感じ取ってくださっていた振る舞い、言葉の選び方だったような気がした。

対話検を深めていく際に、授業者が自分をフォローするための言い訳として、最初に弁論してしまうと、対話検が上手くいかない感覚はあったが、この先生は上手く自分の思ったことや感じたこと、教師から見えていたことは伝えながらも、学習者の意見を聞こうとしてくださった。

また、授業者が行った授業も「完成されたもの」ではなく、「これから挑戦しようと思っていたもの」を持ってきてくださったのもありがたかった。

あくまで対話検は、完成品を批評する場ではなく、試作品をより良くする場である。

だからこそ、授業者としてのwantやthinkは持ちながらも、学習者の声を受け止めようとする授業者のあり方はより良い対話検の場づくりに繋がっていたように感じる。


わからないがわかる存在

三点目は、わからないを素直に言える人の存在である。

どうしても対話がフラットに次々と発散されていくと、それぞれの発言が流れてしまい、聞いている人たちは「たしかに!」「なるほど!」と「わかったつもり」になってしまいがちである。

そんな中、私のグループにいらっしゃったある先生は「わからない」を正直に場に出してもらった。

そのことで、その場にいた我々も「わかったつもり」から一度立ち止まる間ができていたように思う。


あなたのチームではなく、私たちのチーム

こうして、当日に至るまでの道のり、当日の道のりを振り返ってきたが、やはり挑戦するからこそ得るものは大きいと感じる。

結果として、「対話検」が上手くいくチームもあれば、上手くいかなかったチームもあった。

だからこそ、この「結果」だけではなく、対話検で起きた「出来事」「プロセス」は非常に自分たちにとっても新鮮であり、ある意味「リアルさ」を突きつけられる場であった。(だからこそ、新たに気付かされること、改めて感じることに出会うことができる。)

今回の一番の気づきは、一緒に「研修」について考えさせていただいた中で、自分が「研修」において大切にしたいものに気づけたことである。

それは、研修を通して「プレイヤー」を増やしていきたいという想いである。言い換えると、「チーム」を当事者として担う、考える人を増やしたいという想いである。

「誰かのチーム」ではなく、「私たちのチーム」

少しでもそんな想いのある人が集まるチームを創っていきたいんだと気付かされた。

改めて、今回は貴重な機会をいただき、ありがとうございました。

読者の皆さんにとっても何か気づきや発見のある場になっていたら幸いです。

この記事が参加している募集

この経験に学べ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?