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デザインスタジオを法人化したはなし その後

KAIRI EGUCHI DESIGNというデザイン事務所を2008年から13年やってきましたが、このたび14年目になる10/1に晴れてKAIRI EGUCHI STUDIO Inc.として法人化しました。自分が作ったスタジオが成人したようなものだと思い、また誰かの参考にもなるかも知れないというのと、一つの大きな区切りともとらえていますのでこの13年間のことをダイジェストに書いてみました。

想像しながら読んでほしいので、10000字強あるにも関わらずあえて写真は使っていません。気になったタイトルのところだけ読んでいただいて構いませんので、ごゆっくりどうぞ。


1年目 キッチンの片隅から

2008年9月30日に前職を退職し、同年10月1日に自宅のキッチンの片隅に奮発して買った白いUSMのHaller tableに、ノートパソコン、固定電話、父親が独立祝いに買ってくれたA3ノビまで印刷できるエプソンのプリンターでKAIRI EGUCHI DESIGNは創業しました。

若くてやり直せるうちに大きな失敗をするつもりで何かに挑戦しようと思い、当時28歳になる直前に何もわからず開業届を家からすぐの住吉税務署に提出しに行きました。いわゆる「ダメ元」スタートでした。

一年目、二年目は仕事がなく独立前に溜めていた貯金と、実家に預かってもらっていたお金をやりくりしつつ、どうにか仕事を得ないといけないため、電話で飛び込み営業をするも2008年秋はリーマンショック直後ということもあり、僕が仕事をしたいと思っていた町工場や中小企業はデザインどころではなく「こんな大変なときにのんきな電話をかけてくるな」とガチャンと切られたりもしばしばありました。ごもっともだと思いますし、何より誰にも知られていない、特に実績がない人に、不景気のご時世に仕事を出そうという人はなかなかいないので、仕事がない状態というのは自然なことだと今は冷静に考えられます。

当時60社くらい電話営業しましたが、仕事は1件得られただけでした。ただ、1件仕事をくれた会社がいたことは本当にとてもありがたかった。そうした実績のない人に直接取引というリスクを抱えながらも仕事を依頼してくれる。お互い怖かったと思うのですが、仕事はちゃんと納めることができ、また仕事のない日々に戻りました。

友人の事務所の手伝いをしたりとか、3Dデータを作成するだけの仕事を行ってどうにか貯金の減るスピードを緩めることだけを考えて生きていた気がします。28歳、大きな失敗を覚悟したものの、とても怖い日々でした。

2年目 出会うべくして出会いはじめる

2009年にはLG MOBILE DESIGN COMPETITIONというデザインコンペでゴールド賞(2席)を頂くことになり、その賞金(たしか50万円だったと思うのですが)で少し生き延びることができました。授賞式は六本木ヒルズで僕の実生活とはとてもかけ離れて華やかな授賞式でした。LGのコンペはそのあと2010、2011と3年連続ゴールド賞を頂くことになるのですがそのコンペの授賞式で出会えたデザイン仲間とは今も深い親交があります。懐かしい。

記憶が確かであれば六本木にたしか「松ちゃん」という名前の寿司屋があって、そこで同日授賞式をしていた東京ミッドタウンデザインアワードの受賞者たちと合流し、世の中にはすごい人たちがいるんだなと思っていました。

29歳、世の中を知り、すごいデザイナーたちと出会う。ただ日常に戻ると相変わらず仕事がない日々が続いていました。

3年目 落下速度が緩やかになる

そんな2010年のある日、芦屋にあるアイ・キューブというマーケティングの会社の方が、僕がある場所に送っていたポートフォリオを見て連絡を頂き、週に2日そこでデザイナーとして働くことになりました。デザイン事務所時代に大手家電メーカーのコンセプトデザイン担当者であったこともあり、そうした依頼に対してお手伝いすることができたことがとてもありがたく、ちゃんと生活するための報酬をもらえるようになりました。同時にデザイン事務所時代には全く勉強する機会がなかったマーケティングのこともそこで教わり、いろんなことができるようになってきました。

