3球
窓の外をぼんやり眺めていた。
何がそんなに面白いんだろ。
何処から来て何処へ行くんだろ。
てか、僕たちはどう見えているんだろ。
次第に入り込んでくる情報に反応しなくなって、
コーヒーを握ったまま心を遠くに飛ばした。
前の職場のテレビ画面は何故か、
渋谷のスクランブル交差点のライブ映像だった。
信号が変わる度、アメーバみたいに蠢く雑踏に何故か吸い込まれるように見入っていた。
トロントのビジネス街に渋谷のような人集りは無いけれど。
窓ガラス越しに横切る群衆を眺めながらふと、
ある映画のラストシーンを思い出した。
チリで起きた事実を基に制作された、
2012年公開の『NO』という映画だ。
1988年当時、独裁軍事政権だったピノチェト政府の信任を問う国民投票が行われる事になった。
政権存続なら「Yes」に、
政権交代なら「No」に投じる、
チリの未来を左右する大きな投票だった。
国民投票までの約1ヶ月間に渡るキャンペーンとして、ピノチェト派「Yes」と反ピノチェト派「No」によるテレビCMが1日15分だけ放送される事が決まった。
フリーの広告マンである主人公レネは、
独裁政権反対派の友人からCM制作を頼まれた。
政権に有利な出来レースだと思い、最初は気乗りしなかったが広告マンとしてのプライドが刺激され「No」としてCMを作る事を決めた。
政権賛成派と反対派による、
どちらが国民の世論を多く勝ち取るのかのPR合戦が始まろうとした。
「私、ギャンブル狂だよ」
友人が沈黙を破った。
ギャンブルとは無縁の人生を送ってきた、と勝手に思い込んでいた目の前の彼女に体を向き直すと、
噺家が羽織を脱いでそろそろ、
と言葉に重みを乗せて話し出すあの瞬間みたいに、
彼女はまた昔話を始めた。
今では絶滅危惧種の駄菓子屋には、
駄菓子とは別に数多の魅力があった。
その中でもお祭りでよく見かける"当てくじ"が定番で、当たりを引けば魅力的なおもちゃが手に入った。
子どもの頃の彼女も同様にクジに夢中になっていた。
彼女が通う駄菓子屋では、
1回100円のガチャガチャが置いてあった。
その中から、小さなカギが入った当たりのカプセルを引ければ景品と交換できる、というシステムだ。
彼女はお菓子に目もくれず、限られたお小遣いを全てそれに注ぎ込んだ。
誰もが経験した事があるだろう。
ヤラセかと疑ってしまう程、中々当たりは引けないようになっていて、彼女の所持金はあっという間に消えていく。
欲しいものはいつだって簡単には手に入らない。
社会の厳しさを初めて少年少女たちは知るのだ。
空っぽのカプセルだけが残り、おこづかいを使い果たし彼女は泣きながら駄菓子屋を後にした。
そんな娘を見るに見兼ねた父親は、もう一度彼女を駄菓子屋に連れて行き、カギが取れるまで何度もガチャガチャを引いてあげた。
大人の財力を利用した彼女は、ようやく重みのあるカプセルを引き当てた。
意気揚々とカプセルに入っていたカギをおばちゃんに渡し、景品と交換することが出来た、のも束の間。
自己破産して親を巻き込んでまで手に入れたのは、
おもちゃの手錠だった。
ガチャガチャというギャンブルに溺れ、最後に手にした物は手錠だと言うのだから酷な話だ。
終いには、兄妹喧嘩をする度、
彼女の手首をテーブルの柱にかけるという高度な拷問の道具に変わり、兄に泣かされるのだった。
「こんな事になるならカギなんて取らなきゃ良かったよ」
と話す彼女は今、
手錠をかけたお兄さんが趣味でやっているYouTubeを見ながら笑っている。
主人公レネは、
広告マン仲間のアルベルトやフェルナンドと共にCMを制作をしていた。
彼らが作ったCMは政府の弾圧や迫害に苦しめられた仲間たちを愕然とさせた。
というのも、レネが作ったCMは、
老若男女が楽しそうに歌う姿や、優雅に馬に乗って走るシーンなど、資本主義の象徴のような陽気で明るいCMだったからだ。
レネは、「独裁に苦しむ民衆の心情を無視している」と左派連合のメンバーたちから批判されてしまう。
左派連合のメンバーたちは最初から国民投票を出来レースだと考えており、これまでの独裁を強く批判するだけのドキュメンタリーのようなCMを作ろうとしていた。
レネは違った。
悲惨な過去をドキュメンタリーとして描いたCMは、無駄に民衆を怖がらせ、
変わらない未来を見せつけるだけだと気付いていた。
レネはあくまで国民投票に勝つため、
暗い鬱屈した「独裁の恐怖」ではなく、
明るい「独裁後の未来」を描くCMを作り続けた。
それこそ民衆の心を掴むと信じていたからだ。
そして、国民投票のためのテレビCMの放送が開始した。
「1〜5の数字でパッと浮かんだ数字を選んで下さい」
僕はメンタリストを気取ってみせた。
身振りや言葉を駆使して3を選ぶように誘導するという、どこかで知った心理ゲームを彼女に試したかったのだ。
分かりやすいメッセージは逆効果で、何気ない会話の中にさりげなく幾つもの暗示を忍ばせる。
ポイントは視覚と聴覚に何度も訴えかけ、
