現在の社会を見つめて。
※本ブログの内容は2021年5月にアメブロに投稿した記事の内容をすこーしだけいじったものです。とはいえ社会状況とそれをめぐる政府の対応としてはほとんど何も変わっていないので記事の内容もそれなりに妥当するのではないかなあと思います。まあ気楽に読んでいただけると幸いです。
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はじめに
こんにちは。
最近はもっぱら大学の授業の課題をこなしつつ卒論をどう書こうかと悩みながら自分が研究してみたい分野の勉強を進めつつ就職活動もしなければなあと企業の情報を漁ったり公務員試験に向けて勉強したりしています[1]。
自粛続きで勉強以外にすることがないのは別にいいのですが、どうにもやるべきことが複数ある際にどれに対しても集中して取り組むというのが苦手なので、大きな不安とともに生きています。
そうういうわけで(どういうわけでしょうか)、日本で生活する一市民として、コロナ禍における政府や行政当局の一連の施策のだらしなさについて、ちょこちょこまとめていた思いの丈を綴ろうと思います。トピック相互の関連はあまり高いとは言えないものもありますが、以下。
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原発について
上記のブログでも書きましたが、放射線被ばく防護の観点における妥当なモデルとしてLNT(直線閾値なし)モデルが採用されており、これは生涯通算100mSvの被ばくでがん死のリスクが0.5%増加するという直線的な関係(つまり10mSvの被ばくで0.05%、1000mSvの被ばくで5%)を少なくとも放射線被ばく防護の目的においては採用しようというものです。
大事な点は、LNTモデルを妥当なモデルとして採用している以上、放射線被ばく防護の観点からは被曝量がどれだけ小さかろうと「被ばくの身体健康への影響がない」と言い切ることは論理的にできないし、そのように言ってしまうことは極めて不適切であるということです。
しかし残念ながら政府やそれに関係する人物において、そのような不適切な認識のもとで福島の子どもたちの甲状腺スクリーニング検査を批判する声があげられ、さらにあろうことか放射性各種を含んだ汚染水を「処理水」として海洋放出することが閣議決定されてしまいました。
これは本来あってはならないことです。現在自民党所属の衆議院議員の細野豪志氏は、2021年4月10日のツイートで、
「#ゼロリスク を求める社会から卒業する時だ。コントロールできるリスクは許容して、大きなベネフィットを得る。#処理水 の海洋放出も、#ワクチン も、車の運転も、コントロールできるリスクを取らなければ、比較にならない大きいリスクが顕在化する。」
と記述しています[3]。
「比較にならない大きいリスク」の内実が何かまったく明示されていないのでそもそもそれが顕在化することが「コントロールできるリスク」を許容する理由にすらならないですし、あるいはここで細野氏が挙げている「コントロールできるリスク」が本当にコントロールできているのかということに目を向けてみると、そもそも政府(特に原子力政策を推進してきた自民党政権)と東京電力がリスクコントロールできなかった(というより、してこなかった)から東電福島第一原発事故が起きたという事実があります。
「原発事故由来の」汚染水の貯蔵と放出の問題は、本来政府と東電のリスク管理がしっかりしていて原発事故が起こらなければ起こり得なかった問題であって[2]、その意味で貯蔵された汚染水は「リスクコントロールに失敗した結果として生じた新たなリスク」です。そのようなリスクをゼロに近い形で抑える責任は必然的に政府と東電にあるという簡単な話で、そしてそのような「リスクコントロールに失敗したうえで生じた新たなリスク」をワクチンのリスクや自動車事故のリスクと比較することはそもそも適切な議論として成り立ちません。
どういうことかというと、原発事故の発生直後によくみられた、放射線被ばくによるがん死のリスクを喫煙やら野菜不足やらの日常生活上のリスクと並べる不当な議論と同じ形で、そもそも望んでもいないのに押し付けられた原発事故由来の放射線被ばくリスクと、自分の自由な選択(ワクチン接種も自動車運転も喫煙も野菜摂取も強制ではなく自分の選択です)における日常生活上のリスクは、リスクとしての位置づけが全く異なるということです。
このように考えると、政府が放射性核種を含んだ汚染水を「処理水」と称して海洋放出することを決定してしまったことは、大変不当な議論であると言わざるを得ません。さらに悪いことに、政府や政府関係者の一部にはうえで述べたような自ら責任を負うべきリスクを風評被害と称して、我々市民の側に責任を押し付けようとしていますし(この認識は10年間変わっていないようです)、放射性核種の一種であるトリチウムをデフォルメされたキャラ化さえしていました(現在は撤回されています)[4]。
あろうことか政府が市民の生活を破壊したことに対する責任を取ろうともせず、そうして顕在化したリスクを孕んだ技術をいまだに正当化しようとすることは、許されることでしょうか。
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改憲とか
国民投票法改正案が成立しました。