また2010年4月には日本を代表するプロダクトデザイナーの秋田道夫さんに出会い、「あなたは有名になるかも知れないから、そうなっても恥ずかしくないように今を生きてください」と声をかけてくださり、その後講演会のことをブログで書くと秋田さんのブログにも取り上げてもらったりととてもよくしてくださいました。

2011年には、東京に行ったときにはじめて小林幹也さんのスタジオに訪れ、同世代のスターとちゃんと会ってゆっくりお話したこともとても刺激があって、僕の方が一つ年上なのですが幹也さんはもう自分のお店もやっていて、こういう人に自分もなりたいなと思っていました。

このころに「ポートフォリオナイト」というプロのデザイナーと学生がフラットに交流できるイベントを年に数回行っていて、輪が少しずつできてきました。コロナ禍の現在では一層こうしたことが貴重だったんだなと思います。

30歳、徐々に軌道に乗り始め、出会うべくして出会いはじめました。

4年目 僕はイタリアに行った

前職時代に2度イタリアのミラノサローネに視察に訪れ、2008年(独立する半年前)にはじめてサローネサテリテという35歳以下のデザイナーが3回まで展示できる若手の登竜門に足を踏み入れ、自分と同じくらいの世代の人たちがブースを借りて自分たちの作品を展示してどんどんアピールしていました。その時僕は「自分もここに必ず立たなければならない」という想いになり、独立を再度決意(実際には2006年に退職の意思を伝えるも、若手が育つまで待ってくれとその後2年続けて勤務することに)し、当時のボスと相談して9月末に退職することが決定しました。

はじめてサローネを知ったのが2001年くらいのブルータスCasa。それからずっと憧れの地だった。2011年の元旦にサローネ出展を決意。エントリーは夏に行われるため、2011年の夏に審査を受け2012年の春ミラノサローネで一度腕試しをしてみることにしました。

ただ、思ったよりお金がかかってしまい少しずつ溜めていたお金をすべて準備や出展費用につぎ込むも少し足りなくなった矢先に先ほど書いたLGのコンペの賞金でどうにか無借金でできるようになり、また前職時代に知り合ったミラノのインダストリアルデザイナーの吉尾元基(よしおもとき)さんが、僕と通訳のENYAさん、あと同行したオムロンのデザイナーを3人止めて下さりとてもありがたかった。

はじめてのサローネでは僕はわかっていないことが多く、作品を作るだけで見せることについてはあまり力をかけていなかったが、海外の展示会では見せ方はとても重要で、特にブースのデザインやリーフレットのデザインなどはとても力がかかっているものが多く、また扱う素材についてもケミカルな素材はあまり受け入れられず、環境にいいものがやはり評価される傾向にあり、これが10年以上前の話なので日本は10年ほどそうした認識は遅れているものだと思います。

いくつかのメーカーとコンタクトは交わすも、結局商品化には至らなかったですが、外国人の友人もできスペインのRaul Lauriや台湾のSally Linなど今も親交があるデザイナーたちとつながれたことは財産だと思います。

31歳、世界が少し近くなってきました。

5年目 人生ではじめて雇用をする

ミラノサローネ初出展は、英語が話せなかった僕にはとても大きな言語の壁があり、通訳が必要だと思っていたときにさっき書いたEnya Houさんと知り合い、デザイン勉強中だったEnyaさんに同行してもらうことになり、その働きぶりや台湾人らしいポジティブで明るい性格から、一緒に仕事をするとどうなるのだろうとミラノ滞在中に考えていて、帰国する飛行機の中で「うちの事務所に来て仕事しない?」とスカウトし2013年春に雇用をすることになりました。

まだ事務所は安定期に入ってすぐくらいで、雇用自体ができる状態ではなかったですが、こうした優秀な人材はいつでも雇用できるわけではなく、チャンスは少ないため無理してでもスカウトしないといけないなと思いました。Enyaさんは2013年から2018年まで5年間、僕らのスタジオをとても大きくしてくれました。今も時々連絡しますが、話せば相変わらずの明るいトークでこの5年目くらいのまだまだ恐れを知らない頃を思い出させてくれます。

