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<旅日記 OCT.1995> ポーランド

 三重県松阪市にある「寺子屋かめい」さんという塾が発行しているニュースレター『てらこや新聞』に寄稿し連載していただいた記事を中心に、旅のエッセーを載せていきます。『旅日記』というタイトルで連載してもらったものです。連載前に、一回ものとして書いた記事が2つありますので、まずはそれからーー。

旅の面白さは偶然との出会いと人の親切

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I have your book.

 ポーランド北部、冬の到来を告げる寒さに満ち満ちたバルト海沿岸の港湾都市・グダニスクのユースホステル(YH)。チェックインの長い列にへきえきとしていたとき、わたしの後ろに並んでいた男性から声が掛かった。

 「I have your book.」

 「えっ? 本など出版していないのにどういうことだろう」というわたしに差し出されたのは、その約2週間前、ポーランド南部の古都・クラカフのYH(ユースホステル)に置いてきた絵本だった。

読み終えたことだし、長旅の荷物を軽くするため、だれか読んでくれる人に出合ってほしい、美しい絵の日本の絵本だからどこかの国の若者が親しんでくれるに違いないと、忘れたふりをし、YHを出発するとき置き去りにしてきた本だった。

まさか、広いポーランドの南部の中世都市から、北のバルト海に面した造船都市まで、わたしを追い掛けるようについてきているなどとは思ってもみなかった。

クラカフ、ワルシャワ、グダニスクと、私を追いかけてきたmy book.

わたしはクラカフを出たあと、首都ワルシャワで数日過ごしたのち、ワレサ大統領を生んだ造船所のあるグダニスクを訪ねるのも良かろうと、列車で移動を重ねてきた。到着し、YHのチェックインを済ませるのに一人につき15分もかかる、旧・社会主義国名物の入念な作業にうんざりとしていたときのびっくり仰天だった。

その本を持っていたのは、わたしはまったく気づいていなかった人だが、相手はわたしのことを見知っていたタスマニア(オーストラリア)の青年だった。わたしがまだ朝の暗い内にYHの相部屋の片隅にそっとその本を置いて出て行くところを見ていたのだという。その後、広いポーランドの国土をまったく異なるルートの旅をしていたわけであるが、偶然にも、グダニスクのYHのチェックインを待たされたおかげで前と後ろの関係で“再会”したというわけだ。

旅を続けているといろいろな偶然と出合う。そんな偶然の数々が旅の思い出の1ページ、1ページになっていく。

なぜか、いきなり、流暢な日本語

実は、ワルシャワのYHに泊まろうとしたときにはこんなことがあった。チェックインできる時間までは建物にカギがかかっていて外で過ごさなければならなかった。秋の深まった灰色の寒空のもと、どう過ごしていようかと思ったとき見つけたアイリッシュ・パブで、酒には早いがギネスの生麦酒を頼んだときのこと。バーテンダーがわたしのことをチラチラと見るので東洋人が厭なのだろうかと思っていたところ、英語でどこの国から来たのかと聞いてきた。日本人だと答えると、いきなりかれの言葉は流暢な日本語に変わった。

その前の年まで愛知県の一宮市にいて、名古屋モード学園で勉強して、という話に。

わたしは当時、読売新聞で愛知県春日井市や犬山市などの自治体の担当したのを最後に退社したばかりで、一宮市はお隣の街のようなもの。一宮駅の近くで、以前バイトしていたという「バイエルン」という店のマスターによろしく伝えてくれないかと頼まれた。かれのおかげでわたしのワルシャワ滞在は寒空とは違ってずいぶん楽しいものとなり、ちょうど行われていた大統領選挙の話題等々、あれこれ聞かせてもらったり、夜ごと集まってくる若者たちを紹介してくれた。

窮地を救ってくれたグダニスク出身のおばさん

かれの店に大きな荷物を預けて、身軽になってワレサ元大統領の勤務していた造船所の街グダニスクに訪ねることができ、その街では「I have your book」のタスマニアン青年との出会い。ワルシャワに向かう列車ではわたしの切符にポーランド語でいちゃもんをつける車掌に対応を買って出てくれる助っ人おばさんが出現し、助けられた。そのおばさんは、グダニスク出身で、現在はアメリカのデトロイトで旅行業を営んでいるという方で、英語とポーランド語ができる方で、偶然、列車内でわたしの向かい側に座っていた。このおばさんは、ワルシャワに到着後、おいしいケーキ屋さんがあるからと街を案内してくれた。

こうしてわたしのポーランド滞在を彩ってくれた人々。知り合いから知り合いを呼び、わずか数週間の滞在なのに離れがたい思い出をつくってくれた。

私のために悔しがってくれたポーランド青年

夜行列車でベルリンに向かおうと、夕方のうちにワルシャワ中央駅の国際線切符売り場に行き、「午後11時30分発のベルリン行き」と窓口の女性に言うと、そんな列車はないとの返事。そんなはずはないと、時刻表を渡すと、「それは23時30分」だと大声で怒鳴られ、時刻表を投げつけてきた。あまりの声の大きさと本を投げつけられる騒ぎに周囲の客たちは振り返った。

この話を例のアイリッシュ・パブのマスターに話すと、「こちらの鉄道では午後11時半のことを23時半というのだけれど、あまりにひどい。残念だけどこれがまだポーランドの現状なんだ」と、怒りとともに悲しそうな表情を見せた。

別れを告げ、駅に行こうとすると、駅まで送るといって荷物を持って徒歩15分の道を一緒に歩き、乗り込む列車まで入ってきて、わたしが座る席はどこがいいか探してくれた。

見つけてくれたのは、どういうわけか、4人掛けのボックスシートに3人がいる席だった。

「この人たちだったら安心できそうだ。ここへ座ったらいい」。

夜行では睡眠薬入りの飲み物を飲まされ、ごっそり盗難被害に遭うこともあるということだ。それを予防するための場所選びだったと聞いてうれしかった。

外は寒いが心が温かいポーランドの人々

寒い国だったが、市井にいる人々がほんとに温かいポーランドだった。

いまから16年前、1995年のちょうど今頃のことだ。旅の一番の思い出は、偶然と、人との出会いだ。

           「てらこや新聞」80号・2011年 11月 25日付より


本文中に出てくる年数などは、「てらこや新聞」に掲載された日付からさかのぼった表記となります。それを書いた当時の記憶そのままに、これから連載をしていきます。「てらこや新聞」は10年ほど前からいまも連載は続いています。最新号は2019年11月発行のもので、「旅日記」は61回(イングランド南西部)まで進んでいます。noteでは、これを追いかけるように書いていきます。お付き合いいただければ幸いです。

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