3という数字を無意識に脳内に定着させる事だ。
簡単な仕掛けではあるが効果的である。
僕は予め"3"とだけLINEのメッセージを送っておいた。
あとは相手が"3"と答えた最後に、
「あなたが選んだ数字は最初から分かっていました」と告げれば完璧だ。
僕のメンタリズムを目の当たりにした彼女は迷わず「5」を選び、
「3はメガネを外したのび太の目みたいなんだもん」
という回答に僕のメンタルが少しやられて終わった。
目の前にいる1人の気持ちすら誘導出来ない僕は、
大衆の世論を変える事の難しさを感じたのだ。
「Yes」の政府幹部たちは負けるはずがないと高を括り、従来のテレビ番組で流していたピノチェトを賛美するだけのCMしか用意していなかった。
ところが、ユーモアに富んだ「No」のCMを見て焦り始める。
政府側もレネの上司で広告マンのグスマンをCM制作の責任者に任命し、本格的なCM作りを始める。
グスマンは「No」のCMを模倣した形のCMばかりを作り、いたちごっこのような展開になる。
同時に政権幹部に依頼して「No」のメンバーたちを監視させ、妨害工作を何度も行わせる。
しかし、レネの作った明るいCMは確実にチリ国民の心をつかみ、国内世論は拮抗状態となる。
気付けばカフェに来て4時間ほど経っていた。
ブルージェイズ対レッドソックスの野球観戦を控えていた僕らは、そろそろとカフェを出てロジャース・センターに歩いて向かった。
球場に近づくにつれユニフォーム姿の地元ファンたちが目立っていく。僕らもそれに混じるように彼女が持参してくれたユニフォームを纏い、球場へと進む。
チームカラーの青と白が球場を埋め尽くし、
試合開始時間にはほぼ満席になった。
4連敗中のブルージェイズがワイルドカードとしてプレーオフに出場できるかどうかの今後に関わる大事な試合だった。
さっきまでの雰囲気とは打って変わって彼女は真剣な表情でグラウンドを見つめている。
ワイルドカードとかよく分からないシステムはさておき、今日の彼女の機嫌のためにも勝って欲しいと切に願った。
国際的な注目が集まる中、国民投票が実施された。
「No」陣営は独自に開票を進めるが、途中で陣営事務所が停電してしまい、さらに事務所の前には陸軍と警察の部隊が集結していた。
ピノチェトが選挙結果を反故にする気ではないかと騒ぎ出すメンバーたちだった。
そして、国営放送が投票結果の速報を伝える。
3回裏、ブルージェイズのゲレーロによるソロホームランから試合が動き出した。
それからブルージェイズの攻撃が続き、満塁と絶好のチャンスがやってくる。ブルージェイズファンたちの期待感とは裏腹に、僕は相手ピッチャーと自分を重ねて見てしまっていた。段々と彼のプレッシャーが自分に伝染するのが分かった。
2ストライク3ボールと追い込まれていく内に、静けさと緊張感が漂う球場に押しつぶされそうになる。
案の定と言っていいのか、ブルージェイズは四球の押し出しもあって2点を追加し、大量追加点とまではいかなかったがこの回で3点が入った。
そのまま両チーム得点は無く、迎えた9回の表。
レッドソックスの最後の打者は奇しくも吉田正尚だった。
彼を抑えれば勝利という同じ日本人として複雑な場面に、余計な期待が込み上がる。
そんな思いも実らず、吉田は三振に終わり、
3-0でブルージェイズは勝利した。
試合終了と同時にチラッと彼女の反応を見ると、
興奮して喜ぶわけでもなく冷静に「よし」とチームを称えて勝利を噛み締めていた。
国営放送が「No」の優勢を伝え始め、次第に陸軍と警察の部隊も撤退を始める。
さらに、軍事政権幹部のマテイ空軍司令官が「国民投票は『No』の勝利」と断言したことで、ピノチェト政権の敗北が確実となった。
独裁の終焉を祝う「No」のメンバーと国民の姿を尻目に、レネは息子のシモンとともに事務所を後にした。
町中「No」の勝利を喜ぶ民衆たちで溢れかえっている。
歌って喜ぶ人、酒を酌み交わす人、踊り狂う人。
歓喜の群衆を全身で感じながら、
レネは息子と共に去って行くのだった。
楽器を鳴らし歌う人、肩を抱き合う人、今日の勝利を喜ぶ群衆の中に僕らもいた。
蠢く青と白が夜のダウンタウンへと続き、僕たちを祝福するかのように心地良い風が流れる。
花火大会の帰りみたいな充足感と寂しさが混在した雰囲気の中にいるようで、妙に懐かしく感じた。
長い1日にした会話の記憶は断片的で、
僕が彼女に送った"3"というメッセージだけが宙に浮かんでいた。
信号待ちをしている時、
ふとポケットに何かが入っている事に気づいた。
僕は手を突っ込んで正体を探る。
見覚えのあるカギだった。
「そうだ、今日自転車で来たんだった」
信号が青に変わり、歩行者が渡り始める。
立ち止まったままの僕にちょっと先を歩く彼女が振り返える。
「どした?」
「夜風が気持ち良いからさ」
今日はこのまま歩いて帰ることにしよう。
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