その年はINTERIOR LIFESTYLE TOKYOのTalentsなどにも出展し、仕事も少しずつ増えてきました。台湾にもはじめていくことになり、いつか台湾でも仕事したいなと思ったり。Enyaさんによって世界が広がりはじめました。

32歳、ボスになりました。そんな大したものではありませんでしたが。

6年目 自分の教え子を全力でサポートした


母校の大阪市立デザイン教育研究所という学校で2008年から2017年まで教鞭をとるのですが、この年学校では「有志メンバーを募り、ミラノサローネに出展する」ということを企画し、それに学生が乗ったのですが学校の経営上の問題など様々な事情により白紙撤回となり、ただもうすでにやりかけていた学生がこのままそれをあきらめるのは人生で絶対にいい作用はしないなと思い、「出展まで全力でサポートするので、学校休んででも出展しよう」と伝え、そこから1年半ほど彼らのチームをサポートすることにしました。白紙撤回したタイミングではもうミラノサローネの締め切りが終わっており、急遽展示先をTENT LONDONに変更し、9月のロンドンを目指すことに。

技術的なこと、工場との折衝、写真撮影、輸送手配、言語のトレーニングなど、1年半いろんなことを伝えながら、自分たちも一員となって彼らのサポートをした。単純に楽しかったし、こうした先生と生徒の関係というのはもう2度とない、ずっと忘れないことだと思う。今でも数名の学生とはLINEくらいはするのですが、彼らの今後の発展や多幸な人生をまたサポートできる日が来ると、それはそれでいいなと思ったりします。

展示はとてもよかったですし、何か大切なことは伝えられたような気もします。

33歳、このころから後進の育成に本格的に興味がではじめる。


7年目 再びサローネサテリテへの挑戦

2012年のサテリテでの失敗、2013年のIFFT Talents、2014年のTENT LONDONのサポートなどから、相当時間とお金をかけて準備した2度目のミラノサローネ。

宿泊も大勢になったのでAirBnBで現地の一軒家を借りてまるでミラノ人になった気分で出展。ちゃんと準備した分、価値として返ってくるものも多く、この展示を機にアジアを中心にプロジェクトがいくつかはじまりました。

イタリアの盟友Francesco Fusilloともこのとき出会い、2019年には大阪の僕のギャラリーでネグローニのイベントに作品で参加してもらったり、ミラノのスタジオにもお邪魔したりして、親友ってこういうものだなと思います。早く会いたい一人です。

サテリテに出展したものがある海外サイトに掲載されたとたんに芋づる式にいろんなメディアに掲載されました。結果海外から色々問い合わせをもらうきっかけになりました。帰国前にパリに寄り2012年にコンタクトをもらったPetite Fritureというエディターズブランドのアトリエにも立ち寄りました。サローネに出ることも夢でしたが、海外の仕事をすることも夢でした。

34歳、少しずつ夢が叶い始めました。

8年目 最後のサテリテとフランスからのインターンシップ

2015年のサローネの展示をみて、翌年何人かのヨーロッパの学生デザイナーから連絡をもらい、インターンシップを受け入れることにしました。南フランスのトゥールーズという街に住むClaire Saint-Amandさんを受け売れることにしたのですが、英語が僕は相変わらず話せない状態でEnyaさんに色々お願いしていたこともあり、一度ちゃんとそういう環境を整えてみようということで、社内的な挑戦をしました。

Claireさんはとても優秀で、これまで雇用やインターンで一番Impressiveな感性の持ち主でした。今は航空機関連の会社でデザイナーをしているみたいですが、提案するもの、プロセスの資料などどれもレベルが高く、多くを学ぶことができました。またClaireさんがいる間にも最後のミラノサローネサテリテに出展し、若い人を同行させ、帰りにはアムステルダムに立ち寄ったりしてこういうことができる状況をとてもありがたく思いました。

