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日本語で異世界ファンタジーを書くことの不可能性について。

 このポストを読んで、ちょっと笑いました。

 まあ、こういうことっていくらでもありえますよね。

 そもそも現代日本語の語彙は大元をたどると中国やインドから来ているものが数多くあるので、中華概念や仏教用語を排除することはきわめてむずかしい。

 昔、栗本薫さんが『グイン・サーガ』に「南無三!」という表現を出すことの是非について語っていたことを思い出したりします。

 この言葉は「南無三宝」という仏教の言葉から来ている表現なんですよね。

 突きつめるとこういうことは無数にありえるはずで、究極的には「日本語で異世界を描くことは可能か」という問題になるでしょう。で、その答えは「不可能である」ということにしかならないはずです。

 というか、ほんとうはどのようなボキャブラリーを持った言語であっても真なる異世界を描くことは不可能であるということかもしれません。

 その意味で、この手の「異世界警察」的な話は不毛ですよね。ある程度、それらしく表面が糊塗されていたら、それ以上の野暮なツッコミはあまり入れるべきではないのではないでしょうか。

 もっというなら、そもそもいわゆる「なろう系」の異世界はご都合主義のカタマリみたいなものなので、言葉だけリアリティを追及しても意味がないだろうと思えます。

 「いや、そんなご都合主義に陥らないようもっとリアルを追求しろよ」と考える人もいるかもしれませんが、それも結局は程度問題なんですよね。

 だれも「ほんとうの異世界」なんて見たことがないわけですし、仮にどこまでもツッコミの余地なく物語世界を構築できたとしても、それが面白いかどうかはまたべつのことですから。

 そういうわけで、ぼくはこの問題に関してはただ何となく「それっぽい雰囲気」だけ出ていればそれで良いじゃんという立場を取るのですが、しかし、一方でこの「それっぽい雰囲気」というのがむずかしいこともたしか。

 まず、日本語の語彙は日本の情景を表現するために生み出されたものですから、どうしても異国や異世界について描き出すためには言葉が足りないところがあるのです。

 あたりまえといえばあたりまえの話ですが、日本語で情景を描写していると何となく日本っぽい雰囲気が出る。なかなかほんとうにエキゾティックな感じにならないわけです。

 これはファンタジーを書く上で避けられない問題であるのかもしれません。だからラテンアメリカのマジック・リアリズム文学とか、翻訳するのはそうとう大変でしょう。

 嫋やかな四季を持つ日本の言葉はどうしようもなくある種の繊細さを孕んでいて、もっと武骨で骨太な世界を表現することには向いていないような気もします。

 まあ、そんなことまで考えて「小説家になろう風ファンタジー」を書いている人は少ないだろうとは思いますが……。

 それでも、個人的にはどうせファンタジーなんだからと開き直るのではなく、なるべく「それっぽい」言葉を追求したいところです。

 タニス・リーとかエリザベス・ハンドのような優麗な美文とはいかなくても、多少なりとも「それっぽい」文章を紡ぎたい。

 ここら辺、どうしても生まれ持った文才やら感性の問題になってしまうので、努力でどうにかなることではない気もするのですが、まあ、それでも頑張るしかないかなと。

 もっとたくさん「それっぽい」ファンタジーを読みたいなあと思うのですが、最近はそういうの流行らないのかなあ。ダンセイニとかスミスの小説、大好きなんですけどねえ。なろう小説も好きだけれどさ。

 まあ、頑張って小説を書こ。日本語の限界以前に哀しいほど文章力がないというカベに突き当たっても、ぼくはぼくなりに「それっぽさ」を追求するのだ! そう――だれのためでもなく、自分自身の、かぎりなく神聖な自己満足のために。

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