日本で暮らす市民として、そして少なくとも私は日本国民としてしっかりと確認するべき重要な問題は、国民投票法改正を行った先に、主に自民党によって見据えられている憲法改正についてで、これまでずっと批判されてきている通り、自民党の改憲案は、個人の尊厳を出発点として各人が基本的人権の享有主体として「個人として尊重される」ことを明確に規定し、その個人の権利と自由を公共の福祉に反しない、つまり他の個人の基本的人権(これは権利と自由と言い換え可能です)を侵害しない限りで最大限保障することを国家権力に対して要請するという、個人主義に立脚し国家権力を名宛人としている日本国憲法の理念を根本から破壊するものです。
最近何かと話題になっている緊急事態条項についても、そもそも憲法が国家権力を名宛人として国家が個人の人権を蹂躙・侵害することを禁止するという一義的な目的が明確である以上、国家権力が恣意的に個人の基本的人権を制限することができることを正当化するような条項を憲法に明記するなどということ自体、自民党の日本国憲法に関する倒錯した理解(つまり無理解)を露呈しています。
国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という日本国憲法の基本原則から明らかなように、私たち日本で暮らす市民あるいは日本国民は、各人が互いに独立した個人として人権享有主体であることを尊重されることを誰もが認められながら幸福を追求して生きることを保障されているのであり、決して「お国のために」生きているのではありません。
笹沼(2011)は、人権保障を担うことを第一義的な本質とする法制度や国家それ自体が、人権によって正当化されるとします。すなわち、国家は生来自由であった人間を服従させているという事実を他の何者かによって正当化しなければならないことになるわけですが、これは国家自身がつくり出したものでは国家自身は正当化できないからです。その意味で国家は自己正当化のために受動的地位にある被統治者(=市民/国民)自身の、国家が与えたものでない自由を前提としなければならず、まさにそこで前提とされる自由こそが人間の生来の自由、すなわち自然権としての普遍的人権であるということです。それではこの「普遍的人権」はいかにして基礎づけられるのかといえば、それは契約によって「そもそもあったことにしておこう」と約束して事後的に創り出されるフィクションであるとされます。しかしこのフィクションはまさにそれがなければ国家も法も存立し得ないのであり、その意味で人権は法の支配する自由な社会がまさにそれとして成立し機能しつづけるための必要条件として観念されるのです。
つまり自然権としての人権は、「それを保障するための実定法制度や理性という事実を根拠とするのではなく、むしろそれらを活用するための前提であり、自由な社会、法の世界の根拠」であると言えるということです[5]。
当たり前のことあるけどまさにそうであるがゆえに意識しないと見えにくくなっていること、そしてそのような状況を利己的に恣意的に利用しようとする者がいることに敏感にならなければならないと思ったりします。
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COVID関連の感染症対策
私がブログを始めたのも、コロナ禍で時間ができたというのが大きいですが、まさかこれほどまでに政府が無能を晒して不作為を続けるとは思ってもいませんでした。約2年の間政府や行政当局やいわゆる「専門家」が何をしてきたのかといえば、PCR検査抑制論のデマに乗せられ国単位でのPCR検査数は周辺の感染を徹底的に抑制してきた国々[6]と比べても圧倒的に少なく、その分感染者の的確な把捉もできずに感染者数は拡大し、慌てて緊急事態宣言を出して人流の抑制に努めようとしますが(大学などは別として)テレワークも社会的に浸透せず、飲食店や宿泊施設、イベント関連業など、人の動きの抑制が経営の困難とそこで働く人々の生活の困難へと直結するような業種への対応もお願いベースの杜撰なものでした(蔓延防止等重点措置など)。
さらに、検査を抑制して感染者の実数の把捉が低くとどまることを受けて病床は減らされ[7]、自宅待機や自宅療養(という名の自宅放置)を強いられる人々が現れ、医療崩壊が現在進行形で進んでいます。あろうことかこのようなまともな感染症予防原則も防疫施策もとられていない中で、GOTOキャンペーンで人々の移動を加速させ、出入国者における検疫も杜撰な管理体制のもとで海外で変異が確認されたウイルスが市中に流入し拡大することになりました。また、新型コロナウイルスは空気感染するという知見もメデイアでは一向に触れられないまま多くの機関が接触感染と飛沫感染を強調するのみであったことも見逃せません(最近厚労省も認めましたが[8])。
学校は問題なく再開していると言われますが、全国的に小中高でのクラスター発生事例が報告されている中で「問題なく」とは全く言えない状況であり、それだけでなく幼保でのクラスターの事例、大学の部活動・サークルでのクラスター発生事例も続いています。
このような状況を振り返るなら、政府や行政当局がしっかりと日本でくらす市民の暮らしを守ってきたとは到底言えないでしょう。原発や改憲の問題からも、お上の方々は自分たちとその周りの仲間が肥えれば他の市民などどうでもいい養分でしかないという認識しか持ち合わせていないことが明らかだと思います(それでも今からでもこれまでの感染症の脅威を軽視する態度を改めて、きちんと責任を取るべきだと思うのですが)。