そのころのスタジオはEnyaさんと僕の二人とインターンシップとアルバイトが2名いましたがそれではもう追いつかない状態になってきていました。シェアオフィスとして4人くらいで借り始めた大阪は福島区にあるメリヤス会館も、自分たちだけになってすぐに手狭になっていきました。

35歳、色々おもしろくなってきました。

9年目 海外に一番たくさん行った1年

この年にはもう一人雇用を増やし、インターンシップも2名、アルバイトも2名いて事務所はとても狭い状態になりました。物理的限界というやつです。

またその年は、ミラノサローネの3か所(サローネサテリテ20周年記念展示、EXPERIMENTAL CREATIONS、WHITE IN THE CITY)での展示や、秋には上海での展示(EAST DESIGN SHOW)などもあり、ほぼ毎月海外に行った気がします。シンガポール、深圳、杭州などにも行き、中国美術学院の産学連携のメンターをやったり、今のコロナの状況では考えられないほどたくさん飛行機に乗り、いろんなところで仕事をすることになりました。

またこのころにCOMPOSITIONというグループ展を年に一回やるようになり、国内外のデザイナーの作品を大阪で見れる機会を作っていきました。

36歳、海外を飛び回るにつれ、ちょっと地元大阪について考えるようになってきました。

10年目 事務所を一棟借りる

9年目にはすでに物理的な限界が来ていたメリヤス会館、大好きな建物でしたが10年目のステップアップと思って現在の大阪瓦屋町の3階建てのオフィスを借りることにしました。実は僕のスタジオでは毎年前年の利益からある予算をデザイン的な投資に回していて、その費用でサローネサテリテに出たり、上海の展示会に出たりしていましたが、この年はその費用を引っ越しにつぎ込むことにしました。

そのころは正社員が2人、バイトが1人だったので3階建ては広すぎましたが、以前からイベントやサロン、トークショーなどを行うときに常に場所問題があり、ギャラリー(多目的なフリースペース)を自分たちで持つことの強みになると思い、また事実東京と比べて大阪にはそうした場所があまりないため作る必要があるなと思って、1階をギャラリー、2階をオフィス、3階を倉庫と工房(現在は1階はギャラリー、2階はスタッフのデスクと倉庫、工房、3階が僕の作業室)とし、盛大にオープニングパーティをしました。

夏の大阪に100人を超える方にお集まりいただき、エアコンはフルで稼働するも追いつかず異常な熱気でケータリングも好きな料理人にお願いしたりと色々と楽しいことが続きました。またその前年あたりから少しずつ地元大阪についてのことを考えるにあたり、こうした拠点を自ら持って運営することが地域にいい影響を与えるようになると信じていました。

37歳、世界を見ながら、同時に地元のための大きな一歩でした。

11年目 別れと出会い 新たな変化

スタッフのEnyaさんが台湾に帰国するために去り、スタジオは正社員が2名、バイトが1名(今考えれば相変わらず所帯として多い気がしますが)。Enyaさんが退職することで事務所の雰囲気が少し変わってしまったりもありましたが、変わりに底抜けに明るいイタリア人のGiulia Lolliさんをインターンシップに招き、Enyaさんが居ない中完全に英語中心のスタジオになりました。

そのころにメビックを通じてローマ在住の演出家の多木陽介さん(アキッレカスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン著者)と出会い、同メビックのプログラムの「プロジェッタツィオーネを学ぶ旅」に参加し、2週間ほどイタリアをデザインを軸に旅をしたりしました。

状況というのはすごいもので、英語を話さなければならない状況が生まれたときにすごい速度で学び、また語学はヒヤリングする時間が習得するのにある程度比例することもこれで実感でき、文法は相変わらずですが一定の会話はできるようになった気がします。実際には通訳抜きで海外に行ったりもしましたし、事務所の強みと表裏一体の語学というコンプレックスは少し埋められたかなと思います。Enyaさんの後任として東京在住のデザイナーでシンガーのMeng Du(もんちゃん)さんに海外プロジェクトのマネージメントを委託することになり、より体制は盤石になった気がします。

