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親離れと子離れについて、桜の時期に寄せて。

小学校の高学年の子や中学生の保護者の方と面談をすると

「あの子私の言うことは聞かないんです…」
「ちょっと言うとすぐ怒っちゃって…」
「家では何も話さないから何を考えているかわからなくて…」
「昔はかわいかったんですよ先生ほらコレ…!!!(スマホのアルバムを見せながら)」

なんて話に、それはもうしょっちゅうなります。

そして

「ウチだけなのかしら…」
「私の育て方が悪かったのかしら…」

と、お子さんに手を焼く日々を自分の家庭に特殊な状況と考えて不安になり、悩まれる方は少なくありません。むしろとても多いです。

「いやー、そんなことないですよ。さっきの面談のときのお母さんも昨日面談したお母さんもみーんな同じように嘆いてらっしゃいますから。そういうもんみたいです。私も覚えがありますよ」

と事実をお伝えすると、それだけでも少し気持ちが楽になるみたいです。

ところで「思春期」という言葉があります。
春という語を含むこの言葉ですが、語源には諸説あるそうです。

春を思うとき連想する花といえばやはり桜。

1本の桜の樹に咲く花は、その1つ1つが別々の個体ですが、「満開」という言葉の通り、それらは示し合わせたかのように精確に一斉に咲き乱れます。

そして思春期・反抗期。子どもが中学生ぐらいの年齢にさしかかると、これもまた桜の花みたいに、示し合わせたかのように精確に一斉に発現し、親たちを困惑させます。

春と花と人間の間に、私は不思議な連関を感じます。

桜の花が一斉に咲くように、いわば生物学的なプログラムによって、子による「親離れ」は時限装置のように予定通りに開始します。

そして一方、(人間の)「子離れ」は生物学的にプログラムされたものではありません。その開始時期や様態・方法は完全に親の意志と選択に委ねられているのです。

つまり子離れとは、親離れと違って「放っておいてもやってくる」という種類のものではなく、親の決意と選択が必要なものなのです。

そんなわけで、

  • 生物学的プログラムによって予定通り容赦なく始まる「親離れ」

  • 意志と選択の有り様によって開始時期が変わる「子離れ」

の間でタイミングのズレが生じて(多くの場合子ども側の「親離れ」のプログラムが先にスタートしてしまって)親が戸惑う、ということが多いように思います。

「親にとって子どもはいつまでも子ども」という言説は慈しみ深く美しいものですが、定刻通りにやってくる「親離れ」の時を親としてどのように迎えるかについての想像を鈍らせてしまうような一面もあるのかもしれません。

でも、それでもやはり、

「親にとって子どもはいつまでも子ども」という言葉は慈しみ深く美しい。

と、今日もあるお母さんと話し思うのでした。

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