多くの批判があった通り、大規模なPCR検査による無症状感染者を含めた感染者の把捉と隔離の徹底、移動や会食などの感染リスクのある行為の制限、及びそのような施策がしっかり機能するための制度・条件整備(保健所の機能強化等)と医療関係者/機関、飲食店・旅館等影響の大きい施設/職員への適切な財政的補償という方向に政府や行政が動かなければならなかったように思います(反実仮想が無為なことはまあわかっていますが)。
台湾やニュージーランドといった島嶼部では、上で挙げたような徹底的な大規模検査と隔離を基本とした防疫施策によって、COVID-19の封じ込めを実現しつつあります。日本も政府と行政当局が強いリーダーシップをとっていれば7〜8月(2021年)、および1〜2月現在(2022年)にかけてのボロボロな状況を経験するまでには至っていなかったでしょう(反実仮想が無為なことはわかっていますが)。
ところで、感染状況の国際比較に関連して、「日本の感染状況の指標は欧米に比べてマシ」という議論がネット上ではいまだに散見されます(実は現在欧米並みです)が、台湾やニュージーランドといった封じ込めに成功した国が存在する以上なんの意味もなしません。
例えば、Aさん、Bさん、Cさんがそれぞれ大学入試共通試験で合計9割、3割、2割の点数を取ったとして、お互いの点数を知っているという状況でBさんが「私はCよりマシ」って言ってても「だから何?」ってなりませんか。
自分がまともにできていないことを自分より出来の悪い者と比べて「あいつよりマシ」などと言ったところで自分の出来の悪さは覆りません。BさんがすべきことはAさんに学ぶことだというのはおそらく誰も異論がないでしょうが、どうして感染症対策になるとそうした考えに至らないのか、実に不思議です。
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五輪
最後に、五輪について述べておきたいと思います。
上に挙げた以前書いた記事でも触れたこととも関連して、だらしない感染症対策の問題だけでなく、五輪憲章の理念に真っ向から反するようなジェンダーに関する問題がこれだけ噴出した中で、オリンピック・パラリンピックを開催するなど心の底から反対でした(私は今の生活環境においてテレビを有していないのでそもそも見る気もないのですが)。でも結局開催してしまいました。その後の感染拡大と医療崩壊の様相はみなさんご存知の通りです。
政府は一刻も早く五輪中止の決定を下すべきだというのは状況に照らして至極当たり前の考えだと思っていますし、そうするべきでした。そしてそれは「よくやった」とかいう賞賛などとは全く別のところで迅速になされるべきでした(そもそもそれ以外の対策のだらしなさも明らかな状況で到底よくやったなどと言えるはずもないのですが)。
市民の生活を国家権力が保障することは、よくやったとかやってないとかそういう価値判断とは関係ないことです。一連の感染症対策は、道路に点字ブロックを敷いたり地下鉄の駅にエレベーターを設置することと同じレベルで当たり前になされなければならないことです[9]。
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長々と色々思うことを書いてきました。なぜ再掲したのかというと、まあタイトルにある通りで、衆院選と最高裁裁判官国民審査が近いですから、少しでもここ2年の間の政治と社会のあり方を概観する手助けになればなあという思いがあります。とはいえ、ポジショントークになっているところもあるかもしれません。しかしまあ、私個人としては、各人が政治的ないし社会的立場を自由に表明すること/できることが民主主義社会の条件だと考えていますから、別に気にしません。こいつはこういうこと考えてんだなあ、くらいの気持ちで読み終えていただけると良いかもしれません。それでは。
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注など
[1] 完全に余談ですが先日の国家総合職教養区分一次試験に落ちました。
[2] 私の立場として「リスク管理さえしっかりしていれば原発は認める」ということを含意しているとも読めてしまいますが、そんなことはありません。そもそも原発事故が起こってしまったこと自体が政府のリスク管理能力の限界を表しているといえます。そういうわけで、私自身は「反原発」の立場をとっています。
[3] https://twitter.com/hosono_54/status/1380886233090383882
[4] https://www.asahi.com/articles/ASP4G74WCP4GUTIL03F.html
[5] 笹沼弘志, 2011, 「人権批判の系譜」 愛敬浩二編. 『講座人権論の再定位 2 人権の主体』法律文化社, 22-52.
[6] 例えば、中国、台湾、ニュージーランド。
[7] 驚くべきことに、税金を使って病床削減を推進しているのが自民党政府や大阪府です。
[8] https://mainichi.jp/articles/20211029/k00/00m/040/294000c
[9] 選択的夫婦別姓の話も同じです。以下noteに書いた記事(手直し前のままです。そのうち修正します)。
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