38歳、ピンチは変化。チャンスにできるかは自分たち次第だと改めて思いました。

12年目 悪いタイミングで訪れたパンデミック 疾風が吹き荒れる

独立したのは10月なので、僕らのスタジオでの秋はスタートのシーズンです。2019年の秋はいろんなことが順風満帆に進むかに見えましたが、いくつかの契約がその年度に終わることがわかり、このこと自体はどんなプロジェクトもいつかは終わるのでそういうものだと思っていましたが、いざ空いた時間を新規クライアント獲得に動いたり、そのころには実は今回達成することができた法人化の話や、小さな海外拠点を作る話もあったりして、現地を視察に訪れることも計画としてあったさなかに世の中があっという間にコロナパンデミックに引き込まれてしまいました。

2020年の4月、5月は本当に仕事がない状態が続き、立派なスタジオ、社員が2名、外部委託が一人いたので固定費がとても大きく、経営としてはかなり危険な状態となりました。デザイン事務所あるあるだと思いますが、デザイナーはあまり経営的なことを得意としない人が多いと思います。僕もそうですが、普段していることと経営というのはあまり近いところになく、普段使わない頭でそういうことを考えねばならないため、こうした急で大きな課題が生まれたときにすごく考える割に打開策というのはなかなか見つからない状況になるわけです。

当然、法人化や海外視察等の予定はすべてキャンセルされ、ありがたいことに念願だったiFデザイン賞を二つ受賞するも授賞式はいけなくなり、なかなか厳しいシーズンになる予想でした。

未来のことを考えるにあたり、このままスタジオをやめるか継続するかを時間だけはたくさんあったので、ほぼ毎日ジョギングしていた時に考えては忘れながら、最後にはやっぱりやれるだけやってみよう。という結論に至り、独立当初にして以来していなかった営業活動をしました。上記にもある通り、12年前はリーマンショックの最中に、この時はコロナパンデミック真っただ中に営業活動をするという、一見無謀にも見えるのですが、僕は「ピンチはチャンス」とは思っておらず、ピンチは変化の兆しであって、チャンスに変えられるかどうかは自分の行動次第で、疾風に勁草を見るという言葉がありますが、その疾風がやむのを待った時にはもうそのチャンスにもなるかも知れない変化は誰かのものになってしまうので、動くなら今だと思いました。具体的に何をしたかは言いませんが、とにかく自分たちが行動することにより、新たな出会いが生まれ、そこから仕事が生まれ、とても良い兆しが見え始めたのがこのシーズンだったと思います。

そのころに東京のデザイナーを中心にスタートした感染症対策のプロダクトデザインの展示会「NEW NORMAL NEW STANDARD」に声をかけてもらったり、宝塚を中心に阪神エリアで地方創生をデザインで推し進めるデザインファームSASIデザイン(現在は株式会社SASI)が神戸市と主催する「デザイン経営一体化推進事業」に声をかけてもらったりと、これまで自分たちのレベルでは関わることができなかったレベルの人たちと一緒に何かする機会をいただくことが増え、そのもらったチャンスもベストを尽くしたら結果はともあれ見えてくる景色もあるだろうと思い、とにかく動きまくったシーズンでした。

39歳、ダメ元スタート最大のピンチがここで訪れるも、光も少し見えていました。

13年目 疾風の風向きが変わりはじめる

そんなドタバタの中迎えた13年目、兆しは見えるもまだまだ予断を許さない状況で、パンデミックによりイタリア人スタッフは退職し帰国、正社員1名、外部スタッフ1名を抱え、奮闘している状況が続きました。といってもこれまでのシーズンを見てももちろん楽なシーズンはなかったですし、状況が変わっただけという捉え方にまでポジティブになれたことが良かったのだと思います。

