村松伸さんに出会う
家と研究室の往復という味気ない日々にこの上ない充実感を覚える今日この頃。
そんな日々にスパイスのような人が現れたので記録する。(笑)
僕の所属する研究室の系譜には偉大な方々がいらっしゃる。(自慢)
有名な人で言えば例えばこの方。↓↓
この方、と言って建築物を載せましたが、ご存知でしょうか?
これは滋賀県近江八幡にある「ラコリーナ近江八幡」という建築物です。
この建築物を設計したのが、緑と田園的風景の魅力に呼応する建築を設計することで有名な、藤森照信。
実はこの方今でこそ田園的な建築の創造主として有名ですが、建築史家としては建築の看板の研究をなさっていたり明治の東京計画という研究をしたり、元は結構都市的なのです。
少し話が脱線しましたが僕の所属する林研究室の系譜がこちら。
建築の中でも歴史(建築史)の研究室で、さっき紹介した藤森照信は今のボスの2代前、ということになる。(なので僕はよそよそしく「藤森照信」とか言わず「藤森さん」と呼ぶべきなのだ)
今日は藤森さんの次代、即ち林さんの先代である村松伸さんが研究室に現れた。
こちらの方である。
普段はカエルのお面をつけていらっしゃるユニークなお方。
今日はお面をお忘れになったそうな。
素顔は結構藤本壮介似である。
新修士一年としてご挨拶させてもらって最初に言われたのが「(学問的な専門として)何してるの?」だった。
林研究室では先生のことを「〇〇先生」と呼ばない。それはこの村松伸さんの代から引き継がれている文化である。単純に対等な立場で議論を行えるからだ。その文化を作った村松さんは僕のことを学生としてはみていなかった。一人間としての対等な立場で話をしている。
身構えると同時に自分の中でまだ学生身分であることへの甘えに気づかされる。
「どうも、林憲吾の父です。(なわけない)」
「どうも、村松貞次郎です。(尚先代・村松貞次郎は村松伸さんとの血縁なし)」
次に出た村松さんのジョークで溶きほぐされてしまった(笑)
こういうユーモラスなところは林さんに似ている。
というかユーモアは林研究室の合格条件だった気がする。(あれ、俺にあったっけか)
村松さんがプリンターで何やらスキャンをしておられる間、僕はなんとかこの人に知ってもらいたいと思い、昨日執筆した自己紹介論に基づき過去の成果(?)に関して話すことにした。(卒論と卒業設計のことです)
卒業設計で原子力災害を取り上げることになったのは、元々1000年スケールで向き合っていかなくてはならない問題を探していたからだ、ということをお話ししたとき、村松さんはこうおっしゃった。
まあ僕も何のために1000年残すことに意味を見出せなかったから1000年スパンの設計を行わなかったわけだ。当時はそんな長尺で建築を残すことなんでできない、と挫折の念を感じていたが、その行為が誰のためにもならないことに無意識のうちに気付いていたのかもしれない。
百年後に、事故が起こる以前の双葉町が持っていた本来の魅力である海水浴場を取り戻そう。それが僕の設計(構想)だったのですが、そもそも海水浴場は双葉町のポテンシャルだったのか?というところも突っ込まれた。
この海の家の遺構を見てここに海水浴場としてのポテンシャルがあると知ったのだが、そもそもここになぜ海の家が、海水浴場ができたのか。この海の家にバブル期近代建築の特徴があることから1970年代にできたものだと予想、そしてここに原子力発電所ができ、地域が金銭的に潤ったことによってできた産物がこの海の家なのではないかとご指摘いただいた。(実にその通りである)
一流の建築史家の洞察力、恐るべし。
つまり、原子力災害の起こった町の本来持っていたポテンシャルを取り戻すなら、
目指すべきは海水浴場ではない
ということだ。
また、僕は卒業設計で原発にあえて触れず中間貯蔵施設に建築を新たに建てるという方法を取ったが、村松さん的には原子力災害=科学技術の負の側面 を伝えていくならば原子力発電所を遺構として凍結保存させるのが妥当だのご意見だった。
大体1時間くらいだろうか。
村松さんとお話をさせてもらって、僕は汗びっしょりだった(笑)
まさか4月の段階でもう裏ボスとまみえることになろうとは。。。
ちゃんと話せていたかも朧げだが僕なりに全力でアタックした。
素晴らしい環境を与えてもらったことに感謝である。
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