社会は第三波、第四波のパンデミックが襲い、対面打ち合わせもままならない状態で、コロナ以前は4割ほどあった海外案件も2020年には0になり、ここで学んだことは、いろんな意味で多様性というのは大切だと思いました。一つのことに頼るのではなく、2策、3策くらいまで練っておかないとこういう事態には耐えられないこともわかり、いろんな考え方を改めることにしました。

NEW NORMAL NEW STANDARDで発表した消毒液スタンド「Submarine」が発売になったり、2020年に時間があったときに商品化した自社商品「Serpentinata」が海外の賞をいくつか受賞したり、NHKや朝日新聞等のマスメディアに出ることもあったりして少しずつ状況が変わったことを実感しました。また春には日本インダストリアルデザイン協会「通称:JIDA」の関西ブロック長に就任しました。JIDAはとても歴史ある組織ですが、その歴史の中で圧倒的に変化を求められている中で、また多くの著名なデザイナーが所属する中での抜擢にはとても考えさせられることも多く、現在もまだその新しい体制づくりや試行錯誤の最中ですが、そっちも兆しは見えつつあります。後は変化を全体が受け入れることができるかどうかになっている気がします。

12年目(2020年)に行った営業活動の甲斐もあり、仕事量はコロナ以前も含め、独立以後過去最高に至り、以前だとそのくらいのボリュームの仕事を僕を含めて最大4人で行っていたことがスタッフのレベルアップもあり、今は2.5人くらいのリソースでできていることもあって、よりしなやかかつ、強い組織になったのではないかと思っています。そういう状況もあって、税理士の先生と相談し、今の状態であれば法人化するのもいいかも知れませんとのアドバイスもいただき、夏前ごろから準備してきて、2021年10月1日に法人化することになりました。

ダメ元スタートのことがこんなに長く続けられていること、僕自身は運がいいというのが正直な気持ちです。もちろん毎回、毎シーズン、ちゃんと計画を立て、できる範囲でそれに向けて投資を行い、全力で活動してきたつもりですが、それでもダメになる時は一瞬で来ますし、これからもそうなる可能性は今までと変わらないと思います。だからこそ、人の縁や地域の縁というのが最後にはしなやかさに変わってくるような気がして、ではそろそろ自分(のチーム)は、逆にそうしたときの誰かの、何かのしなやかな支えになるためにも、育ててくれたこの街に法人化したいと思うようになりました。

キッチンの一角においたテーブルからスタートして13年、イタリア、フランス、中国、台湾、世界中飛び回って、いろんなことを経験させてもらって、そのことはこれからも継続してやっていきたいですが、上記にもある通り、30代後半から心に秘めていた地元にも信頼してほしいという想いも今回の法人化には込められています。大阪をはじめ、関西にはまだまだデザインが必要な企業がたくさんあります。僕らはそうした人たちと良い関係を築き、一緒に挑戦していくために法人化しました。

10000字強ある長い文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。実は法人後最初の仕事は10/1に接種したワクチンの副反応対策で、二日間ゆっくり過ごし、書きかけていた執筆を終えることができたのも、ラッキーだったかも知れません。

このnoteがこれからを生きる誰かの、何かの参考になれば幸いです。


ここまでが2021年に書いたものです。
すこし続きを書きたいと思います。

14年目 追い風に乗って汗をかく

法人1期目は大きく自分たちの環境が変化した1年でした。信頼は数値化できないのでそこにある事実を判断材料にするほかありませんが、雇用を生み出していること、また(必死で借りていますが)立派な事務所を構えていること、それに加えて法人化をしたことは信頼を得るには大きな材料になったと思えるほどに、自分たちの状況は良くなってきました。

いつの時代もリスクを取る人だけが次のドアを開ける権利を得るのだと2008年の自分と変わらずこうした姿勢を維持し続けることができていることに感謝しています。

大きな変化の1つとして、それまで積極的にやってこなかったデザイン経営について、真剣に学び向き合うことになったこと。それはSASIという会社に誘われて一員としてジョインしたことが大きいのですが、昨今ではデザインの力、またデザイナーが答えを導き出すプロセスを体系化した「デザイン思考」またそれを経営に結び付ける「デザイン経営」が日本中で推進されています。

SASIのプロジェクトに参加して多くの業務をこなしていく中で、僕はそれは世の中に必要なことだと思い、また自分がそこに対してどれだけのパフォーマンスを提供できるかも少し興味が出てきました。SASI代表の近藤清人さんに進められた本を読み、それ以外にもデザイン経営と呼ばれるものが書かれている本を読み、SASIを含めた多くの企業がサポートするデザイン経営の事例を読み解き、自分たちもしっかりと実践していくことにしました。それが花開いてきた14年目でした。

その中で出会った本に「面白い地域には面白いデザイナーがいる」という本があります。これは地方の仕事をする人はぜひ読む必要があると思います。埋没しているように見える価値を掘り起こし、解釈し、再表出させて稼働させる。それもデザインの一つの役割ですね。

13年目の項目の最後に地元についての話を僕は書きました。東京に行く話もあったし、海外進出する話もありましたが、結局僕は生まれたこの大阪という街に軸足を置くことにしました。僕たちの仕事の7割以上は大阪の仕事です。大阪はいい意味でも悪い意味でも東京や首都圏の影響や恩恵を受けない場所で、どんなことも自前でどうにかしないといけません。そうした状況を足元で感じながらちゃんとそこに踏み込むことをしなかった自分を少し恥じつつ、改めて「大阪の価値を1mmでも上げる」ことをミッションに置いて現在も活動しています。この心の変化、組織の変化が少しずつ自分たちの状況の変化を生んでいるような気がします。ダイナミズムは外からではなく中から生まれるものだとも思いました。

また14年目に大きく活動を始めたことといえば、[COMPOSITION]という展示会を再開したことです。COMPOSITIONは2016年、2017年と2回だけやって途中で止まっていた展示会なのですが、きっかけがあって進めることになりました。詳細はこの記事を読んでもらえたらうれしいです。

その中で大阪や関西には素晴らしい才能や人柄がたくさんあることに気が付きました。ちゃんと僕はそうしたことが見えていなかったのかも知れません。COMPOSITIONはやればやるほど参加希望者が増えていて、そうした人の受け皿になれているような実感があります。これは大阪を1mmアップするための必要なプロジェクトだなと思うわけです。発掘性もあるし、ここで得たことをそれぞれが自分たちのフィールドで活用してもらえたらと思い、続けることにしました。

14年目、追い風に乗って。組織の状況が良くなり、同時に場の状況を良くするためにさらなる汗をかく決意をした1年でした。

15年目 仲間が増えて、新しい扉を開ける

法人2期目(15年目)は、仕事が増えて僕とスタッフの2人体制では限界が来ていました。すぐにアシスタントを募集することにしたのです。SNSでしか告知していない中でも大勢の応募があり、どの方も素晴らしいのですが条件や話した感じ、本人の状況やビジョンを踏まえて3人を雇用することにしました。

元々アシスタント枠は1枠、多くて2枠でした。枠を増やしてでも雇用したいと思わせる資質がそこにあったので数字を見つつ少し無理をして3名の方に来てもらうことにしました。2013年からスタッフの雇用をしてきたのでそのいい部分も悪い部分も経験した上で、この人なら一緒に働きたいと思ったこと。それは砂漠で人に出会うようなものだと思います。

人の縁はタイミングです。また同じ想いをその瞬間は持っていても手をつながないと周りの状況で簡単に流れてしまうこともあります。それも10年近くの雇用してきた人生で学んできたことです。また人は必ずいつかは自分の元から飛び立っていくことも学びました。いつまでも僕の事務所には居ない、時期が来たら巣から飛び立って冒険へ。これはネガティブな意味ではなくある種のクリエーターの摂理のようなものだと思います。だからアシスタントの条件には「将来独立したい人」と明記をしました。いつまでも居てほしいという気持ちを消すことはできませんが、巣立ちも止められないので、せめて「終わりある純真なプロセス」を辿りたいと思ってのことでした。通常の雇用の考え方とは全然違うだろうと思います。でもそれでいいんです。学生などで雇用したいと直感で思う人も時々います。でも前述のとおり手をつなぎ続けることができなければ気持ちの維持が難しいので結果としてチーム加入に至らず終わってしまうこともあります。

そして僕がその人の何を見たか。まず基礎がしっかりしていること、その上で真摯に学ぶ姿勢があること、チームのために努力するひと、最後に仕事を自分事にできるひと(将来のために)。

話は前職時代に戻り、僕はデザイン事務所に雇用してもらっていました。ただその事務所は月の残業時間が180時間に到達することもしばしば。日々徹夜か終電を選ぶ日々。フルタイムがだいたい180時間働くわけなので1か月で2か月分の労働をしました。そこに6年ほどお世話になったので実際には28歳で独立する頃には単純計算で12年分くらいの経験をしたことになります。

その濃密な仮想12年で気づいたこと、また築いた基礎は山のようにありますがおかげで20代で本来やっておくべきことがほとんどできませんでした。少し欠落した、でもデザインや状況のために汗をかく人生を選んできました。このnoteでもわかるとおりそれはまだ続いています。ダメ元でスタートしたことですが力強く辞めること以外に僕から辞めることもきっとない、そんなところまで来たようにも思います。2020年に少しあきらめかけた時、実はスタッフが「わたしも営業がんばります。だからがんばりましょう」と言ってくれた一言も大きかった。どこかで見てるデザインの神様が「もうちょっとやりなさい」と言ってくれたように思います。秋田道夫さんが2010年に「有名になったときに恥ずかしくないように今を生きなさい」と言ってくれたこともたぶん今の継続性につながっているようにも思います。

そして僕は働き方を見直すことにしました。詳細は省きますが大切なのは本人たちから生まれ出るダイナミズムです。例えば時間で拘束すると、デザインの仕事は難しくなります。本当は永遠にそれを考えていたいくらい面白い仕事ですが、クオリティを追求すると時間がかかりすぎ、また会社としてはそれを強制はできません。経験上強制することで存在するデメリットもよく理解しています。なので限られた時間で最良の結果を出すためにはメンバーの精神の安定性を重視することにしました。これは心理的安全性という内容でアメリカのスタートアップでは実践されていることでもあります。

日本では、仕事や働くということに対して、少しグレーな、ネガティブなイメージが存在します。僕自身はそれをあまり感じたことはありませんでしたが、実際に雇用をしていると前述した悪い側面では「スタジオに来ること自体がネガティブ」に捉えられていたこともあったりしました。雇用主としてはそれほど悲しいことはありませんよね。実際に現在いるメンバーがどう思っているかはわかりません。ただ経営者としては遠くに行くために全力でその小石を拾う必要があると思ったのです。

僕らのスタジオは周囲の同業者から「甘い」と揶揄されることもあるくらい、ホワイトな状態だそうです。実際に前職と比べるとそうかも知れないなと否定はできないのですが、苦労して多くの残業をしたらいい結果が出るのは当然だと思います。だけどその旧態依然とした働き方をこれからも続けるのかというと断じて否定したい。そうじゃなくてもディレクションとマネージメントがしっかりしていれば良い結果は生み出せると思っています。僕たちはそれを結果で実証したい。そんなことを考えて日々メンバーを愛でています。彼らへの期待も、彼らからの期待も感じながら、終わりある純真なプロセスを辿りたいです。

15年目、信頼できる仲間が増えて新しい挑戦をする準備ができてきました。

あと1.5ヵ月くらいで15年目が終わるのですが16年目に向けてあることを準備しています。それはとても新しいことですが、今のメンバーならきっと大丈夫だと思うし、また出会うべくして出会う人もきっといるだろうと思います。それも楽しみにしつつ、あと少しの15年目を楽しみたいと思います。

このnoteは少しずつアップデートしていってもいいなと思っていて、また16年目が終わるころには何があったか継ぎ足していきたいと思います。お読みくださった方、ありがとうございました。


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